ふどきさんよく調べてて

オオヒコとかまでたどり着いてるけど

肝心なお名前がまだ出てきて内ではないか

 

オオヒコがモデルになってるんじゃないさ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私も

 

事象に絡みだしたのかしら、、、

 

あんまり気にしてなかったけど

 

今また調べ始めて

 

ぞくっとした

 

11月に私はその土地にいた

 

8月のチャリの自爆事故

 

8月13日の朝4:30にこけたのだけど

前日の夜11:30過ぎにも同じ場所でこけそうになってたの

 

その事故の結果靭帯が切れてたので

 住んでるとこで通ってた病院ではオペができないとのことで

和歌山市毛見の琴ノ浦にある病院にオペ入院することになってしまったわけだ。

 

 

 

むかーしから読んでるブログがあるんだけどね

 

そんブログ主さんも事象に命を握られてるような人で

 

年末に交通事故で両足骨折してたんだと

 

しかも

 

どこに逃げようかっていう内容のブログを書いたあとに。

 

 

『 逃がさないぞ 』

 

ってね。

 

 

 

 

タイトルにあるお方を調べ始めたところ

 

『先代旧事本紀』天神本紀によれば
高天原から葦原中国へ降臨する事となった饒速日尊の護衛として付き従った32神の1柱で、
同書国造本紀や紀伊国造家が伝える『国造次第』によれば神武天皇によって初代の紀伊国造に任じられた。

異伝として

『紀伊続風土記』所載の「国造家譜」は、日前大神と国懸大神
(紀伊国造が奉斎する和歌山県和歌山市秋月鎮座の日前宮の祭神)の降臨に随従して以後両大神に仕え、
後に神武天皇の東征に際して両大神の神体である日像鏡と日矛の2種の神宝を奉戴して


紀伊国名草郡に到来し、毛見郷(現和歌山市毛見)の琴ノ浦

 

それを鎮座させて天皇の東征の成功を祈念したために、
即位後の天皇によって論功行賞として紀伊国を授かるとともに国造に任じられ、
以来その子孫が国造職を襲うとともに

日前宮を奉斎し続けることとなったとの由来を記す。

 

日前宮にはいったことがない

 

名草には興味がなかった

 

調べ始めたのも今ではなく15年近く前からで

 

私の興味は丹敷の方だったから

 

和歌山北部にもあまり興味がなかった

 

それは私の父が和歌山南部の人だからってのもあるし

 

白浜は小さい頃から家族で来ていたところだったから

 

北より南の方が何かと好きなのだ

 

 

 

『先代旧事本紀』は

神皇産霊尊の子神である天御食持命の「次」で、

川(河)瀬造などの祖とするが(神代本紀・国造本紀)、

『新撰姓氏録』では神魂命(神皇産霊尊に同じ)の5世の孫で、
滋野宿祢、大坂直、紀直、大村直田連、川瀬造、

また伊蘇氏(伊蘇志)・楢原氏・滋野氏の祖と伝わる。


「天御食持命の次」の「次」をどのように解するかに問題があり、
これを弟と見て神皇産霊尊の子神とすることもできるが6、5世の孫とする所伝の方が多い。


紀国造の末裔の紀俊行氏が所有する「紀伊国造次第」では、子に比古麻命がいるとされる

 

『紀伊国造系図』によれば、

天道根命は天照大神の天岩戸隠れに際して

石凝姥命によって鋳造された日像鏡と日矛の2種の神宝を高天原の神々から託され、

高天原においてこれを天照大神の「前霊(さきのみたま)」として奉斎していたが、

天孫降臨に際して天照大神から三種の神器とともに

この2種の神宝を聖なる鏡、聖なる矛として授かった天津彦彦火瓊瓊杵尊に随従して

同尊とともに日向に降臨、降臨後も引き続いてこれらを奉斎していたが、

 

後に神武天皇の東征に際して天皇からそれらを鎮座させるべき地を探すよう改めて託せられ、

東征軍とは別に諸国の浦々を遍歴して

 

遂に紀伊国賀太浦に到着、

そこより木本郷(現和歌山市木ノ本)へ移って暫時滞在し、

その後更に毛見郷舟着浦に移って

同地の海中に聳える奇岩上に行宮を建てて奉斎するとともに

神武天皇の武運と寿命長久を祈念することとなったといい、

 

次いで神武天皇が東征の途次に竃山(現和歌山市和田)に来着すると

神宝の鎮座地の実地検分を求め、現地へ赴いた天皇から選定地の妥当なることを誉められて

引き続き天下平定を祈念するよう命じられ、

その後天皇が大和国橿原の地で即位すると祈念の功を賞されて紀伊国を授かり、

子々孫々に亘って国造職を継承するよう命ぜられたため

再度紀伊国へ下向、現地の神の女である地道女命を娶って比古麻命を儲け、

以来その子孫が国造として日前・国懸両神宮を奉斎するよう受け継いだといい、

最後に「神皇産霊尊の時より神武天皇の御宇に至る」まで

在世した「長寿の神」であったと結ばれている。

降臨と東征
天道根命の降臨について、日前・国懸両大神に随従したものと説くものと、

「天孫降臨」に随従するものとであったと説くものに分かれるが、

更に後者については降臨の主体を

天津彦彦火瓊瓊杵尊とするか

饒速日尊とするかで説が分かれる。

 

田中卓はその最後者(饒速日尊随従説)に注目し、

『古語拾遺』に日前宮の祭神は天岩戸隠れに際して

三重県伊勢市の皇大神宮の祭神たる日像鏡(所謂八咫鏡)に先んじて鋳られた日像鏡で、

鋳造神(石凝姥命)の意に適わなかったという所伝もあり、

それを併せて考えると、

 

天道根命が意に沿わない日像鏡を奉じて饒速日尊に随従した事になり、

そこには神武天皇以前に饒速日尊による東征が行われた事、

神武天皇側からはそれが不本意なものであったと意識された事が暗示されているので、

饒速日尊による東征の史実が後世において「降臨」という形で伝承されたものであろうと説く。

また『紀伊続風土記』は、

天孫降臨での供奉や神武天皇の東征、日前宮との関係等は全て誤伝であると斥け、

『先代旧事本紀』地祇本紀に

紀伊国造は五十猛命、大屋姫命、抓津姫命の所謂伊太祁曽三神を祀ると伝わるので、

天道根命自体は紀伊において2種の神宝ではなくこの3神を祀っていたものであろうと説いている。

国造職
国造制については第26代継体天皇朝から第29代欽明天皇朝にかけて(6世紀前半)、

大和の王権が地域の支配のために在地の首長層を再編した制度であると見るのが通説とされ、

従って初代の神武天皇朝に掛けて語られる国造就任は

『先代旧事本紀』「国造本紀」に見える諸国の国造とともに信じ難い所伝であるとする論者が多い。

 

また、制度としての国造が後の畿内から順次整備されたであろう事、

畿内以外の国造の多くが

第13代成務天皇から第16代仁徳天皇の時代に掛けて任じられたとされている事等から、

これは国造制が整備されて行く初期の段階という

相対的に早い時期に紀伊国造が設けられた反映であろうとの見方もある。

 

天道根命

この人の事を調べてんじゃないのよ

 

『先代旧事本紀』は神皇産霊尊の子神
『新撰姓氏録』では神魂命(神皇産霊尊に同じ)の5世の孫
 

滋野宿祢

大坂直

紀直

大村直田連

川瀬造

伊蘇氏(伊蘇志)

楢原氏

滋野氏の祖と伝わる

 

 

ここから繋がっていくんですよ

厳密にはもっともっと前からなんだけど

 

 

滋野氏(しげのうじ)は、「滋野」を氏の名とする氏族。

姓(かばね)は当初滋野宿禰で宿禰姓であったが、弘仁年間に朝臣姓となった。

信濃国の有力国人であった海野氏・根津氏・望月氏は滋野氏の後裔を称しているが、

滋野氏の祖は清和天皇であると称している(滋野氏(滋野三家))。

『新撰姓氏録』によれば、

紀伊国造の流れをくむ紀氏と同族で、天道根命の後裔とされ、

旧姓は楢原造(ならはらのみやつこ)、次いで伊蘇志臣(いそしのおみ)。

同時に、天道根命は神魂神の5世の孫で、

伊蘇氏(伊蘇志)・楢原氏・滋野氏の祖と伝わる。

天平勝宝2年(750年)に駿河守として駿河国へ赴任した一族の楢原東人が

駿河国庵原郡田子の浦(現在の静岡県静岡市清水区)で黄金を発見し

これを朝廷に献上したことからその功を賞した孝謙天皇が

「かいがいしく勤める者」という意味で

伊蘇志臣(勤臣とも作る)と賜姓し

(「いそし」は「勤(いそし)む」の「いそし」)

延暦17年(798年)に伊蘇志家訳が滋野宿祢と賜姓されて以後、宿祢姓の滋野氏となり

さらに弘仁14年(823年)には家訳とその子の貞主が滋野朝臣姓を賜っている


なお、「滋野」の氏名(うじな)の意味について、

未詳ながら草木の茂る野にちなんで一族の繁栄を願った美称ではないかとされる。

『姓氏録』には同族として上記紀氏の他、

大村(右京、和泉国)、大家(大宅)(右京)、

大坂、

伊蘇志(以上大和国)、

川瀬、直尻、高野(以上和泉国)の諸氏を掲げいる。

 

紀伊国には同じく天道根命を祖神とする紀伊国造家や名草氏がおり、

 

和泉国に著名な物部氏(饒速日命の後裔)とは

別系統と思われる物部氏(姓は連)もいた。

 

滋野氏(しげのうじ)

 

海野氏(うんのうじ/うんのし)は、

信濃国小県郡海野荘(現在の長野県東御市本海野)を

本貫地とした武家の氏族。

 

海野荘 - Wikipedia


東御市 - Wikipedia

 


滋野氏の後裔とされる滋野則重(則広)の嫡子・重道、

あるいは重道の嫡子・広道から始まるとされる。

支流、分家    

根津氏(武家)
望月氏(武家)
真田氏(武家)
白鳥氏(武家)
会田氏(武家)
小田切氏(武家)

 

滋野氏だ~海野氏だ~っていうのは

最近の話。

 

その土地にやってきて、その名を名乗る前の事から調べてる

 

上に張り付けたことが

 

実田 実に当たる部分で

 

they know all truthの部分は

 

日本語圏外の事もひっくるめて

 

全てを知ってる一族がいるってこと。

 

まあ、、、そうだわな

 

海野荘(うんののしょう)は、信濃国小県郡(現在の長野県東御市から上田市神川以東)にあった荘園

小県郡 - Wikipedia

和名類聚抄に見える名は童女、山家、須波、跡部、安宗、福田、海部、余部と記述されている。

 

ちょっといったんUP 

 

 

 

 

 

 

 

ちょうどこの記事調べながら書いてた頃に、

現地が揺れてたみたいね

 

令和6年2月7日21時03分 気象庁発表

7日20時59分ころ、地震がありました。

震源地は、和歌山県北部(北緯34.0度 東経135.2度 深さ 10km)

地震の規模(マグニチュード)は、4.1と推定されます。

[震度4以上が観測された地域]

震度4 : 和歌山県北部

[震度3以上が観測された市町村]

震度4 : 湯浅町

震度3 : 海南市 御坊市 和歌山広川町 和歌山日高町

〃 : 由良町 日高川町

 

 

 

 

ブログの初めに私も事象に取り込まれたかって書いたけど

 

やっぱりそうみたい

 

もう一つのブログ主さんは

北の常世の仕組みでヤマトタケルのように足が折れ曲がった

 

私は

南の仕組みで

それは彼の書き方だと

 

十字の南の常世は、南海トラフ

 

南が好きな紀伊の南に住む

私の足のけがは

 

前十字靭帯断裂

 

上下の膝をつなぐ靭帯が断裂したのだ

 

その人が危惧する事象の現れは

イスラエルの核テロ

 

ヤマトタケルは死んだけど、この人は生きてるし

わたしも生きてる

 

犠牲にも生贄にもなってないわ

 

だからきっと起こらない

 

それでも別に起こってしまってもいいんじゃないかとさえ思ってる

 

こんなバカばっかの世界

いったん滅んだ方がいいとさえ思うよ

 

生き延びたとしても

それはそれは悲惨だろう

 

生き延びたことを後悔するかもしれないくらいに。。。