クダラナイと貴方は言うのでしょう。数cmの黒い線が世界を変えてくれる、そう思っているのはアタシだけかしら。
オンナの顔はキャンバスだと美術教師が言っていた。そこまでこだわったら、化け物扱いの厚化粧になってしまうじゃない。ただ徹夜明けの顔は確かにBaconの作品と重なるものがある。あっちは傑作と評されるけど、こっちは劣化しているだけだから重ねたものを早く剥がしたい。そして、締め付けられた胸と腰を解放してあげたい。歩く速度は増してゆく。タイミングよくバスが到着してくれたら、ストレスフリーで眠りまで向かえるはずなのに、こんな時に限ってあいつは現れる。鳥肌が気配を教えてくれた。
「もう今日は疲れた。大変だったもう。でも明日は休みだからゆっくりできる。いやぁ明日は家族の誕生日だから、祝わなきゃいけないんだった。久しぶりにみんな揃う日だから祝わなきゃなぁ。あぁどうしよっかな、でも休んだらせっかく覚えたこと忘れそうだなぁ。店長に頼んで明日も研修させてもらおうかなぁ。でも誕生日は大事な日だから、うん休もう」
その言葉、信じない。お前は絶対明日休まない。
勝手に左側を陣取って、勝手に話し出す。よくもまぁ息継ぎもせず、聞いてもいないことをね。相槌をしないと、同じ一文を繰り返してくる。こいつとは、ただの顔見知り。仕事帰りに通るコンビニの店員で、店先の掃除をしていたこいつとたまたま目が合ったことを機に顔を合わせる度に話しかけてくるようになった。挨拶をされて無視をするのも礼儀がないと思って汐らしく反応したのが不幸の始まりだった。店の前を通るたびに作業を放っぽりだしてアタシの元にやってくる。
近づくと臭いがして、歯並びが無様で虫歯だらけ、こちらの体調など関係なく一方的に話し続ける。妄想の力はあるのに、想像の力がないやつだ。この顔を題材にした絵など飾りたくない。なぜ雇ってもらえているのか理解ができない。確証はないけど、夜勤がある日はコンビニにこいつの顔がある気がする。帰る頃になると、待ち構えていることもある。日に日に強まる気持ち悪いという心の声。バス停にバスが来るまでの時間を我慢すればいいけど、もう耐えられなくなってきた。これが恐怖に変わる前に縁を切りたい。
「店は、いいんですか?」
「はい?」
人気も車もなく、すぐ横にいるのに、なぜ聞き取れないの。
「店を離れて、問題ないですか?」
「お客さんいないんで大丈夫です」
クビになってしまえと内心叫んだ。
こいつのせいで、このコンビニに足を運べなくなった。こいつと共通点はない。いつも決まって興味のないアイドルの話を聞かされる。清楚で謙虚な子が好きらしい。黙っていればアタシもそう見えるのかもしれないけど、今頭の中は苛立ちと酒が飲みたい衝動でいっぱいだ。もう話題に乗っかるのはやめた。話のキャッチボールさえ成立しなければ、こいつも黙るしかなくなると思ったから。それでもバスが来るまでこいつはひとり喋っていた。頼んでもいないのに手を振って見送られた。全身に鳥肌が立った。もう逃げられない気がした。実質的な害はないし、本人に自覚はないかもしれない。でも、あいつはストーカーになりつつある。バスの運転手には、どう映っていたのだろう。
「もしかして彼氏?アタシってその程度の女なの?」
缶ビールを飲んで独り言が盛り上がっていった。化粧を落とせば、演じることも誤魔化すこともない。さっきの自分を忘れたくて、必死に下品に振る舞っている所もあった─運転手に話しかけてしまったから。
始発とあってか乗客はアタシだけのことが多い。ぐちゃぐちゃした気持ちを少しでも晴らしたくて、降車の時に運転手に恐る恐る声を掛けた。
「あの、アタシってどんな風に見えますか?」
アタシの目を見て最初は戸惑っていたけど、すぐに爽やかな笑顔になった。
「可愛らしいですよ。脆い感じもしますかね」
「なんかすみませんでした」
家まで走って帰った。鏡を見たら顔が異常に火照っていた。ファンデーションは浮き、目の辺りはアイシャドウが滲んでいた。酷い作品だよ。こうなってしまうこれのどこがいいのか…そのセンスも引っくるめて、あいつが嫌いだ。忘れたい消したいいろいろ、あぁ酒がすすむ。
道を変えたり、時間をずらしたり、あいつを避けるために施した。それでも遭遇した。なぜなら店の前で待ち構えているからだ。でもひとつだけ違った。ちらっと見るだけの挨拶の後も、ついて来なかった。
「今日は強く見えます。キリッとした女性ですね」
謝ったアタシに、そう貴方は言ったよね。
今までは使わなかったアイライナーを引いてみただけなの。やっぱりオンナの顔はキャンバスみたいね。あいつ好みでなくなったアタシは、また平凡な日常を取り戻した。
ひとつの黒い線が少しだけ素のアタシをうまく表現してくれたのね。そして、貴方と近づくきっかけになってくれた。これって世界が変わったからじゃない?