日本の俳優さんで、かっこいいイケメンさんを松山ケンイチさん、三浦春馬さんと書いてきていますが、今日は藤原竜也さんについて、書きたいと思います。
藤原さんを最初に知ったのは、蜷川幸雄さん演出の身毒丸に出演するという時でした。
身毒丸は、すでに、こちらもイケメンですが武田真治さんが、演じていて当時有名な舞台でしたが、その有名な舞台を引き継ぐ新人ということで、当時話題になっていたと思います。
直接舞台を見たことはないのですが、身毒丸は寺山修司さんの舞台作品を蜷川さんが再演出したというものです。
寺山修司さんのイメージは、戦後昭和の高度成長期で日本の価値観がハチャメチャだった頃に、反体制的であったアバンギャルドな芸術家であって、今では大衆化されたテレビというメディアでは伝えられなかったものを伝えようとしていた人なのでないかと思っています。
蜷川さんも寺山修司さんと同じ年代を生き、日本のシュルレアリズムを文学として成立させ、ノーベル文学賞の候補ともされたた安部公房さんに学んだ方ということで、wikipediaによると強烈なヴィジュアルイメージで観客を巻きこむ演出方法を好むとあります。
テレビが発達していなかった昭和の時代では、テレビの中での演出も奇をてらったものや、おどろおどろしい演出がよく使われていた記憶がありますが、、こうした演出方法は、おそらく小劇場の暗い照明の中の舞台演出で、試行錯誤されてきたものを、テレビというより大衆的な明るい箱を通して、お茶の間に伝えようとしていたのではないかと思っています。
もちろん今のテレビは、自主規制も多くて、かつてのようにやりたい放題ではなく、また舞台演出のような目の前のお客さんを満足させることだけを考えて製作するような尖った芸術性を持ち合わせていないわけで、そういったアングラ的な要素をテレビに求める時代はすでに終わったと考えています。
自然界には、光があれば闇があるように、芸術界においてもアングラと呼ばれるアンダーグラウンドな表現が好まれる場合があります。
単純に言えば、正論ばかりを言う優等生よりも、人に優しい不良の方が言っていることが受け入れられてしまうような、そんな世界。
全世界の人に向けて語りかけられるやさしい言葉なんかよりも、今隣にいる人を助けたいと思う気持ちのほうが、ずっと安心できるわけです。
多くの人たちを楽しませることが目的のテレビでは、その真意は隠され歪曲化される傾向が強いですが、劇場という小さな世界では、目の前の人を楽しませることに集中できます。
誰でもが見ているわけではなくて、見たい人が見ているという舞台では、表現の制約が少なく、テレビ以前の舞台演出家たちが、アンダーグラウンドを目指した理由は、高度経済成長にのって突き進む価値観に納得のいかなかった人たちが、好んだ世界だったのではないでしょうか。
もちろんテレビは、多くの規制を抱えて大衆化しながら、こうしたアンダーグラウンドの世界とは決別をしてきた歴史がありますので、ただただ毎日テレビを見ているだけでは、けしてこのアンダーグラウンドの世界には、気がつかないわけです。
そして、その世界は飛び込んでいく勇気がない限り、得られない世界なんですよね。
その世界は、知らなければ知らないでよい世界で。美しくもなく、可憐でもない世界です。
こうしたアンダーグラウンドの世界は、誰もが気がつかないでいるうちに、いつの間にかなくなってしまっているようなそんな儚い世界である気がします。
藤原竜也さんに感じるのは、最初のデビューから、ずっとこの危うげなアンダーグラウンドの世界で生きていることを感じさせる儚さなのです。
イケメンの生活感のない儚さは守ってあげたいと思わせる重要な要素ですが、藤原竜也さんの場合は、アングラ的なイメージから出発しているので、イケメンにありがちな弱々しい儚さというよりもよりも、むしろ自らの目指すところを芸術的に昇華したいという強烈な思いにかられて、いつかふといなくなってしまうかもしれないという気持ちにさせられる儚さがあります。
だからその行動には、常に危険な香りが漂っていて、一言で言うとちょっと怪しい。
でも中身はきっと情熱的な青年なのだろうと思わせるような真摯な態度が、また魅力ですよね。
藤原竜也さんの主演映画は、「デスノート」、「カイジ 人生逆転ゲーム」と2作品を見ていますが、どうも役柄がしっくり来ていなくて、テレビや映画での映像をとおした演出以上の期待をしてしまっているところがあります。
アイドル的なイケメン俳優は、そのかっこいいイメージに自らが悩み、犯罪者などの汚れた役をやってみたり、髪をぼさぼさにしたり、ヒゲを生やしたり、自分の表現の幅を変えようと努力する姿がよく見られます。
そういう姿を見るとちょっと悲しく。どうしてそこまでして自己表現するのだろうとかおもっってしまうのですが。
しかし藤原竜也さんに限っては、最初から出発点がアンダーグラウンドであったためか、その程度の表現の仕方ではすでにもう悩んでいなくて、自分をかっこよく見せるということでお客さんの共感を得るということよりも、どうしたらもっと近い距離で直接的に伝えられるかということを、真剣に考えているように感じときがあります。
その分同世代のイケメン俳優さん比べたら一歩も二歩も先に行っていると感じさせる魅力があるのですが、その分アングラであるという儚さからは逃れられません。
アングラはアングラでよいという意見もあると思うのですが、泥沼の中で自ら輝く光を放つような演出をテレビのように安っぽい演出で終わらせないためには、もう一歩違った姿を見せてほしいと思うのです。
いやらしく猥雑な現実とかけ離れた世界の設定でも、藤原竜也さんの言っていることは、ストレートに
胸に響いてくるようなそんな映画どこかにありませんか
藤原さんの情熱的な演技が、アンダーグラウンドの世界を飛び出すような瞬間を心待ちにしています。
この藤原さんのインタビューは、とても面白かったです。
アロママッサージを受けるのが僕のリフレッシュ法


本日のキーワードは、「アンダーグラウンド」です。
キラキラのスワロフスキーが表現するのは、ロンドンの地下鉄。
アンダーグラウンド違い。残念。
ニューヨークとロックと芸術。
知らなきゃバナナのTシャツにしか見えない。ベルベットアンダーグラウンド。
エロイ香水ですね。男のナイトライフを後押しする、甘く危険なヒューゴ・イズム。
建築もひとつの芸術ですよね。

藤原さんを最初に知ったのは、蜷川幸雄さん演出の身毒丸に出演するという時でした。
身毒丸は、すでに、こちらもイケメンですが武田真治さんが、演じていて当時有名な舞台でしたが、その有名な舞台を引き継ぐ新人ということで、当時話題になっていたと思います。

直接舞台を見たことはないのですが、身毒丸は寺山修司さんの舞台作品を蜷川さんが再演出したというものです。
寺山修司さんのイメージは、戦後昭和の高度成長期で日本の価値観がハチャメチャだった頃に、反体制的であったアバンギャルドな芸術家であって、今では大衆化されたテレビというメディアでは伝えられなかったものを伝えようとしていた人なのでないかと思っています。

蜷川さんも寺山修司さんと同じ年代を生き、日本のシュルレアリズムを文学として成立させ、ノーベル文学賞の候補ともされたた安部公房さんに学んだ方ということで、wikipediaによると強烈なヴィジュアルイメージで観客を巻きこむ演出方法を好むとあります。
テレビが発達していなかった昭和の時代では、テレビの中での演出も奇をてらったものや、おどろおどろしい演出がよく使われていた記憶がありますが、、こうした演出方法は、おそらく小劇場の暗い照明の中の舞台演出で、試行錯誤されてきたものを、テレビというより大衆的な明るい箱を通して、お茶の間に伝えようとしていたのではないかと思っています。
もちろん今のテレビは、自主規制も多くて、かつてのようにやりたい放題ではなく、また舞台演出のような目の前のお客さんを満足させることだけを考えて製作するような尖った芸術性を持ち合わせていないわけで、そういったアングラ的な要素をテレビに求める時代はすでに終わったと考えています。
自然界には、光があれば闇があるように、芸術界においてもアングラと呼ばれるアンダーグラウンドな表現が好まれる場合があります。
単純に言えば、正論ばかりを言う優等生よりも、人に優しい不良の方が言っていることが受け入れられてしまうような、そんな世界。

全世界の人に向けて語りかけられるやさしい言葉なんかよりも、今隣にいる人を助けたいと思う気持ちのほうが、ずっと安心できるわけです。

多くの人たちを楽しませることが目的のテレビでは、その真意は隠され歪曲化される傾向が強いですが、劇場という小さな世界では、目の前の人を楽しませることに集中できます。
誰でもが見ているわけではなくて、見たい人が見ているという舞台では、表現の制約が少なく、テレビ以前の舞台演出家たちが、アンダーグラウンドを目指した理由は、高度経済成長にのって突き進む価値観に納得のいかなかった人たちが、好んだ世界だったのではないでしょうか。
もちろんテレビは、多くの規制を抱えて大衆化しながら、こうしたアンダーグラウンドの世界とは決別をしてきた歴史がありますので、ただただ毎日テレビを見ているだけでは、けしてこのアンダーグラウンドの世界には、気がつかないわけです。
そして、その世界は飛び込んでいく勇気がない限り、得られない世界なんですよね。

その世界は、知らなければ知らないでよい世界で。美しくもなく、可憐でもない世界です。
こうしたアンダーグラウンドの世界は、誰もが気がつかないでいるうちに、いつの間にかなくなってしまっているようなそんな儚い世界である気がします。
藤原竜也さんに感じるのは、最初のデビューから、ずっとこの危うげなアンダーグラウンドの世界で生きていることを感じさせる儚さなのです。
イケメンの生活感のない儚さは守ってあげたいと思わせる重要な要素ですが、藤原竜也さんの場合は、アングラ的なイメージから出発しているので、イケメンにありがちな弱々しい儚さというよりもよりも、むしろ自らの目指すところを芸術的に昇華したいという強烈な思いにかられて、いつかふといなくなってしまうかもしれないという気持ちにさせられる儚さがあります。
だからその行動には、常に危険な香りが漂っていて、一言で言うとちょっと怪しい。
でも中身はきっと情熱的な青年なのだろうと思わせるような真摯な態度が、また魅力ですよね。
藤原竜也さんの主演映画は、「デスノート」、「カイジ 人生逆転ゲーム」と2作品を見ていますが、どうも役柄がしっくり来ていなくて、テレビや映画での映像をとおした演出以上の期待をしてしまっているところがあります。

アイドル的なイケメン俳優は、そのかっこいいイメージに自らが悩み、犯罪者などの汚れた役をやってみたり、髪をぼさぼさにしたり、ヒゲを生やしたり、自分の表現の幅を変えようと努力する姿がよく見られます。
そういう姿を見るとちょっと悲しく。どうしてそこまでして自己表現するのだろうとかおもっってしまうのですが。
しかし藤原竜也さんに限っては、最初から出発点がアンダーグラウンドであったためか、その程度の表現の仕方ではすでにもう悩んでいなくて、自分をかっこよく見せるということでお客さんの共感を得るということよりも、どうしたらもっと近い距離で直接的に伝えられるかということを、真剣に考えているように感じときがあります。
その分同世代のイケメン俳優さん比べたら一歩も二歩も先に行っていると感じさせる魅力があるのですが、その分アングラであるという儚さからは逃れられません。
アングラはアングラでよいという意見もあると思うのですが、泥沼の中で自ら輝く光を放つような演出をテレビのように安っぽい演出で終わらせないためには、もう一歩違った姿を見せてほしいと思うのです。
いやらしく猥雑な現実とかけ離れた世界の設定でも、藤原竜也さんの言っていることは、ストレートに
胸に響いてくるようなそんな映画どこかにありませんか

藤原さんの情熱的な演技が、アンダーグラウンドの世界を飛び出すような瞬間を心待ちにしています。
この藤原さんのインタビューは、とても面白かったです。
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本日のキーワードは、「アンダーグラウンド」です。
キラキラのスワロフスキーが表現するのは、ロンドンの地下鉄。
アンダーグラウンド違い。残念。
ニューヨークとロックと芸術。
知らなきゃバナナのTシャツにしか見えない。ベルベットアンダーグラウンド。
エロイ香水ですね。男のナイトライフを後押しする、甘く危険なヒューゴ・イズム。
建築もひとつの芸術ですよね。
