というよりも「国家と戦争」と主題化したほうがいいのかもしれない。
ともあれ歴史的思考の現象学と言っているのは、「歴史」というものに向き合う際の、一つの方法「現象学的還元」を指している。
もうひとつ、意識を構成する拘束条件の問題がある。
いきなり飛ぶが、「氏より育ち」というが、「氏素性」というときの「氏」は家系図などに代表される「家の歴史(物語)」である。この意味での氏(うじ)を、かっちりもつ人は、ある意味で生きやすく、窮屈であることがあるかもしれないが、「迷い」にくい存在でいられるだろう(もちろんこれは想定される人物の理念型に過ぎないが)。
その意味では歴史とは意識の拘束条件でもある。妙な揺らぎに翻弄されることなく、つねに前を向いて、「前進」するための装置ともいうべきもの。
こうした装置が国を挙げて求められることがあるのは近代の特徴の一つと言ってよいだろう(江戸が懐かしい。いや水戸の国史の逆上をよくよく受け止めるべきだろう)。
さらに飛ぶ。
日刊の新聞の成立の影響も無視できない。
直接か間接かはおき、本来ジャーナリズムJournalism(日々主義)とは、歴史主義と対をなすものではないか。その日々主義が、国家の歴史を謳うプロバガンダのメディアとしても使われていった。
これらを一端は、現象学的還元の対象として回付することで、何に向かおうというのか。
喧嘩に強くなることである(笑)。
いや日和下駄である(笑)。
冗談はさておき、ここ数年の、特にアジア史(中国、韓国に限られていると言っていいが)への意識の高まりを、プチ右傾化などと命名して捉えないほうがいい。
何かの兆候であるのは確かだが、右も左も真っ暗闇な場所から出発したほうがよさそうだ。そのためには、「反動」、「右傾化」などの小政治的言辞はまずもって邪魔である。
近未来戦争シミュレーションものがなぜ、いま「文学」賞なのか? これは小政治的言辞「以下の」噴飯物な話であることに、なぜ気づかないのか。
現象学(的還元)のおさらいには次の2冊がいいらしい。