子どもの頃に見て、心の底から後悔した映画があります。
1973年に公開された、ウィリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』です。

悪魔に取り憑かれた少女リーガンの変わり果てた顔。ベッドの上で激しく跳ね回る身体。
少女の喉から出ているとは思えない、低く濁った声。
そして、首が人間にはあり得ない方向へ回転する、あまりにも有名な場面。

 

 

 



映画を見終わっても、恐怖は終わらなかったんですよね。
トイレに一人で行くにも恐くてしかたがない。
電気を消すと、部屋の隅にリーガンが立っているような気がする。
布団を頭までかぶっても、あの顔がまぶたの裏に浮かぶ。
眠れば夢にまで出てくる。

当時の日本では、いまのように「ホラー映画」というよりも、
「恐怖映画」や「怪奇映画」、そして「オカルト映画」と呼ぶことが多かったと思います。
『エクソシスト』は、私にとってその「オカルト映画」という言葉そのものだったんです。

かねてから私は「一番好きなホラー映画は?」と聞かれる度に

「エクソシスト」と答えてきました。

ですから、いつかはこの映画を語らなければと思ってきました。

今日、それに挑戦しようと思います。

上手く語れるかなあ・・・好きすぎるしなあ・・・・

今回はきっと、いや間違いなく長くなりますので宜しくお願いします。

大人になってから映画「エクソシスト」を改めて見直すと、
子どもの頃とはまったく違う衝撃を受けました。
もちろん、いま見ても怖い。
でも今度は、リーガンの顔ではなく、ウィリアム・フリードキンの演出に震えたんですよね。

怪異を見せるタイミング。何も起きていない時間の緊張感。
音の使い方。日常が少しずつ壊れていく過程。
そして、悪魔祓いを派手な魔法対決としてではなく、
二人の神父が狭く凍りついた部屋で祈り続ける、肉体的な消耗戦として描き切った演出。

子どもの私は、悪魔を見て震えました。
大人になった私は、この映画を作り上げた人間の執念に震えたんです。

『エクソシスト』は、悪魔が少女に取り憑く映画です。
でも、それだけではありません。
これは、信じていたものが一つずつ役に立たなくなっていく映画なんですよね。

医学が答えを出せない。精神医学も救えない。
母親の愛だけでも娘を取り戻せない。教会はすぐには動かない。
神は姿を現さない。経験豊富な神父でさえ倒れてしまう。

では、神も科学も助けに来ない時、人間には何ができるのか。

『エクソシスト』が半世紀を超えてなお恐ろしく、

そして美しいのは、その問いに最後まで向き合った映画だからだと私は思っています。
ここから先は、物語の結末まで含めて語っていきます。


◆ 1 「元祖」なのに、いま見ると既視感があるという不思議

『エクソシスト』は1973年にアメリカで公開されました。

原作はウィリアム・ピーター・ブラッティの同名小説。
ブラッティ自身が脚本を担当し、
『フレンチ・コネクション』でアカデミー監督賞を受賞した
ウィリアム・フリードキンが監督しています。

いま初めて見る人は、もしかするとこう感じるかもしれません。
「悪魔に憑かれた少女を神父が助ける、よくある悪魔祓い映画じゃないか」
少女の顔が変わる。声が低くなる。ベッドが揺れる。聖水をかける。
神父が聖書を読み、悪魔に出ていけと命じる。

確かに、いまでは見慣れた要素ばかりです。

でも、順番が逆なんですよね。
『エクソシスト』が、後に作られた悪魔祓い映画に似ているのではありません。
後の悪魔祓い映画が、『エクソシスト』に似ているんです。

 



例えば、悪魔に憑かれた者が突然卑猥な言葉を吐くこと。
人間では知り得ない秘密を言い当てること。聖なる物を汚すこと。
神父の信仰心を言葉で揺さぶること。

いまでは悪魔映画の定番になったこれらの表現を、
世界中の観客に強烈な映像として刻み込んだのが『エクソシスト』でした。

あまりにも多くの作品が真似をしたため、元祖の方が「ありがち」に見えてしまう。
これは、ジャンルを作った作品が背負う宿命なんですよね。
ただし、『エクソシスト』の本当の魅力は、首が回ることでも、緑色の液体を吐くことでもありません。

それらの有名な場面に至るまで、

何を描いているかなんです。

リーガンが悪魔に変わる前、どんな少女だったのか。
クリスが、どれほど娘を愛していたのか。
カラス神父が、なぜ信仰を失いかけていたのか。

それを長い時間をかけて見せたからこそ、
悪魔が現れた時に、私たちは単なる怪物の登場ではなく、
一つの家庭と一人の人間が壊されていく痛みを感じるんです。

私は『エクソシスト』を見直すたび、表面だけを真似した作品と、本物の違いを感じます。
後発作品がどれほど派手になっても、この映画の悪魔祓いほど重く感じられないのは、
悪魔が出てくる前に人間を好きにさせる時間が圧倒的に違うからなんですよね。


◆2 なぜ映画は、リーガンではなくイラクから始まるのか

映画は、ワシントンD.C.に住むリーガンの家から始まりません。
遠く離れたイラクの遺跡発掘現場から始まるんです。

強烈な太陽。
砂と岩に覆われた風景。
イスラムの祈りの声。
作業員たちのざわめき。
金属を何度も打ちつける、乾いた音。
そこで発掘作業に参加しているのが、メリン神父です。

メリンは、発掘された小さな像の頭部を手にします。

犬のような顔を持ち、翼があり、異様な表情をした古代の魔神パズズです。

その後、メリンは巨大なパズズ像の前に立ちます。
画面には、老いた神父と古代の魔神。
二つの小さなシルエットが、灼熱の空の下で向かい合う。
まだ戦いは始まっていません。
でも、この構図だけで、映画のクライマックスが予告されているんですよね。

 


メリンは発掘現場で薬を飲んでいます。
彼が心臓に問題を抱えていることが、説明ではなく動作で示されるんです。
つまりメリンは、次の戦いに自分の身体が耐えられないかもしれないと知っている。

それでも、パズズの像を見てしまった。
悪が再び動き始めたことを理解したんでしょうね。

このイラク編では、時計の音や金属を打つ音も印象的です。
特に、刀鍛冶のような男たちが金属を打ち続ける音は、

まるで巨大な時計が、メリンの死までの時間を数えているようにも聞こえます。

片目が白く濁った男とメリンが視線を交わす場面もあります。
何か具体的な事件が起きるわけではないのに、

町全体がメリンを見張っているような不穏さがあるんです。

ここで描かれているパズズは、キリスト教が生まれる以前から存在していた魔神です。
つまり映画は、悪魔を単なるキリスト教の敵として描いているのではありません。
人間が神や宗教を持つよりも前から、恐怖は存在していた。
文明が進歩しても、医学が発達しても、古代から続く恐怖は姿を変えて戻ってくる。

だからイラクの古代遺跡から、

現代アメリカの少女の寝室へ物語が飛ぶことに意味があるんですよね。
石像の中にあった悪が、生身の少女の身体へ移る。
古代の恐怖が、近代的な家庭へ侵入する。

私はこのイラク編を見るたびに、「悪魔が目覚めた」というより、

メリンが自分の最後の戦いを悟った場面に見えます。

子どもの頃は早くリーガンの場面にならないかなと思っていましたが、

大人になった今では、この短いプロローグだけで一本の映画を見たような重さを感じるんですよね。


◆ 3 悪魔よりも先に描かれる、二つの家族

イラクからジョージタウンへ舞台が移ると、映画は驚くほど静かになります。

女優のクリス・マクニールと、一人娘のリーガン。
クリスは映画の撮影のため、ジョージタウンの一軒家で暮らしています。

夫とは別居中ですが、母娘の関係はとても良好です。

リーガンは、母親のために粘土で人形を作ります。
ベッドに入り込んで一緒に話す。
母親に甘える。
母親も娘を愛し、優しく接している。
この頃のリーガンは、本当にかわいいんですよね。
だからこそ、後半の変貌がつらいんです。

映画はそれと並行して、デミアン・カラス神父の日常を描きます。
カラスは神父ですが、精神医学の専門家でもあります。

悩みを抱える聖職者たちの相談に乗り、精神的なケアを行っています。

しかし、彼自身が深く疲れている。
地下鉄を乗り継ぎ、貧しい地域に住む母親を訪ねる場面があります。
母親は息子に、どうして自分を一人にするのかと訴えます。
カラスは母を愛している。
でも、神父としての生活があり、いつでもそばにいることはできない。


やがて母親は病院へ入れられ、カラスが見守れないまま亡くなります。

 



小説では、カラスが母親を施設に入れたことへの罪悪感が、映画以上に細かく描かれています。
彼は、母親が見知らぬ人々の中で孤独に死んだことを考え続けるんです。
神に仕えるために生きてきたのに、自分を産み育てた母親一人救えなかった。
人々を助ける神父が、最も身近な人を助けられなかった。
この矛盾が、カラスの信仰を壊していきます。

映画の中盤、カラスは友人に「信仰を失った」と語ります。
神父が神を信じられなくなっている。
でも仕事としては、他の神父の悩みを聞き続けなければならない。
自分を救えない人間が、他人を救う役割を与えられているんですよね。

『エクソシスト』は、

クリスとリーガンの物語、

カラスと母親の物語を交互に描いていきます。

娘を失いかけている母親。
母親を失ってしまった息子。
この二人が、やがてリーガンの寝室で出会います。
だからカラスは、偶然呼ばれた神父ではないんです。
母親を救えなかった男が、今度は別の母親の娘を救うために呼ばれる。

私は、『エクソシスト』の本当の主人公はカラス神父だと思っています。

リーガンの悪魔憑きは恐怖の中心ですが、物語として見ると、

これは母を救えなかった男に、もう一度だけ「誰かを救えるか」と

問いかける話なんですよね。


◆ 4 リーガンは、なぜ悪魔に選ばれたのか

リーガンは特別に悪い子ではありません。
宗教を冒涜したわけでもない。
誰かを傷つけたわけでもない。
むしろ素直で、母親思いの優しい少女です。

だからこそ、なぜ彼女が選ばれたのかという疑問が残るんですよね。

リーガンの家庭には、父親がいません。
父親は別の土地で暮らし、娘の誕生日にも電話をしてこない。
クリスは娘を愛していますが、映画の撮影で忙しい。
リーガンは慣れない土地にいて、同年代の友達もほとんど登場しません。
彼女は、大きな家の中で孤独なんです。

そんなリーガンが見つけた遊びが、ウィジャボードでした。
日本でいう、こっくりさんのようなものですね。
リーガンは、そのボードを通して

「キャプテン・ハウディ」という存在と会話していると母親に話します。

母親は、子どもの想像上の友達のように受け止めます。
しかし、観客は分かっています。
その名前の向こうに、何かがいる。
怖いのは、リーガンが悪魔に取り憑かれる瞬間が、

映画にも小説にも明確には描かれていないことなんですよね。

ウィジャボードを使った瞬間なのか。
キャプテン・ハウディと話し始めた時なのか。
屋根裏から音が聞こえ始めた時なのか。
リーガンが母親のベッドへ潜り込み、「ベッドが揺れた」と言った時には、

もう何かが入っていたのか。

境目が分からないんです。

悪魔はドアを蹴破って入ってくるわけではない。
最初は、寂しい子どもの遊び相手として現れる。
リーガン自身も、それが危険な存在だとは気づかない。
この「優しく近づいてくる悪」が恐ろしいんですよね。

追加映像版にあるスパイダーウォークの場面では、

リーガンが階段を逆さまに這い降りてきます。

 



現代の目で見ると、見慣れた演出に感じる人もいるでしょう。
でも、あの場面の怖さは、奇妙な姿勢だけではありません。
つい少し前まで普通の少女だったリーガンが、

家族の暮らしている階段を、人間ではない動きで降りてくる。
安全だった家の中に、完全に別の生き物が入り込んだことを見せる場面なんです。

私は、悪魔がリーガンを選んだ理由は、彼女が弱かったからだけではないと思っています。

優しく、無邪気で、母親から愛されている少女だったからこそ、そ

の姿を壊すことに意味があった。

悪魔が狙ったのはリーガンだけではなく、

彼女を愛している人たちの心だったんですよね。


 5 この映画で最も痛いのは、悪魔ではなく医療場面かもしれない

リーガンの様子がおかしくなると、

クリスは当然のように病院へ連れて行きます。

この映画は、いきなり神父を呼びません。
まず医学を頼るんです。

脳の異常。
神経疾患。
精神疾患。
薬物の影響。
思春期による情緒不安定。

考えられる可能性を、一つずつ調べていきます。


ここで登場するのが、有名な頸動脈造影検査の場面です。
リーガンの首に針が刺され、血が流れる。
医師や技師が機械的に処置を続ける。
大きな検査装置が動き、轟音が鳴る。
リーガンは恐怖と痛みに耐える。

 


この場面には悪魔が出てきません。
でも、本当に怖いんですよね。
悪魔の特殊メイクよりも、実際に存在する医療行為の方が生々しい。

映画の公開時、悪魔の場面ではなく、

この検査場面で気分を悪くした観客も多かったと言われています。

医師たちはリーガンを傷つけようとしているわけではありません。
救おうとしている。
でも、正しい検査を重ねるほど、リーガンは消耗していく。

原因は分からない。
結果が出ない。
新しい医師が呼ばれる。
また別の可能性が提示される。
小説では、この診断の過程が映画以上に長く描かれています。

リーガンの症状が、ヒステリーなのか、

統合失調症的なものなのか、神経の病気なのか、薬物なのか、暗示なのか。
あらゆる可能性が検討される。
そして、そのすべてが失敗するんです。

読んでいる側も、クリスと一緒に疲れ果てていきます。
クリスは裕福な女優です。
治療費を払える。
専門家を呼べる。
設備の整った病院に行ける。
それでも、娘を救えない。

ここが重要なんですよね。

 



医療を受けられないから宗教へ逃げるのではありません。
現代医学にできることを徹底的に試し、

すべて失敗した末に、悪魔祓いという選択肢が残る。

しかも、悪魔祓いを最初に提案するのは神父ではなく、医師なんです。
リーガンが自分を悪魔憑きだと思い込んでいるのなら、

本物らしい悪魔祓いを見せることで、その思い込みを解けるかもしれない。

医師は、宗教を信じたのではなく、

宗教を心理療法として利用しようとするんです。

私はこの医療場面を見るたび、

科学が冷たいと言いたいのではないと感じます。

医師たちは真剣に助けようとしている。それでも助けられない。

その「善意が役に立たない恐怖」が、悪魔の顔以上に現実的で怖いんですよね。


6 科学と宗教、どちらが正しいかという映画ではない

『エクソシスト』は、

「科学では説明できない悪魔を宗教が退治する映画」と紹介されることがあります。
でも、実際にはそれほど単純ではありません。

医学はリーガンを救えない。
では、教会ならすぐに救ってくれるのか。
教会も簡単には動きません。

カラス神父自身が、悪魔憑きを疑っているからです。
彼は神父であると同時に、精神科医です。
かつて悪魔や魔女の仕業とされた現象が、

精神疾患や神経疾患として説明されてきた歴史を知っている。

悪魔憑きと決めつけることで、病気の人間を傷つける危険も知っている。
だから、クリスから悪魔祓いを頼まれても、すぐには承諾しません。

まずリーガンに会い、調査を始めます。
映画では、カラスが水道水を聖水だと偽ってリーガンにかける場面があります。
リーガンは激しく反応する。
しかし、実際には聖水ではない。
つまり、その反応だけなら、

リーガンが自分を悪魔憑きだと思い込んでいる可能性を示しているんです。

カラスは、悪魔を信じたいのではありません。
むしろ悪魔ではないことを証明しようとしている。


小説では、カラスの調査がさらに細かく描かれています。

 



リーガンが話す外国語らしい言葉は、本当に未知の言語なのか。
録音された声を逆再生すると何が聞こえるのか。
彼女が知っているはずのない情報は、家の中の誰かから聞いた可能性がないのか。
超常現象に見える出来事を、一つずつ疑っていくんです。
ところが調べれば調べるほど、説明できないことが残る。


カラスは信仰深いから悪魔と戦うのではありません。
疑い続けた結果、悪魔の存在を認めざるを得なくなるんです。


ここで皮肉な逆転が起きます。

悪魔が存在するなら、神も存在するのかもしれない。
神を信じられなくなった神父が、悪魔によって神の存在へ引き戻される。

悪魔は人間を神から遠ざけたいはずなのに、

自分が姿を現したことで、神の存在まで証明してしまうんですよね。

私は、この矛盾が『エクソシスト』の知的な面白さだと思っています。

科学が負けて宗教が勝つのではない。科学も宗教も簡単には答えを出せず、

その間で苦しむ一人の人間が、最後に何を選ぶかを描いているんですよね。


7 三人の神父は、信仰の三つの段階を表している

『エクソシスト』には、

信仰との距離が異なる三人の神父が登場します。

ダイアー神父。
カラス神父。
メリン神父。

ダイアー神父は、酒や音楽を楽しみ、冗談を言う人物です。
クリスの家で開かれたパーティーでは、ピアノを弾きながら歌う。
宗教を背負いすぎず、普通の人間として生活しているように見えます。
信仰を持っていますが、その信仰によって精神をすり減らしてはいないんですよね。

カラスは、その反対です。
神父として正しくありたい。
精神科医として合理的でありたい。
息子として母を助けたい。
すべてを果たそうとして、すべてに失敗したと思っている。
信仰があるから苦しいんです。
もし神父でなければ、母親の近くに住み、もっと世話ができたかもしれない。
神に仕える道を選んだことで、母を孤独に死なせたのではないか。
その疑問が消えない。

そしてメリンは、すでに疑いを越えた場所にいます。
メリンも考古学者ですから、知性や科学と無縁な人物ではありません。
それでも信仰を失っていない。
なぜなら、過去に悪魔と対峙した経験があるからです。
悪魔を実際に見たことで、悪魔の存在だけでなく、神の存在にも確信を持つようになった。

カラスが「本当に悪魔なのか」と調べ続ける人なら、

メリンは「悪魔が何を狙っているのか」を知っている人です。

追加映像版には、悪魔祓いの途中で二人が廊下へ出る場面があります。
カラスが「なぜこの少女なんですか」と問う。
メリンは、悪魔の目的は、人間を醜く見せ、神が人間を愛していないと思わせることだと説明します。
この会話は初公開版では削られています。


フリードキンは説明を減らし、観客に考えさせたかった。
一方、原作者ブラッティは、悪魔の宗教的な目的を明確にしたかった。
どちらも分かるんですよね。

ダイアーは、信仰を抱えながら普通に生きる人。
カラスは、信仰を疑い苦しむ人。
メリンは、疑いを越えて信仰を確立した人。

私はこの三人を見ると、信仰は強ければ楽になるものではないと感じます。

カラスのように真剣だからこそ壊れそうになる人もいる。

だからこそ、彼が最後に見つける答えには、メリンとは違う重みがあるんですよね。


8 悪魔の本当の目的は、リーガンを殺すことではない

リーガンに憑いた悪魔は、なぜ彼女をすぐに殺さないのでしょうか。
殺すだけなら簡単なはずです。
ベッドを激しく動かせる。
身体を傷つけられる。
人間離れした力を出せる。
それでも悪魔は、時間をかけてリーガンを変えていきます。

顔を醜くする。
声を変える。
母親を罵倒する。
神父を嘲笑する。
聖なる物を汚す。


最も衝撃的なのは、十字架を使って自分の身体を傷つける場面でしょう。
十字架は、本来なら救いや信仰の象徴です。
しかし悪魔は、それを暴力と性的冒涜の道具へ変えてしまう。

しかもリーガンに、母親の顔をその傷口へ押しつけさせる。
これは、単なる残酷描写ではありません。
母と娘の愛情を、最も醜い形で汚そうとしているんです。

悪魔の目的は、リーガンの身体を奪うことだけではない。
リーガンを見た人々に、こう思わせることです。
人間など、所詮は醜い肉の塊ではないか。
神が本当に人間を愛しているなら、なぜこの少女を救わないのか。
神がいるなら、なぜ沈黙しているのか。

だから悪魔は、無邪気な少女を選ぶ。
最初から悪い人間を操っても、人間の醜さを証明したことにはならない。
優しく、愛されている少女をここまで変えるからこそ、周囲の人間は絶望する。
そして悪魔が最も狙っているのが、カラスの信仰です。

カラスは母親の死によって、すでに傷ついています。
悪魔は、その傷を利用します。
母親の声で呼びかける。
母親の姿を一瞬見せる。
「お前は私を見捨てた」と言うように、カラスの罪悪感へ入ってくる。

 



悪魔は、すべて嘘をつくわけではないんですよね。
本当のことを混ぜる。
だから拒絶できない。

私は、悪魔の強さは、ベッドを浮かせる力ではないと思っています。

その人が最も触れられたくない傷を見つけて、本当の言葉を使って攻撃する。

そこに『エクソシスト』の悪魔の恐ろしさがあるんですよね。


9 悪魔は本当にリーガンの中だけにいたのか

物語を素直に見れば、悪魔は実在しています。
リーガンの首は回る。
身体は浮く。
人間では知り得ない情報を知っている。
複数の人間が超常現象を目撃している。

ですから、「すべて精神疾患でした」と説明するのは無理があるでしょう。
それでも、この映画には心理劇として読む余地があります。
リーガンの異常行動は、孤独や家庭環境、何らかのトラウマが原因ではないのか。


クリスやカラスが目撃した怪異の一部は、

恐怖と罪悪感によって誇張された主観ではないのか。

一度「悪魔に憑かれている」と考えた大人たちが、

リーガンのあらゆる行動を悪魔の証拠として見始めたのではないか。

現実の歴史でも、精神疾患や神経疾患、解離状態、けいれん、

トランス状態などが、悪魔憑きとして扱われた例があります。

現代では、急激な人格変化や不随意運動を引き起こす脳炎など、

過去には悪魔憑きと判断されても不思議ではない病気も知られるようになりました。

また、一度「この人は悪魔に憑かれている」と決めてしまうと、

その結論に合う証拠ばかりを探してしまいます。

聖水を嫌がれば、悪魔だからだ。
聖水に反応しなければ、悪魔がこちらを欺いている。
知らない言葉を話せば、悪魔の力だ。
意味のない言葉なら、古代語なのかもしれない。
どんな反応をしても、悪魔説が否定されない構造になるんですよね。


私は、映画の怪異をすべて妄想だと言いたいわけではありません。
むしろ悪魔は実在する。その上で、人間の内側にある恐怖や罪悪感を利用して現れる。
そう考えると、悪魔はリーガンの中だけにいたのではないかもしれない。

 



娘を救えないクリスの恐怖の中。
母を救えなかったカラスの罪悪感の中。
患者を分類し、説明できないものを排除しようとする制度の中。

悪魔は外から来た存在でありながら、

人間の内側にある暗いものを使わなければ力を持てない。

私は、この二重性があるから『エクソシスト』は宗教を信じる人にも、

信じない人にも怖いのだと思います。悪魔の存在を否定しても、

人間の孤独や罪悪感までは否定できないんですよね。


10 ウィリアム・フリードキンは、なぜここまで生々しく撮ったのか

大人になって『エクソシスト』を見直して、

最も感動したのはフリードキンの演出です。


彼は、悪魔を幻想的に飾りません。
カメラは、出来事を冷静に観察します。
病院では、本物の医療記録のように検査を見せる。


カラスの生活では、地下鉄や貧しいアパート、病院の無機質な廊下を淡々と映す。
クリスの家では、母娘の普通の会話や食事を積み重ねる。
だから怪異が起きた時も、別の映画が始まったようには感じないんです。

現実の中に、そのまま異常が入り込む。
例えばリーガンがパーティーに現れ、

宇宙飛行士に向かって「あなたはそこで死ぬ」と告げ、

床に放尿する場面があります。

派手な音楽はありません。
大勢の大人たちが楽しく過ごしていた空間へ、

突然、子どもの異常な言動が入り込む。

何が起きたのか理解できないまま、

リーガンは母親に抱えられて退場する。

この場面が怖いのは、悪魔の顔が出ていないからなんですよね。
まだ病気かもしれない。
夢遊状態かもしれない。
でも、何かが確実におかしい。

悪魔祓いの場面では、部屋を実際に極端な低温にし、

俳優たちの白い息を撮影したと言われています。
白い息は後から足した特殊効果ではありません。
俳優たちが本当に寒さに耐えている。
そのため、祈りが精神的な行為であると同時に、肉体的な苦行として見えるんです。

 



神父たちは息を切らし、汗をかき、疲れ果てる。
聖書を読むだけで悪魔が消えるわけではない。
何度祈っても、悪魔は笑う。
何度命じても、少女の身体から出ていかない。
それでも続けるしかない。

フリードキンは、悪魔祓いを魔法ではなく労働として撮ったんですよね。
祈ることが、身体を削る作業として見える。

私は、この生々しさこそが『エクソシスト』を特別な映画にしたと思っています。

俳優を追い詰めた撮影方法には現在なら問題視される部分もありますが、

画面から伝わる疲労や緊張は本物です。その危うさまで含めて、

映画そのものが何かに取り憑かれたような迫力を持っているんですよね。


11 悪魔の姿よりも怖い、音の演出

『エクソシスト』は、音の映画でもあります。

イラク編で鳴り続ける金属音。
屋根裏から聞こえる物音。
医療機械の轟音。
リーガンの呼吸。
ベッドがきしむ音。
悪魔の声。


そして、マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」。


この曲は、もともと『エクソシスト』のために作られた音楽ではありません。
長大な音楽作品の一部分が映画に使われました。
だから、いわゆる恐怖映画のテーマ曲とは少し違うんですよね。

 


露骨に恐ろしい音ではない。
美しく、規則的で、どこか冷たい。
その旋律が繰り返されることで、平穏な日常の後ろに、

機械のような何かが動いている感じがするんです。

しかも映画では、この曲を何度も大げさに流しません。
有名な曲なのに、使われる場面は限られています。
だから一度鳴ると、強く印象に残る。

屋根裏の音も同じです。
クリスは最初、ネズミがいるのではないかと考えます。
家の使用人は、ネズミはいないはずだと言う。
それでも、夜になると何かが動く。
姿は見えない。
音だけがする。



この時点で、家は安全な場所ではなくなっています。
恐怖は、怪物が見えた瞬間に始まるのではありません。

姿が見えないのに、確実に何かがいると感じた時から始まるんですよね。
悪魔の声を担当したマーセデス・マッケンブリッジの演技もすさまじいです。
リーガンの口から出てくるのに、年齢も性別も分からない声。


少女の声と完全に切り離されているため、

身体の中に別の存在がいることを、映像より先に音が証明してしまう。

私は子どもの頃、リーガンの顔ばかり覚えていました。

でも大人になって見直すと、怖さの半分以上は音が作っていると感じます。

画面を見なくても、あの呼吸や声を聞くだけで、

リーガンの部屋へ連れ戻されてしまうんですよね。


12 メリン神父の登場は、なぜあれほど美しいのか

夜のジョージタウン。
雪のような白い光。
街灯。
霧。

タクシーから降りたメリン神父が、クリスの家の前に立つ。
窓から漏れる光が、黒い帽子とコートを着た老人を照らす。
映画史に残る一場面です。

 



ホラー映画の一場面なのに、宗教画のように美しいんですよね。


この場面で、冒頭のイラクとジョージタウンがようやくつながります。
古代の遺跡でパズズと向き合った老人が、現代アメリカの少女の寝室へやってきた。
メリンは、英雄のようには登場しません。

身体は小さく、老いている。
心臓にも問題がある。
観客は、この人が生きて帰れないのではないかと感じる。
それでも、玄関に立つ姿には圧倒的な強さがあります。


メリンはリーガンの姿を見ても、カラスほど驚きません。
悪魔の言葉にも反応しない。
彼は悪魔が何者かを調べる必要がないからです。


悪魔が何をするかを、すでに知っている。
人間を絶望させる。
愛されていないと思わせる。
神はいないと思わせる。
だからカラスに、「悪魔の言葉を聞くな」と警告するんです。

悪魔との戦いは、知識を競う戦いではありません。
自分の心の中に、悪魔の言葉を入れないための戦いなんですよね。


カラスは母親の声を聞けば動揺する。
メリンは、悪魔がその反応を狙っていると知っている。

私はこの登場場面を見るたび、メリンは助けに来たのではなく、

自分の死に場所へ来たように感じます。それでも逃げない。

その静かな覚悟が、派手なヒーローの登場よりもはるかに格好いいんですよね。


13 悪魔祓いは、呪文による戦いではなく「耐える戦い」

近年の悪魔祓い映画では、神父が武器を持ったり、

悪魔と肉体的に戦ったりする作品もあります。


それはそれで楽しいんです。
でも、『エクソシスト』の悪魔祓いは、もっと地味です。
神父たちが使うのは、聖水、十字架、聖書、そして祈り。
やることは、悪魔に出ていけと命じ、祈りを繰り返すことです。

「キリストの力がお前を追い払う」
何度も唱える。
悪魔は笑う。
吐きかける。
神父を罵倒する。
身体を浮かせる。
家具を動かす。
母親の声を使う。
それでも祈る。

この反復が、本当に苦しいんですよね。

一度唱えれば光が放たれ、悪魔が消えるわけではない。
祈りが効いているのかどうかも分からない。
神が聞いているのかも分からない。
それでも言葉を繰り返す。

信仰とは、確実な効果が確認できる行為ではないのかもしれません。
答えがなくても続ける。
意味がないように見えても続ける。
だから、信仰を失いかけているカラスには、この戦いが最も苦しい。

メリンは祈れる。
カラスは祈りながら、心のどこかで「本当に意味があるのか」と疑っている。
悪魔は、そのわずかな疑いを見逃さない。
そして、神父たちの肉体も限界に近づいていきます。
メリンは薬を飲み、何度も休む。
カラスも疲れ果てる。

 


一方の悪魔は、少女の身体を使いながら、ほとんど疲れていないように見える。
人間の側だけが消耗していく。
私はこの悪魔祓いを見るたび、信仰は強い言葉を叫ぶことではなく、

答えがなくても同じ祈りを続けることなのかもしれないと思います。

だから派手ではないのに、見ているこちらまで息が苦しくなるんですよね。

14 メリンは敗れ、カラスは怒り、自分を差し出す

悪魔祓いの途中、メリンはリーガンの部屋で倒れます。
カラスが部屋へ戻ると、メリンは動かなくなっている。
悪魔は、リーガンの身体を使って笑っています。

カラスは怒りに支配されます。
リーガンを殴り、悪魔に向かって叫ぶ。


「俺に入れ!」

この瞬間、カラスは正式な悪魔祓いの手順から外れているんですよね。
メリンが繰り返してきた祈りを捨て、感情で動く。
神父として正しい行動とは言えない。
無謀で、自殺的です。
でも、だからこそ人間的なんです。

カラスは、神が奇跡を起こすのを待たない。
教会の力にも頼らない。
自分の身体を差し出す。



悪魔は、カラスへ移ります。
一瞬、カラスの顔が悪魔の顔になる。
彼はリーガンの首を絞めようとする。
しかし、窓の近くで悪魔の支配に抵抗し、手を止める。
そして、自ら窓を破って飛び降りる。

長い階段を、身体が転がり落ちていく。
子どもの頃は、ただ恐ろしい場面でした。

悪魔が神父へ移り、神父が窓から落ちる。
それだけに見えていた。
大人になって見ると、あまりにも悲しく、あまりにも美しい。

カラスは、母親を救えませんでした。
その罪悪感を消すことはできない。
でも今度は、別の母親の娘を救った。

過去をやり直したわけではない。
母親が戻ってくるわけでもない。
それでも、同じように苦しむ誰かを救うことはできた。

私は、カラスが「俺に入れ」と叫ぶ場面を、

信仰を取り戻した瞬間だとは単純に思っていません。

 

むしろ神への怒りも、悪魔への怒りも、

自分への怒りも全部混ざっている。

 

でも、その混乱の中で他人を救うことを選んだ。

それが、彼にとっての信仰だったんですよね。


15 カラス神父は、悪魔に負けたのか

メリンは死にました。
カラスも死にます。
二人の神父を殺したのだから、悪魔の勝利に見えるかもしれません。

実際、シリーズの紹介では「悪魔払いは失敗した」「後味の悪い結末」と説明されることもあります。
でも、私はそうは思わないんです。
リーガンは救われました。
悪魔は、少女の身体から追い出された。


カラスは悪魔を自分へ移した後、完全に支配される前に、自分の意志を取り戻した。
そして階段の下で、友人のダイアー神父から最期の告解を受ける。
ダイアーは「自分の罪を悔いますか」と問いかけます。
カラスは声を出せません。
それでも手を握り、目で答える。

身体は階段を転げ落ちました。
でも、魂はそこで上っていく。
カラスは、神父として立派な説教をしたわけではありません。
自分の信仰について、理論的な答えを出したわけでもない。


一人の少女を救うために、自分の命を使った。
その行為によって、神父であることを証明したんです。
神は最後まで姿を現しません。
天から光を降らせることもない。
悪魔を直接追い払うこともしない。

リーガンを救ったのは、一人の人間の選択です。
ここに、この映画の希望があると思います。

神が直接助けてくれる世界ではない。
神が沈黙しているように見える世界で、それでも人間が他者を救うために行動する。

私は、カラスは肉体的には敗れたけれど、

悪魔の目的には勝ったと思っています。

 

悪魔は人間を絶望させ、愛も信仰も無意味だと証明したかった。

でもカラスは、命を捨てて他人を救った。

悪魔が最も否定したかったものを、最後に見せつけたんですよね。


16 ラストでリーガンが神父の襟にキスする意味

事件が終わり、クリスとリーガンはジョージタウンを去ることになります。
リーガンは、悪魔に憑かれていた間の記憶を失っているようです。

ダイアー神父が見送りに来ます。
リーガンは、彼の聖職者用の襟を見つめます。
そして、ダイアーの頬にキスをする。

なぜ、そうしたのでしょうか。
リーガンは、カラスの犠牲を覚えていない。

メリンが祈っていたことも、

ダイアーがカラスの最期に立ち会ったことも知らないはずです。
それでも、身体のどこかに何かが残っている。
自分を救ってくれた人たちへの感謝。


恐怖の中で受け取った愛。
あるいは、悪魔に汚されても完全には消えなかった信仰の記憶。
悪魔はリーガンの身体を使い、聖なるものを汚しました。
十字架を暴力の道具にした。
神父を嘲笑した。
でも最後にリーガンは、自分から聖職者の印に触れる。
悪魔によって壊された関係が、ほんの小さな動作で結び直されるんです。

初公開版のラストでは、ダイアーが階段を見つめるところで終わります。
追加映像版では、その後にキンダーマン警部が現れ、ダイアーを映画へ誘う場面があります。
この二人の友情は、後の『エクソシスト3』へつながっていきます。

カラスの死は、ただ人間を奪っただけではない。
残された二人をつなげた。

一人の犠牲から、新しい関係が生まれているんですよね。

私は、リーガンのキスがあるから、この映画は絶望だけで終わっていないと思います。

神の奇跡ではなく、少女の小さな動作で救いを見せる。

フリードキンの抑制された演出の中で、ここだけは本当に優しいんですよね。


◆ 17 原作小説は、映画以上に「悪魔ではない可能性」を追い続ける

原作小説は、ウィリアム・ピーター・ブラッティが1971年に発表しました。
映画と大きな流れは同じですが、

小説では「本当に悪魔なのか」という疑いが、映画以上に長く続きます。

カラスは悪魔憑きを証明しようとするのではありません。
悪魔憑きではないことを証明しようとするんです。
例えば、リーガンが知らないはずの言葉を話したとしても、本当に未知の言語なのかを調べる。
録音を分析する。
家の中に悪魔学の本がなかったか調べる。
リーガンが他人から情報を聞いていなかったか確認する。
聖水への反応も、暗示によるものではないかと疑う。

小説では、バークの死や教会の冒涜事件をめぐるミステリー要素も映画以上に強く描かれます。
キンダーマン警部は、バークの死が事故ではない可能性を調べる。
リーガンが殺したのか。
もしそうなら、十二歳の少女にどうやって大人の男性の首をねじる力があったのか。

教会で見つかった汚れや彫刻の冒涜は、誰が行ったのか。
リーガンとのつながりはあるのか。

こうした謎を積み上げることで、

悪魔憑きという結論が少しずつ現実味を持っていきます。

また、小説のカラスは映画以上に懐疑的です。
彼は神父でありながら、悪魔の存在を認めることを恐れているようにも見える。
なぜなら、悪魔を認めれば、神についても答えを出さなければならないからです。
カラスは、神を信じたい。
でも信じられない。
悪魔の存在だけを認めるわけにはいかない。
この苦しみが、小説では彼の内面として細かく書かれています。

一方、映画はカラスの表情や沈黙でそれを見せる。
ジェイソン・ミラーの疲れた目、前かがみの姿勢、言葉を発する前の間。
小説で何ページもかけて説明される葛藤を、映画では一つの顔で見せるんですよね。

私は、映画を見た後に小説を読むと、カラスがリーガンの部屋へ入るたびに、

どれほど多くの可能性を頭の中で検討していたかが分かって面白いと思います。

そして小説を読んだ後に映画へ戻ると、

ジェイソン・ミラーの沈黙が何倍も重く見えるんですよね。


◆ 18 モデルになった1949年の事件

『エクソシスト』には、着想源となった実際の事件があります。
1949年、アメリカで少年に対して悪魔祓いが行われたと報じられた事件です。


当時、ジョージタウン大学の学生だったブラッティは、

その新聞記事を読んで強い興味を持ったと言われています。
実際の事件では、憑依されたとされたのは少女ではなく少年でした。

家の中で物音がする。
ベッドや家具が動く。
少年の身体に傷や文字のようなものが現れる。
聖なる物に反応する。
複数の神父が長期間にわたり悪魔祓いを行う。

そうした出来事が、後の小説や映画へ形を変えて取り入れられました。
映画でリーガンの腹部に「HELP ME」と浮かび上がる場面があります。
これは、実際の事件で少年の身体に文字や傷が現れたという話を思わせます。
ベッドが揺れる現象、聖職者への暴言、異常な力なども、事件の記録と共通しています。


ただし、その事件で本当に超常現象が起きたのかは分かりません。
少年のいたずらだったという説。

宗教的で迷信深い家庭環境が影響したという説。
精神的、神経学的な問題があったという説。
大人たちが一度悪魔憑きだと考えたため、

すべての出来事をその証拠として解釈したという説。
さまざまな見方があります。

私は、実際に悪魔がいたかどうかよりも、

ブラッティがその事件をどう作り変えたかの方が重要だと思っています。

実際の事件では、長期間の儀式の末に少年が回復したとされています。
しかしブラッティは、単に「神父が悪魔を追い払いました」という物語にはしなかった。
少年を少女に変えた。
無神論的な母親を置いた。
信仰を失った神父を主人公にした。
そして最後に、神の奇跡ではなく、一人の人間の自己犠牲によって少女を救う物語にした。

私は「実話を基にした映画だから怖い」というだけでは、

『エクソシスト』の魅力を語り切れないと思います。

現実の怪奇事件を、信仰を失った人間がもう一度誰かを救おうとする物語へ変えた。

そこにブラッティの作家としての力があるんですよね。


◆ 19 シリーズは迷走しながら、同じ恐怖を繰り返さなかった

第1作の歴史的な大ヒットによって、『エクソシスト』はシリーズ化されました。
ただ、このシリーズは一本の物語がきれいに続いているわけではありません。
かなり複雑なんですよね。

『エクソシスト2』では、成長したリーガンが再び登場します。
メリン神父とパズズの過去が描かれ、物語はアフリカや精神世界へ広がっていく。
第1作の閉ざされた寝室から、超能力や神話的な世界へ大きく方向転換しています。
イナゴの大群や精神の同調装置など、強烈な映像はあります。
ただ、第1作の生々しい現実感を愛する人ほど、戸惑う作品でもあるんですよね。

 



その後に作られた『エクソシスト3』は、リーガンの物語を追いません。
第1作のキンダーマン警部とダイアー神父を中心に、カラス神父の死が残した傷を掘り下げます。


若きメリン神父を主人公にした前日譚も作られました。
しかも同じ基本設定から、『エクソシスト ビギニング』と

ドミニオン』という二つの異なる映画が生まれています。

『ビギニング』は、残酷描写や恐怖場面を増やした

比較的エンターテインメント色の強い作品。
『ドミニオン』は、戦争で信仰を失ったメリンが、

悪魔との対決を通して再び信仰を取り戻す過程を丁寧に描いた作品です。

さらにテレビシリーズが作られ、

2023年にはクリス・マクニールを再登場させた『エクソシスト 信じる者』も公開されました。

シリーズ全体を見ると、作品ごとにジャンルがかなり違います。

第1作は、医療ドラマであり家族劇。
第2作は、神話的な超能力映画。
第3作は、連続殺人を追う刑事サスペンス。
前日譚は、戦争と信仰喪失の物語。
成功している作品もあれば、そうでない作品もある。

でも、毎回同じ少女をベッドで暴れさせるだけではなかった。

悪魔とは何か。
信仰とは何か。
悪魔に出会った後、人間はどう生きるのか。
異なる方法で描こうとしてきたシリーズなんです。

私は、この迷走も含めて『エクソシスト』シリーズらしいと思っています。

第1作が完璧すぎるため、誰も同じ方法では超えられない。

それなら別の方向へ行くしかない。その苦闘が、シリーズの歴史そのものなんですよね。


◆ 20 『エクソシスト3』は、第1作の傷口を十五年後に開く映画

シリーズの中で、第1作と一緒にぜひ見てほしいのが、

1990年公開の『エクソシスト3』です。

原作者ウィリアム・ピーター・ブラッティが、

自作小説『レギオン』を自ら監督した作品です。
主人公は、キンダーマン警部。

第1作で、バークの転落死や教会の冒涜事件を調べていた刑事ですね。
彼は、十五年前に処刑された「双子座殺人鬼」と同じ手口の連続殺人事件を追っています。
しかし、事件には不可解な点があります。

手口は同じ。
警察しか知らない非公開情報まで再現されている。
なのに、現場に残された指紋は事件ごとに違う。

同じ犯人なら、なぜ指紋が違うのか。
別々の犯人なら、なぜ処刑された殺人鬼の秘密を知っているのか。

キンダーマンは合理的に捜査を進めます。
でも、調べれば調べるほど、人間の犯罪では説明できなくなっていく。

この構造は、第1作とよく似ています。
第1作では、医学的に調べるほど悪魔へ近づいた。
『3』では、警察捜査を進めるほど悪魔へ近づいていく。

合理主義が簡単に否定されるのではありません。
合理的に考え抜いた結果、合理では説明できない場所へ到達してしまうんですよね。

そして病院の隔離病棟には、

死んだはずのカラス神父にそっくりの男が収容されています。
その身体の中から話しかけてくるのは、処刑された双子座殺人鬼です。

 



悪魔は、第1作で自分をリーガンから追い出したカラスに復讐するため、

カラスの死体を利用し、殺人鬼の魂を入れた。
これは本当に意地の悪い復讐です。
カラスを殺すだけでは足りない。
少女を救った神父の身体を、連続殺人鬼の器にする。
カラスと関係のあった人々を、その身体を使って殺していく。

「お前の犠牲には意味がなかった」と、

死後まで言い続けるような復讐なんですよね。

私は、『エクソシスト3』を見ると、

むしろ第1作でカラスが勝っていたことが分かると思っています。

悪魔が十五年たっても許せず、ここまで執念深く復讐する。

それはカラスの行為が、悪魔にとって忘れられない敗北だったからなんですよね。


◆ 21 『エクソシスト3』の病院廊下が、なぜあれほど怖いのか

『エクソシスト3』には、映画史に残る恐怖場面があります。

夜の病院。
長い廊下。
カメラは遠くから固定されています。
看護師が受付で作業をする。
廊下を歩く。
部屋を確認する。
戻ってくる。
警備員や患者が通る。
何も起きません。

本当に、何も起きない。
観客は画面の中を探し始めます。
奥の部屋に誰かいるのではないか。
看護師の背後に何かが動くのではないか。
どこかの扉が開くのではないか。

でも、何も起きない。
緊張し続けることに疲れ、ほんの少し気を抜く。
その瞬間、白い布をかぶり、

巨大なハサミを持った人物が看護師の背後へ現れる。

一瞬です。

すぐに画面が切り替わる。

 



この場面は、突然出てきて驚かせるから凄いのではありません。
その前の、何も起こらない時間が完璧なんです。
観客自身に画面を監視させる。
自分から恐怖を探させる。
そして、探すことに疲れた瞬間に襲う。

現在のジャンプスケアは、音を大きくして突然何かを映すものが多いですよね。

でも『エクソシスト3』は、驚かせる前に時間と空間を支配する。
観客の呼吸まで演出しているんです。

キンダーマンとダイアー神父の友情も、この映画の大きな魅力です。
二人は一緒に映画を見に行き、食事をしながら感想を言い合う。
年老いた男二人の、どうでもいい会話が本当にいいんですよね。
だからダイアーが事件に巻き込まれた時、単なる犠牲者の一人では終わらない。

悪魔は、人間が大切にしているものを壊す。
第1作では母と娘の愛。
『3』では、老いた男たちの穏やかな友情です。

私は『エクソシスト3』の怖さは、悪魔が暴れることではなく、

安心した瞬間に日常の奥から現れることだと思っています。

第1作の真似をせず、第1作と同じように「日常が破られる恐怖」を別の方法で描いた。

だから優れた続編なんですよね。


◆ 22 初公開版と追加映像版、どちらを見るべきか

『エクソシスト』には、1973年の初公開版と、

後に追加映像を加えたバージョンがあります。

追加版には、有名なスパイダーウォークが入っています。
また、メリンが悪魔の目的を説明する場面や、

キンダーマン警部とダイアー神父の交流も追加されています。

『エクソシスト3』まで見るのであれば、

キンダーマンとダイアーが親しくなる場面がある追加版は、

シリーズのつながりが分かりやすいです。

悪魔がなぜリーガンを狙うのかも、メリンの言葉で明確になります。

ただし、初公開版には、説明を削った強さがあります。
悪魔の目的を説明しすぎない。
キンダーマンとダイアーの関係も、余韻の中に残す。
スパイダーウォークのような派手な場面もあえて見せない。
何が起きたのかを、観客に考えさせる。

これはフリードキンの考え方なんでしょうね。
一方、ブラッティは宗教的な意味や救済を、もう少し明確にしたかった。

どちらが正しいという話ではありません。
フリードキンの冷たく曖昧な映画。
ブラッティの信仰的な物語。

二つの方向が、『エクソシスト』の中には最初から共存していたんです。

私は、可能であれば両方見てほしいと思います。

最初に初公開版の抑制された怖さを味わい、その後に追加版を見て、

何が補われたのかを確かめる。

 

同じ映画なのに、説明が増えることで意味が変わる。

その違いも面白いんですよね。


◆ 23 子どもの頃より、大人になってからの方が怖い

子どもの頃の私は、リーガンが怖かった。

悪魔の顔。
低い声。
黄色い目。
回転する首。
揺れるベッド。
暗い寝室。

夢に出てきたのは、目に見える恐怖でした。
大人になった今は、別のものが怖いんです。

 



愛する娘を救えず、病院から病院へ連れ回す母親。
正しい検査をしているのに、少女を苦しめてしまう医師たち。
母親を施設へ入れ、最期にそばにいられなかった息子。
神に仕える仕事を続けながら、神を信じられなくなった神父。
悪魔の言葉よりも、自分自身の罪悪感に負けそうになる人間。
そして、神が最後まで姿を現さないこと。

世界には、努力しても救えないことがあります。
正しいことをしても間に合わないことがある。
愛していても守れないことがある。
祈っても答えがないことがある。

『エクソシスト』は、その現実を悪魔という形で突きつけてくるんですよね。

子どもの頃は、自分がリーガンのようになったらどうしようと怖かった。
大人になると、自分がクリスの立場になったらどうするのかと考える。
カラスのように、大切な人を救えなかった罪悪感を抱えたまま生きられるのか。

誰も助けてくれない時、それでも誰かのために行動できるのか。
恐怖が、自分の人生に近づいてくるんです。

私は、大人になってから『エクソシスト』を見て、

怖さより先に悲しさを感じるようになりました。

そして、その悲しさが分かるようになったからこそ、

子どもの頃よりも深い場所で怖くなったんですよね。


◆ 24 それでも、何度でも見たくなる

恐怖の原点なのに、私は『エクソシスト』を何度も見てしまいます。
怖いだけの映画なら、ここまで好きにはならなかったでしょう。

悲しいからです。
人間を描いているからです。
そして最後に、ほんの小さな希望を残すからです。
メリンは死ぬ。
カラスも死ぬ。
クリスとリーガンはジョージタウンを去る。
事件の真相が世間に公表されるわけでもない。
悪魔が完全に消滅した保証もない。


それでもリーガンは生きている。
ダイアーは、カラスの最期に立ち会う。
キンダーマンとの友情が始まる。
カラスの行為は、歴史に残る英雄的行為として称賛されないかもしれない。
でも、一人の少女の人生を残す。
誰かに褒められるためではない。
目の前の一人を救うために、自分の命を使う。

『エクソシスト』は、神の圧倒的な力を見せる映画ではありません。
神が沈黙しているように見える世界で、人間がそれでも善を選べるかを描く映画です。
悪魔がどれほど強大でも、最後に問われるのは人間の方なんですよね。

子どもの頃の私は、この映画を見て、世界に悪魔がいると思いました。
大人になった私は、見るたびに別のことを思います。


悪魔より、人間の孤独の方が怖い。
怪異より、救う方法がないことの方が怖い。
神の怒りより、神の沈黙の方が怖い。
そして、自分の中にある罪悪感や絶望を、誰かに利用されることが怖い。

でも同時に、この映画は人間を信じています。
信仰を失った人間でも、最後に善を選べる。
完全な人間でなくても、誰かを救える。
自分自身を救えなかった人間が、別の誰かを救うことはできる。

カラスは母親を救えませんでした。
その傷は消えない。
それでもリーガンを救った。

過去をやり直すことはできない。
でも、次に出会った人のために行動することはできる。


私が『エクソシスト』を最も好きなホラー映画だと思う理由は、そこにあります。

怖い。
悲しい。
凄い。
そして、美しい。

私の恐怖の原点は、いまも『エクソシスト』なんですよね。

 


では、今回はこんなところで!

 

また!