重要なのは実は「道具」ということなのだが。
「暗記」に寄せて言えば、「手続き的記憶」と道具性。
簡単な例が、自転車の乗り方。一度覚えると忘れない。身体的記憶とも言う。
からだで覚えるわけだ。水泳よりシンプルだ。補助する人以外、最近の交通マナーの悪さをなんとかしたいというのはおくとして、自転車教習所が存在しないのを見てもわかる。水泳教室はあっても。
だがどちらも一度覚えれば、忘れることはない。
さて、これを「暗記」と呼ぶだろうか? あるいは、何度も乗ること、何度も泳ぐことが楽しいだろうか?
つまり同じことを繰り返して面白いだろうか? 自転車に乗ること、泳ぐことは、競技やレジャーのことを度外視すれば、それは「実用性」なので、別に面白くもなんともなくたってそれで十分なわけだ。
数学における「暗記」に少し接近するには、「九九」が一番わかりやすい。
これについては誰もが、「暗記」であると言ってはばからないだろう。
「暗算」とも言うが、この「暗」と、「暗記」の「暗」は異なる暗である。
暗算は暗黙に計算する、つまり紙も鉛筆も電卓も使わずに、暗黙的に計算するから暗算である(これは「暗黙知」と「形式知」の例題にもなる)。
暗算はあとでよくトレース(自己観測)してみると、かなりビジュアル的な操作であることがわかってくるはずだが、この暗算の視覚性の初期起動イナーシャを付与するのが「九九」である。
自己観測する余裕など小学生のわれわれにはない-幸いなことに-なので、「歌うように」覚えていく。
これは間違いなく「暗記」である。
さて、「なぜそうなるのか」を問うことも理解することもせず覚えることを「暗記」ということにする。
これはまあ一般的な解釈だろうから、まったく問題ない。理解に暗いまま記憶する、意味に暗いまま記憶するから暗記なのだろう。
ところで、「いんいちがいち」がなぜそうなのか、ということと、「にににんがし」もっと簡単に「いんにがに」がなぜそうなのか、を問うこと、もしくは理解することとは、まったく次元が違うことに気づかれるだろうか。
1×2=2は理解しやすい。1が2回と読替えてもいいし。だが、1×1=1は、1=1とどう異なるのか。
ビジュアルにはまったく同じである。静止している。動かしたくなるところを止めなければ、1×1=1の理解は破綻すると言ってもいい。
同じ暗記=九九のなかに、はやくも数学基礎論な問いを押し込めと言われれば、このように成立してしまう。
「暗記」=とにかく覚えろ
「理解」=意味をわかったうえで、覚えろ。というよりも、わかれば自ずと記憶できる
九九はそもそも、わかった上で覚える、というわけにはいかない代物である ことに注意しよう。
なおかつ、この暗記は、現代数学の展開にまで通じる「暗記」である。
数学の基礎には暗記がある。暗記こそが数学の基礎である!
などとアジルつもりは毛頭ない。
問題は、「理解して、解くことができるまで、先に進んでは行けない」という暗黙の精神主義? にあったのではないか。そこで反語的に「暗記」という宣戦布告キャッチコピーを掲げざるを得ないという、日本的? な事情があったのだろうということ。
これは「操作」である、ということをきちんと宣言して教える教育が日本には不足したのではないか、ということ。それをとりあえず「精神主義」とわかったようなわからないような語で呼んでみただけのこと。
こういう傾向は、いまはどうかしらない、高校以上で顕著であったように思う。
なかなか、標題の本のディティールに入れない。
実に深いのだ、この問題は。
数学基礎論と、その神秘主義と、半端な数学者もしくは「教育者」の権威主義と。三つどもえの戦いだからだ。
閑話休題
暗記について、数学とはまったく異なる分野の例。
たとえば<a></a>。これはアンカーの頭文字だ。錨を投げ下ろすようにリンクをはるので。
<href>。これはhyperreferenceをつづめている。<p>はパラグラフ、つまり段落。
すべての要素名を英語のフルスペルで理解して覚えるように勧めている。
他人のコードを読むときも、<p>とくれば、頭のなかではパラグラフと読んでいる。
プログラミング言語についても事情は同じだ。
これは「理解」の諸相の例題である。
深まるばかりが理解ではない。理解は制御される必要がある。
さらに、深みにはまっても、いつでも制御的に戻ってこれること。
これが理解の極意だろう。そこには当然、暗記が含まれている。
(続く)

