戸田山 和久
論理学をつくる
「シャッフル」と「リニアな進行」の違いというか、まったく別の文脈に置かれることで、そういうことだったのか!と電光石火の理解というか発見が得られることがある。


例えば、数IからIIIへと段階を追って線形に積み上げる進みかたの必要性を否定するわけではないが、シャッフルされることで、リニアの進行も促進されるということはあるはずだ。(「シャッフル」とは思いつきの喩えだが、認知心理学とか認知科学などに何か定着した用語がすでにありそうな気がする)。


『数学を使わない…』に続いて小室直樹著『数学が嫌いな人のための数学』 を読み終えた。勉強の進行、後先について色々気づいたので、便宜上、『使わない』をA、『嫌いな人の』をBとしておく。

Aのほうが記述の速度は速い。Bは副題に「数学原論」とあるようなスピードになったのか。


1.Aの次にBを読むことになったのは、偶然Aを先に手にしたからに過ぎない。
2.AとBの内容、論点、題材には重複がある。A、Bに共通する著者の論法を取り出すこともできる。


3.メッセージも同じである。「数学は論理である」。もっと言えば生死に関わる命がけの論理というものがある。そういうことだ。

ではなぜ「論理学のすすめ」ではないのか。著者がそう述べているわけではないが、実は論理学よりも、論理学の重要性や効用を言う上でも、数学のほうが、意外に身近なのである。

誰でも毎日、何回かは数を扱う。もちろん言葉ももっと使う。そこには論理が意識されずとも働いている。しかし言葉(自然言語)であるゆえに、対象化しにくい。数え上げの言葉ももちろん自然言語だが(もはや)、数を扱う点で、抽象性を対象化しやすい。

しかも、著者がBで整理するとおり、ユークリッド幾何学の公理を築く過程で数学と形式論理学は、ほぼ一つと言ってよいほどのものになった(すでに)。数学の論理、センス、能力と、オペレーションは別物だが、論理をオペレーション(入試問題を解くとか)によって即座に試すこともできる。
4.記憶に間違いがなければ、Aでは前面にかなり強く押し出されていた「集合論」がBではほとんど、いやまったく登場しない。ただ、「必要十分条件」について述べた箇所で、「→(ならば)」の上下ないし左右は、集合の包含関係にあることに気づかされる(あるいは、そういうコメントがあったかもしれない。代わってBで多くの紙幅が割かれているのはケインズ学派を中心に「恒等式と方程式」を使って理論経済学のエッセンスを噛み砕く最終章である。
5.A、Bは、AからBの順で読むのと、BからAの順で読むのと、どちらが理解が進むだろうか?


これが、シャッフル読書と線形読書に関する問いである。シャッフルは、線形な進行を強く持つ本を、こちらでシャッフルして読む場合と、本の進行自体にこちらがシャッフルされる場合と雑駁に言えば二つある。
小室直樹著の2冊は、シャッフルされる方に属するが、それでも線形にするとどうなるかに意識的にさせてもくれる希有な2冊になっている。

トピックスの範囲は、数学はもちろん社会、政治、宗教、物理(科学)、そして論理学と幅広い。高校の教科で言えば、5教科5科目?に関連する話題をカバーする。英語についても学校では教えないトピックスが出てくる。現代国語は? この2冊をテキストにすれば、総合入り口になる。まあ、これは冗談半分。だが、本気でこれをやる教師がいてくれればと、無謀と知りつつどこかで思わないでもない。


野獣系を毛嫌いされる御仁もおられようが、そこは「そのつもりで」食いつけば、損のない読書であることは保証する。見晴らし? 見晴らしはリニアで。いやハイパーテキストで。

論理学についてのみ。戸田山和久著『論理学をつくる』が良い。この本は、A、Bとは逆に、論理学を噛み砕く例題に高校数学がとても気持ち良く登場する。「帰納」のステップを説明する箇所に「漸化式」を例題にあげて、まことにすっきりと「見せて」くれる。これは、文脈を換えることで訪れる電光石火な理解の一例にもなった。


戸田山 和久
論理学をつくる