見返してみると3年前も似たようなタイトルで書いてますね。 成長してませんね。はい。

まあ、そんなことはさておき・・・

 

とあるオタクが導き出した一つの「解」をここに記そうと思います。

まず、キーワードとして「曖昧に重なり合った二つのもの」という概念をもとに

各セグメントをデコードしていこうかと。

 

■タイトルの"ばくのかわをはぐ"

まずは脚本家さんからの解説にあったように、中国の伝説上の生き物"貘"

多くの人も書いているけど正体を暴く、みたいな意味の"化けの皮を剥ぐ"

そこにさらに"僕"という言葉を重ねてみよう。

"僕"とは男の子なんかの一人称かとも思われがちだけど、原義的には"下僕"つまり"しもべ"を表す言葉

ミト(OL)は何の"しもべ"だったかというと"美しさのしもべ"になっていたのではないだろうか。

 

■ダブルキャストであることの意味

けっこう変則のダブルキャストで、下手すれば同じ組み合わせになる公演は一つもなかった・・?

そこに意味を求めようとするならば"人間の多面性"を表現したかったのではないだろうか。

いい人そうに見える極悪人、悪人ヅラだけどいい人、普段は穏やかなのにキレるとヤバいやつ etc..

おおよそ人間は多面的な存在なので、だったらいっそ役者さん自体を変えてしまって、"その人がどう受け取ったか"

によって、キャラの定義そのものすら変えてしまおうという狙い、言うなれば"一本道のマルチシナリオ"なのではないか。

 

例えば、セラ役の広瀬ゆうきさんがアフタートークで語ったように、実は打算的な部分もあるんじゃないか、と受け取って演じたことにより、多くの人が感じたように"得体のしれない怖さ"を持ったセラに仕上がっている。

もう一方の桜田さんのセラを見た感じ、"純粋にミトを想っている"という解釈で演じたのか、ゆうき世良に比べると素直に見えた。

和名でありながら英名のように聞こえるようになっているのも、仕掛けの一つかもしれない(仁菜→ニーナとか)

 

今日子さんとかも無条件でいい人に見えはするが、"実は二心あってミトと仲良くしている"なんていう見方をするのもアリかもしれない。

 

つまり、キャラクターひとりひとりが"皮"であり、それを組み合わせて作り上げた集合体、つまりこの物語自体が"貌"だったのではないだろうか。

どのキャラクターをどう解釈して組み合わせるかによって、ラストシーンや、物語自体の見え方すらガラっと変わってくる。

 

■”わたし”と”ワタシ” 二つの「夢」

有名な「胡蝶の夢」を引用した、劇中にも使われたフレーズ

「”わたし”になった夢を”ワタシ”が見ているのか ”ワタシ”になった夢を”わたし”が見ているのか」

この”わたし”と”ワタシ”は学生時代とOLのそれぞれのミトを指していることは想像に難くない。

 

では、どちらが”現実”でどちらが”夢”だったのだろうか

学生ミトが整形に失敗し、自己分裂的に"キレイになった自分"の夢をみているのか。

OLミトが悪夢として、フラッシュバックのように"学生時代の自分"の夢をみているのか。

はたまた、どちらのミトもセラちゃんの夢なのか。

 

結論から言うと「どれも正解」だと思う。

これは見た人がどこを"現実"と仮置きして物語を見るかによって解釈が変わる、

前述と同じ「一本道のマルチシナリオ」の仕掛けの一つなのではないか。

 

■セラちゃんはなんでそんなにミトのことが好きなの?

これについては正直"わからない"

好きになる"キッカケ"のようなものも見当たらないし、ヒントといえば「ミトちゃんは特別だから」という言葉ぐらい。

あとは世良ちゃん自身も自分のことを嫌いだった、という事実ぐらいだけど理由としてはあまりにも弱い。

後夜祭でアフターシナリオがあるらしいので、それを見てから再度考察するのも良いかもしれない。

 

■ミトは結局幸せになったの?

どうだろうね(おい)

仮にOLミトの世界を現実だったと仮置きすると、整形して周りを騙してきた自分を受け入れこそしたものの

少なくともまだ自分のことを好きになっているとは思えない。

自分のことが嫌いな人間が自分を好きになるのはそう簡単なことではない。

 

ザっとだけど、現時点ではこんな感じ。 

後夜祭とか田島さんのツイキャス?なりを聞いてまた新しい発想を得たら再構築する可能性はアリ。

とりあえず、いったん〆