呆れてモノも言えない

唄種です。


なんで呆れたかって、大抵の場合、一度自分には合わないと思ったものは、再び自分に合うことは無いんだということにやっと気づきました。
『いつか合うかも』はなかなか訪れない。

何度手に取ってもやっぱり合わないことを再認識して、妙なストレス抱えるハメになるなら思い切ってしまおう。
相性を無視してはおけないのですね。


私は最近よく捨てます。身軽であることに越したことはないと思うんです。

そのきっかけになったのが、

①大人になってから身近な人の死を見た
②一人暮らしを経験した

この2点です。

まず、①の理由は、私が思わぬところで死んでしまった場合、残された人が大変だということを知ったからです。後始末は自分では出来ないんですよね。

②は、自分の負担を減らす為です。身軽の方が動きやすい。

日本人はものを持ちすぎだそうですよ。そういう私もかなりの“物”に囲まれてます。

特に人からもらったものってどうするか迷いませんか?
“物”って、それにまつわる思いを残してしまうから捨てるのが怖いんですよね。
物を『あげる』という行為は、その時の自分の『あげたい』気持ちを渡すということ。
逆に『貰う』という事はその時の相手の気持ちを『ありがとう』と頂くということ。

よくプレゼントはものよりも気持ちだと言いますが、そのとおりだと思います。
プレゼントのやり取りをした時点での感情のやり取りは終了しているので、あとに残された“物”に残るのは記憶だけです。
物自体は別に処分しても構わないと私は思うのです。形あるものは必ず無くなるし。

そう思うと、必要なものってそんなにないなということに気づきます。
今私が個人的に所有しておかなければならないものって、生活必需品と、仕事に行くのに必要なものと、多少の衣服と、ジュンスと北翔さん関連のものじゃないかな。(そこは外せないのか)


思いにも賞味期限があって、それが切れたら“物”に価値はございません。


出来るならば、あげた“物”より“思い”を大切にしたいし、して欲しいです。
過去の思いはあくまで過去です。
そんなものを後になって持ってこられたところで興醒めです。エンゲージリングでもあるまいし、相手にとって自分があげた以上の思いの付加価値を付けられても困るだろうな、と。
自分の中で特別な物なのであれば、自分の中だけで処理するべきだと私は考えています。

だから私は、心の中で『その時は、ありがとう』と一言かけて、処分する事にしています。

最近ますます肌寒くなってきて、あっという間に年末がやってきそうだと感じています。
年末の大掃除のためにも、物に圧迫されない身軽な状態を今から作って行きたいと思います。