Exit 2013

Exit 2013

2013年の上半期半年を過ごしたバリでの日々を書き綴っていきます。
『ワールドダンスラブ』という自主企画ダンスの公演のお知らせもします。

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ベモを長時間待ってると「ウブドに行くなら乗せてやる」とバイクや車で声をかけてくる人がいますが、さすがにコワイのと大概が法外な値段を要求されるので断ります。
が、この数年で「この人は大丈夫な気がする」と思い送って頂いた人が2人いて、その一人は”ジャムゥ”というインドネシア漢方売りのおじいさんでした。

ジャムゥ売りのおじいさんは、バトゥアンの木陰でベモを待ってるといきなり車から私に向って「マドモアゼル!」と声をかけ、ダイレクトに「ウブドまで行くなら送ってやるから5万くれ!」と言って来ました。
このバリで「マドモアゼル」と呼ぶ酔狂ぶりには驚きましたが、立派な口髭がなんだか老子や孔子みたいな(実物は知らないが)風貌で信用出来るような感じがしたので「送っては欲しいが今財布に2万ルピアしか入ってなくウブドでご飯を買いたいから1万ルピアにまけて」と言ったらあっさりまけてくれたので拍子抜けしながら乗せてもらいました。

楽しく話しをしながらしばらく乗ったら「このまま直接ウブドには行かず、ジャムゥを売りに色々寄るから」と言われ「それを先に言わんかい」と思いつつも、ベモが全く走っていない地域に突入し、降りた所で自力で帰るのも困難だと思い仕方なしにそのまま乗っておりました。
そして、立ち寄った先々では、突然日本人が一緒に来たので驚かれ事情を聞かれ、当時、今よりももっと語学力の乏しかった私は「おじいさんとは初めて会いました。ウブドに住んでます。何でここにいるか解りません。」的な発言を繰り返していたのだと思いますが、えらく同情されご飯やお菓子をもらいコーヒー、お茶をご馳走になりました。
その日はレッスンの後にご飯を食べずにいたのでお腹がペコペコだったのですが、行く先々でご馳走になり、ようやくウブドに向って出発する頃には食べ過ぎで睡魔に襲われていました。

その後、絶景の中を走りながら語学講習をしてくれ楽しい時間を過ごしました。
別れる頃、おじいさんは「いつもはば~さん(多分奥さん)が一緒で寂しくないが今日は着いて来れず寂しかったのであんたが乗ってくれて良かった」と言い出し「有り難うね」を連呼されました。
いや、あの~すいません、、、、こちらの方こそ有り難いを通り越して申し訳ないんですが、、、、、
そんなわけで持ってた有り金2万ルピア、全部払いました。


「ここはミラクルワンダーランドだ!」という私の思い込みが激しすぎるのか?いわゆる引き寄せの法則なのか?人間ウォッチャーとしての探究心のたまものなのか?はたまた神様のお導きなのか?よくは解らないけれど、このように後から思い返してみても「あれ?」と思うような爆笑の素敵な出来事との出会いに溢れています。
みんな、有り難う~~~~~~



バリ人と一緒にいると「なんでこうなるの?」とお笑いコントのオチみたいな瞬間がやって来る事が多々あります。
私の場合は語学力の無さから来る勘違い故にそうなったという事もあるでしょうが、バリ人にとっても「あれ?何で?」と思ってるふしがあるような出来事も多い気がします。

以前、大きなイベントで上演される芝居を観に行った時の事。
バリの踊りの舞台には大抵割れ門があり、そこから踊り手が登場する事が多いのですが、そこはかなり大きな会場だったので門の間口も相当大きいものでした。
その芝居はバリが昔、小さな国々に分かれていた頃の国盗り合戦がテーマで悪役の王が馬車に乗ってヒーローの王の国に攻め入るというシーンがありました。
それまで家来役だった男性の踊り手数人が馬役になり、はりぼての車を引きその上に悪役王が乗って割れ門から登場という設定だったようなのですが、う~~~ん、たぶん、はりぼての車を作る時、割れ門の間口をきちんと採寸しなかったのでしょうなぁ~
はりぼての車が門に引っかかって出て来れなくなりました。
しかし、ここで出ないわけには行かない!
馬役の踊り手達は必死になってはりぼてを引っ張ります。
はりぼての車は門に引っかかってバギバギとものすごい音をたて、やがて少しづつ崩壊しかかりながらやっと出て来ましたが、乗ってる悪役王はずり落ちそうになりながら必死ではりぼてにしがみついていました。
あわや大惨事になりそうな出来事なのに、大惨事を一切想定しないのか観客、涙を流しながらヒーヒー大笑い。
バギバギと音を立てる度に「アドゥ~(あらま、とか、おぉ~とかの意)」と大声を出しながら爆笑。
悪役王の惨事を観ながら「カシア~ン(可哀想の意)」を連呼しながら更に大爆笑。
もちろん、私も爆笑。
この企画をした人達にプレゼントをするとしたらメジャーだなと、そう思いました。

もちろん、そこで悪役王が大けがとか、最悪死亡なんて大惨事になってたら笑えないですから、そうならなくて本当に良かったと思いますが。

まぁこれはかなり大きな事例ですが、日々、これの縮小版みたいな出来事が多々ある気がしますね。
彼らの人徳(?)なのか、「はぁ?何それ?」と思うような出来事も怒りに繋がる事はあんまりなく(私の経験上はですが)むしろ、笑いが出る、脱力する事、いや、驚嘆する事の方が多い気がします。


話しが外れますが、沖縄でもそういう事が多いような気がして、どうもこの2つの島は私とって何だか同じ匂いがするし、何度訪れてもいつまで経っても想定外のオチがやって来る、私にとっての”ミラクルワンダーランド”だと、そう思ってます。

沖縄の離島出身の友人が地元の祭りに誘ってくれ一緒に行った時の事。
フェリーで島に到着した後、島を散歩していたら友人の知り合いのおばあさん3人に出会いました。
3人はもうかなりの高齢だったので私にはさっぱり解らない島の方言しか話せず、友人も話しの全ては理解出来なかったようでただただ、3人が一方的に話すのを聞いてるのみの状況でした。
そのうち突然、ひとりのおばあさんが泣き始めました。
話しの脈略のさっぱり掴めない私はびっくりしましたが、もっとびっくりする事がその後に、、、、、
泣いてるおばあさんの隣のおばあさんがおもむろに自分の首に掛けていた手ぬぐいをほどき、泣いてるおばあさんの頭にそのてぬぐいを巻きました。
えぇ~~~~~~~~~~~~~~っ?
普通は涙を拭う場面じゃないの?
ウチナー口で言えば「で~~じ、しかんだ!!!(とっても驚きましたの意)」です。
頭にてぬぐいを巻かれたおばあさんは、何も動じる事なく泣き続けていました。
その後、私と友人の間ではかなり長くこの出来事は爆笑の思い出として語りぐさになっていました。


バリに話しを戻します。

レッスンの帰り、バイクでウブドに向っていたら雨が降り始めました。
雨宿りをするか、雨合羽を買うか、悩みましたが次のレッスンまであまり時間がなかったのでそのまま走って雨合羽を買う事にしました。
防水だか撥水だか忘れましたが、一応そのような仕様のジャケットを着ていたのですがもう2年も来たので効果が薄れたのか、雨がしみ込んで服が濡れてだんだん寒くなって来ました。
途中、雨合羽を売っていそうなお店に立ち寄るも「あぁ~売り切れた」と言われ、だんだんともうバイクから降りて立ち寄るのも面倒になりお店の前に止まってはバイクから降りずに「すいません~~~~~カッパ売ってる?」と叫んでいましたが、どういうわけか売り切れ続出で買えませんでした。
そうこうするうちにどんどん雨は酷くなって来て、本格的にずぶ濡れになって来ました。
もう次の店で買えなかったらレッスンに遅刻してもいいから雨宿りをしようと決めて、もう一軒チャレンジ。
「おばさ~~~~ん、カッパ売ってる~~~?」土砂降りの中、叫ぶ日本人。
「はぁ?」聞こえないらしきおばさん。
再度叫ぶ私。
そしたら何と「ハビ~~~~ス(売り切れの意)」と叫ぶじゃありませんか。
ムキィ~~~~~~~~~ッ もうイヤ!!
疲れ果ててずぶ濡れの泣きそうになった私ががっくりしてたら、そのお店でコーヒーを飲んでたおじさんが「ワタシは雨合羽売りです。あなたに売ってあげましょう。色も3色ありますよ」と近づいて来た。
ラッキー!!神様、有り難うございますぅ

手にした雨合羽には26,000ルピアと書かれた小さなシールが貼ってあるのが見えたのですが一応「お幾ら?」と聞いたらおじさん「27,000」と答えたのでした。
えぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ?
この大雨の中、雨合羽を持たずずぶ濡れの日本人にたった1,000ルピアのぼったくりでいいの?
ここはもっと恩着せがましく、そして、がめつく行くところじゃない?
私の経験から考えるに、この場合のぼったくり率は30%から40%くらいではないかと思われます。
が、おじさんはニコニコしていました。
そして、私の有り金はというと、びっくりプライスの26,000ルピアちょっきり。
お札はもちろん、ポケットに入っていた小銭をもかき集めて見事に26,000ルピア。
私の手のひらに乗ってるこのお金が今の私の全財産でした。

すいませ~ん、、、、、、、

おじさん、私、おばさん。妙な沈黙が流れます。
するとおじさんが、俳優?ってくらいの憂いのある笑みを讃えて「オッケー、仕方ないね。」と言いながら私の肩をポンポンと叩きました。
いや、ちょっと待て、おっさん。
仕方ないねってこれ、26,000ルピアじゃん?

その後、おじさんは雨合羽を着せてくれ、バッグが雨に濡れない様にとお店からビニール袋をもらってくれました。
丁重にお礼を言いバイクに乗った瞬間から、私は笑いが止まらなくなりどしゃぶりの雨の中を爆笑しながら帰りました。
おじさん、素敵な時間を有り難う。
今回は半年という長期にも関わらず1泊1000円ちょっとの宿に泊まり続けました。
そこは最近の常宿で、スタッフとも気心がしれていて大好きな宿で長期滞在中に病気や事故など何かあっても対応してくれるという信頼もあったし、初めの頃はバイクに乗れなかったのですがその宿ではウブドの中なら無料送迎のサービスがあった事や、チップを渡したらバトゥアンまでの送迎もしてくれる事。
そして何よりも本当に落ち着ける宿で色々と自身の心の整理をする事も目的のひとつだったのでその宿に居続けました。

朝はスタッフが他の宿泊者に朝食を作っている所に混じって私は自分の朝ご飯を作っていました。
そして、スタッフの一人ワヤンが必ず「ナビサン キョ、ベンキョ?」と聞いて来ました。
キョ、ベンキョ?は漢字で書いたら「今日、勉強?」
ワヤンとしては本当は「今日も稽古はあるの?」って聞きたいんでしょうな。
ワヤンのみならず、多分、バリ人が発音すると多分今日のウが言えず、何ともおかしな感じになるのがご愛嬌。
ほぼ毎朝の事なのに笑いが出そうになるのを堪えつつ、どこそこで何時から何をやってるよと答えるのが朝のお勤めの様でした。
が、その言葉が与えてくれたものが大きかったな~としみじみ感じています。


私は37歳の時、フリーランスの編集とライター業をしていた10歳年上の人と結婚しました。
が、3年後、40歳になった時、夫が突然”髄膜炎”という病気になり助かりはしたものの、重度の脳障害を負い1年半入院や施設に入所した後、自宅に戻り、私=介護者 夫=介護される人という形の二人暮らしに戻りました。
が、右半身の障害もあり重度の『高次脳機能障害』という前頭葉の損傷からくる後遺症で今まで生きて来て培った事のほぼ全てを夫は突然出来なくなりました。
おまけに『全失語』と言って話す事と読み書きの全てが出来ずコミュニケーションをはかる事はほぼ出来なくなり、食べる事や本をぱらぱらとめくる事以外の日常生活の殆どが出来なくなったので介護は本当に大変でした。
「もう一回二人で暮らしたい」
介護がしたいわけでもなんでもないけれど、夫婦なんだから一緒にいたい、と、そう思ったら私が介護をする生活しか選択肢はなく嫌だとか何とか言っている余地はありませんでした。

夫が発病して重度の障害者になって5年が過ぎ、その間に自分が失ったものを取り戻したい気持ちがいっぱいになり半年のバリプチ留学を決めました。

久しぶりに一人になってみたら、私は、自分の人生を開拓して行こうという気力や、それが出来るという自信や、自分の可能性を信じる気持ちや、そんなものが自分でも全く気が付かないうちに失われている事に気が付きました。
また、自分が一緒に暮らしたいと思って始めた介護なのに、夫の両親に結果的に押し付けてしまった事や、夫の意志を何も確認出来ないまま二人の生活を止めてしまった事などへの罪悪感も度々訪れて来て、そのムードに全身が捕われてしまうと本当に無気力になり、真っ暗な部屋の中で死んだようにベットに横たわる事しか出来ませんでした。
そんな時は宿のオーナー婦人のMさんとくだらない話しで笑ったり、怒ってみたり、出来もしないお金儲けの話しを延々として涙が出そうなほど笑ってみたり、、、そんな事で気持ちを紛らわす事が出来、日本語で話しが出来る事や、きっとMさんは私のムードで何かしらを察知していたのだろうけど、ほっておいてくれる優しさ、有り難さをしみじみと感じました。


また、宿泊客の年上の日本人女性との出会いも大きな影響を与えてくれました。

みんなからIbu(年上の女性、もしくは既婚女性の敬称)と呼ばれていた女性はお子さんも結婚しお孫さんも出来、これからまた自分の人生を生き直すよ!!という意気込みに溢れていましたが、そう思えるまでには言葉には出来ないような何か心に重くのしかかるような忘れ難い体験をされているようでしたが、そのような話しは、本当にふっと、まるで風がさらりと通り抜けるかのように話すだけで、それ以外はとにかく明るくいつも笑顔の強く優しい女性でした。

私はIbuといるのが楽しくていつもくっついて廻り夜な夜な(いや、昼間は昼間で)お互いに色んな話をしました。
が、夫についてはずっと話さないでいたのですが、ある日、一緒にビールを飲んだ日に飲み過ぎてしまったのか、うっかり言葉が溢れ出てしまい、ついでに涙も溢れ出てしまいそれまでの状況と、その時の自分の気持ちを洗いざらいぶちまけました。
Ibuは、静かに聞いてくれていましたが、時々、相づちを打つ様に言葉を掛けてくれました。
が、その言葉、ひとつひとつが、後々、Ibuが日本に帰国されてからも考え続けるような重要な言葉ばかりでした。
ふっと、その言葉を思い出しては、考える、しばらくして答えが出て納得する、それが本当かを疑ってみる、解らなくなる、また答えが出る、という時間をしばらく過ごしました。
そして、Ibuが何度も言ってくれた「ナビィさん、ゆっくりでいいんだよ。他の誰でもなくナビィさんが納得すればいいんだから」という言葉とワヤンの「キョ、ベンキョ」という言葉が合体しいつの間にか毎朝バイクに乗ってレッスンに行く時、「ゆっくり、ゆっくり、今日も勉強」と自分に言い聞かせる事が日課になってました。


夫との事は自分の人生で経験した事のない事で、その中でうごめく自分の感情の取り扱い方を私は知らなかったし、毎日が必死すぎて自分の感情を丁寧に扱う事も出来なかった。
だから今、こうして一人になって勉強中なんだと思う様になり、「勉強すればいつか解る様になるよ!」と思うようになりそのお陰で随分と心が軽くなりました。
心が軽く、そしてスペースが出来た今、新しい夢や楽しい未来や、そんな事がムクムクと現れるようになりました。
そして、自分にもまだ可能性があると信じられる様になった事、それは大きなギフトだったなと思い、バリへ行けてあの時間を過ごせて本当に良かったなぁ~と思っています。
そして一時期、心は大海で揺れる木の葉のように、どんぶらこ~~どんぶらこ~~~~~と頼りなく揺れまくっていましたが、
それでも、ひたすら毎日のように踊り続けていました。
泣きたい気持ちを抱えながらでも踊りを習う事が、自分の現在のあるがままを認め、受け入れ、どんな感情であっても許し、前に進もうよと思える強さを培ってくれたように思います。

今でも時々煮詰まると『ゆっくり、ゆっくり、今日も勉強』をつぶやいています。


もうひとつの困り事は運賃がどこにも明記されていないという点です。
バリへ行く度にツーリストインフォメーションや友人達に初乗りが幾らをリサーチして回りますが、バイクを乗り回している若者はもうベモには乗らないので料金を知りません。
そこで、道々で降りる人達がだいたい幾らくらい払うかを人相が悪いと言われようが何だろうが目を凝らして見て初乗り料金を探ります。
ここ数年、初乗りは2千ルピアのようで、どんなにガソリン代が値上がりしていてもそこは変わっていないのでベモの運転手は大変で、やはり何が何でもすし詰めにしたい気持ちも解り同情もします。
そしてひとつ村を越える毎に千ルピアづつ上るようです。
ウブド~バトゥアンは2013年3月までで4千ルピアのようでした。
そして、私は「一応観光客なので多めに払っていますよ~」という恩着せがましい意思表明のためにたったの千ルピアを足した5千ルピアで乗り降りしてました。

が、ベモの運転手。
人は好いが強欲(?)ヤローが多いので、私が他の乗客と楽しく談笑して日本人だと解ると「お前は日本人だから5万払え」と無茶な要求をして来ます。
あんたね~~5万払えるんだったらトランスポートを頼んでるっちゅんじゃい!!ベモには乗らんわ!!
ここで喧嘩をしても自分が不利なだけなので、「う~ん、でも、昨日、一昨日も5千で乗ってるよ~ハハハ~」と言うと大概の運転手はチッとは思うみたいですが黙ります。
が、たまに更にしつこく降りる時になって「外人だから5万だぜ」と繰り返す輩がいます。
そんな時は、5千ルピア札を丸めて運転席に投げ込み走って逃げます。

このように日頃は運賃の支払い抗争(?)を繰り広げている私とベモの運転手達ですが、東日本大震災の翌日、サカの屋台に数人の良く見かける運転手達がたむろしていて、私を呼び止めると全員が「日本に早く平穏が戻ります様に」と言い合掌をしました。
ただそれだけでしたが、私はこみ上げて来るものがありました。

いやいやでも、そんな事もありはしますが気を許しちゃ~ならねぇ!!
時々、物乞いの人や老人が、どれほどの距離を乗っても千ルピアしか払わず降りた時などは要注意。
必ず、私で回収しようとしやがります(笑)
そして、これは料金とは関係ないですが運転手の携帯に電話がかかって来て突然「目的地が変わったからここで降りてくれ」と言われる事もあります。
公用車が私用車に変わる瞬間ですね。
滅多にないですけど、結構辛いです、これは。

これだけ書くと『読者が最も乗りたくない乗り物』に選ばれそうなベモですが、しかし!
ベモの楽しさ、醍醐味は何といっても人との出会い。
ベモはバリ人とのふれあいの場、社交場でございます。

バリは世界的な観光地だっていうのに、バリ人は常に外人に興味津々。
ベモに外人がひとり乗っていようものなら、驚異の目にさらされしまいにゃ~質問攻めです。
何人?どこから来たの?から始まって、そんなにバリに頻繁に来ていながらバリ人の彼氏が何故いない?まで。
お寺の参拝と同じく聞いて来る事は、全島民で打ち合わせしてるかマニュアルがあるかのどちらかだなと思うほど、ほぼ100%同じです。
そして、踊りを習ってると言えば必ず観てもないのに「そうか、きっと巧いな。うむうむ」と勝手に納得。まぁこの辺は60%くらいに減少します。
そして、一時CMにもなったのでこれはバリだけではなくどこででもある現象だと思いますが「東京に住んでるならユキコ(もしくはトモコ、アキコ、など)を知ってる?友達なんだよ~」というもの。
ユキコもいっぱいいるし、東京も広いしね~~~~~
あとは、家に寄れというもの。
そう言う人の中には、経営もしくは管理しているらしき宿やヴィラがあったりする場合もあり集客に繋げる目的もあるようなのですが、そうではない場合もあります。
大抵は「は~い、またいつか」で終わる話ですがたまに、「いつかって何時?」と問いつめられたりもしビビる時もあります。

だいたいいつも聞かれる事が同じなので、こちらも同じ答えを用意していればいいのですが極稀にびっくりするような事を聞いてくる人もいます。
それは、前回の旅でですが「何故日本は原爆を落とされアメリカに酷い目に遭わされたのにアメリカの言いなりなのか?」と聞かれ、日本語でなら答えられるけれどインドネシア語じゃ~そんな難しい事を話せるわけもなく、本当に困りました。
散々悩んで考えた挙げ句「戦争に負けたらから今は奴隷」とものすごい乱暴な答えを、しかも『奴隷』というインドネシア語が解らなかったのでそこだけ英語で。
うだる様の暑さの中でぼえ~っとしている私が一瞬凍りました。

こうして見ず知らずのバリ人と話しが出来るのはベモならです。
彼らが私を通して日本人をリサーチするように私も彼らを通してバリ人をリサーチしています。

バリ人は、総じてホスピタリティーに溢れていて困っている人を助けようという精神に溢れているし、ユーモアに富んでいて「なるほど、こんな風に考えればいいのか」学ぶ事も多くあったりします。
基本的には笑う事、楽しい事が大好きな愛すべき人達だな~と思います。
でも、彼らは例えば、息子が日本に働きに行った事があるとか、娘が学校で日本語を習ったとか、あと、自分のバンジャールに日本人嫁がいるだとか、、他人や家族については良く話しますが、自分自身については多くを語ってはいないように思います。
ベモを降りて別れてみると結局どういう人であったか、その人については謎、と思う事が多い気がします。
楽しかったので宿に帰って出会った人との一部始終を話しして「で、その人ってどういう人?」と聞かれても「あれ?」って事がよくある気がします。
くったくのない笑顔で接しているけれど全てを開けっぴろげにしているわけではない。
悪く言えばうわべで笑っているだけ、良く言えばそうやって自分を守っているという事なのかもしれません。

自分とは異種の外人が近づいて来た時、ニコニコ笑って接し相手がどういう人間か?どんな目的があってここに来たのか?を知る。
それはソフトな事情聴取とでも言えるのでしょうか?
ニコニコしていれば相手も嫌な気もしないし、争いにもならない。
それが縁で本当に友達になったらますます楽しい。
それはある種の知恵だなぁと思います。

バリも、他のアジアや南の島々と同じように植民地(オランダ・日本)になった経験があり、私はインドネシア歴史研究家でもないから推測でしか言えませんが、そのようにして精神までは介入、浸食されないように、緩やかな抵抗で自身を守る知恵みたいなものが身に着いたという事もあるのかなぁと思ったりもします。
今回、初めてバイクに乗れるようになりましたが先にも書きましたようにバイクに乗る事が恐ろし過ぎて、いつもベモという公共の乗り物に乗っておりました。

ベモを説明致しますと、先ずバスではあるのですが停留所はありません。
乗りたい所で呼び止めて乗り、降りたい所で「ストッパー」と意思表明しております。
(ストッパーと言うのは、ストップ バパの略なのではないかと思われる。バパはインドネシア語の既婚、目上の男性に対する敬称だが、何故英語のストップと合体して縮めたのかは謎)
バスですが、バンですのでそれほど大きくはありませんが、ガソリン代も高騰中の昨今、運転手さんは少しでも稼ごうと常にギュウギュウ詰めのパンパンの乗車率をめざします。
ベモに乗る人はだいたいが車やバイクには乗れない、乗らない人たちで年配者かもしくは商売人が仕入れをしてとか、供物を大量に作るのでとかで買った荷物が多過ぎてバイクでは運べない人達です。
大荷物を抱えた人も多く暑い車内でぴっちりと身を寄せ合い、ちょっと動くとおばちゃんの荷物のヤシの葉が顔に刺さったりしますが身動きがとれない状態なので刺さるがまま、、、、

バリ人は基本的にはとても人の目を気にするし調和を図る事を大切にしますが、日本人の私にはちょっと共感しない所で強烈にマイペースだったりします。
混雑した車内でいきなりご飯やおやつにバナナや豆腐の天ぷらを食べ始めます。
今、ここで?食べるわけ?
ただでさえ暑苦しい車内は汗と花と果物とスパイシーな匂いとでむせ返りくらくらして来ます。

そこに学生さんも混じったりして、小学生くらいだと知らないおばさんの膝に抱えられたり、学生さん同士で抱え合ったりして折り重なって乗ってます。
基本的に乗車口のドアは開きっぱなしなので手すりに掴まって戸口に立ちっぱなしの学生さんもいます。
サンフランシスコのバス?
もう若い熱気(笑)も加わって息苦しささえ覚えます。

「もうこれ以上は無理でしょ?」って状態でも欲張り運転手の場合は「まだまだ乗れる!」とばかりに途中経由する村々の市場や人だかりのある所ではベモから降りて声をかけます。
客の方が「これは、乗れないでしょ?」と辞退しても「オレの隣が空いてるぜ」とまだまだ詰め込みます。
もうこうなったら詰め放題の心理と同じで「今日はどれだけ乗せられたか」その達成感のみでやってるとしか思えません。

まぁ、朝のベモの日常、光景はこんな感じです。

が、午前11時を過ぎたあたりからベモの稼働率は俄然低くなります。
利用客がいないからです。

私は、バトゥアンまでベモで通っていましたが、だいたい朝9時~9時30分くらいに乗って約20分~30分くらいで到着し約2時間でレッスンが終わって先生の家でお昼ご飯を頂くと帰りのベモに乗る時間は1時くらいになります。
待てど暮らせどベモは来やしない、も~~~~~~~全然来ない。
バリの午後1時の猛烈な暑さの中で30分とか酷い時は1時間とか待ちます。
例え屋台の中で待っていたとしても、暑さでぼ~っとして「遠くに蜃気楼が見えるな~~~」って思う時もあります。

そして、やっとベモが来たと思うとそれはウブドへは行かず途中の分岐点”サカ”からギャニャールへ行くベモだったりします。

ウブド周辺のベモは大きく分けると5つの目的地にに分かれます。
ウブドの市場から北(山側)へ行くベモ(チャンプアン サンギガン方面)
一瞬南に向って結局北へ行くベモ(テガララン方面)
市場から南へ主要道路を通ってバトゥブランというデンパサールの手前のバスターミナルに行くベモ
主要道路を通ってサカからギャニャールに行くベモ
途中のタガスという村から主要道路を通らずにギャニャールに行くベモ



これをどのように区別するか?と言うと最後のタガス経由ギャニャール行き以外は皆、バンの色が茶色か青。
先ず、この茶色か青のベモを見つけ運転手に聞くしかありません。
南に向う青か茶色のバンを拾えばとりあえずはバトゥアンの手前のサカまでは確実に行けるのでそこでギャニャールから来たバトゥブラン行きのベモに乗り換える事も出来ます。
朝は乗り換えなしで行ける事が多いのですが、午後になると何故かバトゥブランまで直接行くベモが少なくなり、午後のレッスンの場合は大概乗り換えが必要で、分岐点のサカでどれだけ待つか解らないので例えレッスンが4時からでも2時半くらいに宿を出る事になり、これまた暑い中ぐったりしながらベモを待つのでした。
1度確かめもせずに茶色のベモに乗ったら珍しくタガス経由のベモで途中で、慌てて降りようとしたら「この時間はベモが少ないから、このままギャニャールに行ってそこでバトゥブラン行きに乗った方がいい」と言う運転手の陰謀(?)にまんまとハマり結局1時間半くらいかかってバトゥアンに着いた事もありました。

まぁ、そういうわけで、朝はともかく午後はウブドからバトゥブランへ行くベモもその逆も極端に減り、やっと来たギャニャール行きのベモに乗りサカで降り、またそこでウブド行きベモを待つ事になるわけです。

「何が悲しくて40歳を過ぎてこんな暑さの中、バスを待たなきゃ~いけないわけ?だからバイクに乗れる様になればいいじゃん!」と怒りに煮えたぎった私が言うと「だってコワイじゃん、コワイよ、周りはあんな運転してる人ばかりだよ?やめようよ」ともう一人の私が答える。
何の儀式かと自分でも呆れるけど、この脳内会話をほぼ毎日サカの屋台で繰り返してました。
理性も失ってますね、、、暑さで。



この二種の暦をミックスし、お祭りなどのイベント開催日を記した『バリ・カレンダー』(名前に何のひねりもなくてごめんなさ~い)を見て1年を過ごすわけですが、このバリ・カレンダーには「ウク暦の何日」だとか「どこそこ村の祭りはいつから始まる」だとか、そんな情報以外も記載されています。
それは、「今日は釣りをするにはいい日」とか「家を建てるにはいい日」とか、、、、、
そんな事も書いてあるのです。


今回、初めてガムランの中の楽器”チェンチェン”を習って来ました。
主に”アルジョ”という言うなればバリ版のミュージカルの伴奏に使われる小編成のガムラン”ググンタンガン”のCDを去年の夏にじっくり聴いて「かっこ良すぎるぅ~これやってみたい!!」と思いググンタンガンの太鼓奏者でこの方の右に出るものはいない!!という程、ググンタンガンに精通している”イ・ワヤン・タマ”氏に習って来ました。
タマ氏の住むシンガパドゥはアルジョが盛んな地域で演奏者の他に舞踊家達(歌手?)も沢山住んでいる地域です。

電話番号を知らなかったので、先生宅の近所に住む日本人女性(アルジョの名舞踊家の家に長期で住み込んで勉強している)に先ずは習える可能性があるかを聞いてもらいました。
教える気はあるが、稽古開始日についてはまた後日という事で連絡を待ったけれども全然連絡なし、、、、
う~~~む、、、、、、と唸って数日。
やっと連絡が来て「明々後日来なさい」との事。
ん?明日でもあさってでもなく明々後日???
大概の踊りの先生は「明日から来ていいですか?」と聞くと「もちろん~」という事が多いので待った上に明々後日って?とちょっと戸惑いました。
言わないだけで、もしかして私に悪霊が取り憑いてるのが見えてて教えるのを怖がってるとか?そんな事あったりする?と密かに悩んで(?)みたり、、、、、、

心配せずとも悪霊は憑いてなかったらしく無事、レッスンは始まりました。
初めはお互いよく知らない者同士だったので、私はもちろん先生の方も緊張している様子でしたが3日目くらいからだんだんと打ち解けて来て、レッスン中に色んな話をしてくれるようになりました。
そして、ある日突然「あの日をレッスン開始日に選んだのは、カレンダーに『新しく習い事を始めるにはいい日』と書いたあったから」と先生が言い出し、そうだったのか~と納得すると共に、バリ人にとってのカレンダーというものは、ただの曜日を示す道具ではないんだなと改めて感じました。
そして、先生は「そうではない日に始めてもダメではないけれど、せっかくナビィは長くいるんだから良い日を選んであげたかった」と笑って言ってました。
私はとっても自分が大事にしてもらってると思って本当に嬉しくなりましたし先にも書いたように『バリの深みにハマりたい』と望んだ通り、バリ人の何気ない”深み”に触れられたようで、これもまた嬉しくなりました。

この出来事があって私もすっかり忘れていましたが日本のカレンダーも、バリ・カレンダーのように『釣りをするにはいい日』なんて細かい事は書いてはいませんが、立春だの啓蟄などの節気が書いてあるし仏滅、友引、赤口などの六曜や節句なども記されており、曜日を示すだけの道具ではなかったはずだな~と思い出しました。
日本もちょっと前まではサカ歴と同じ太陰・太陽暦の暦を使っていたのよねぇ、、、、

月には人間の生理に関係する運行があります。
満月になり、少しずつ欠けて無くなってまた少しずつ膨らんでまん丸くなる。
その周期の中で命の営みが育まれ満月になったら珊瑚やウミガメが産卵し、海は大潮になります。
自然分娩の産院では満月に生まれる赤ちゃんが一番多いと聞きました。
また、男性には解らない感覚かも知れませんが、女性は月の満ち欠けと身体とが大きな関わりを持っている事を実感する事が多いのではないかなと思います。
いわゆる『旧暦』はそういった人間や生き物と月との交わり、野生に忠実に作られたものなのではないでしょうか?


じゃ~何故、バリはこの暦が残り(210日のウクもありますが)日本は廃れてしまったのでしょうか?

私は研究家でもないので勝手な想像でしかありませんが、日本はアジアの国々の中でいち早く元々の文明を捨て、西洋の文明を取り入れた事で本来持っている日本人の野生も少しずつ捨てて行ってしまったのではないかと思います。
バリ人と一緒にいると時々『動物の中の一種としての人間』とでもいうべき、本能や野生を感じる事があります。
それは多分、動物が当たり前に持っている危機を察知する能力であったり、自然と感応し合う力だったり、、、、そのようなものではないかと思います。
オノレの文明を捨てたと同時に、そのような野生の力も捨ててしまった日本人には昔の暦は必要なくなってしまったのかな~と思います。
最近、旧暦カレンダーや月のこよみ手帳などが売られるようになったのは、やっぱり人間としての野生がうずうずと、ムズムズと私達の中から湧いて来ているのかも知れません。
ウク暦とサカ暦を組み合わせたバリ・カレンダーがバリ人やバリの土地と合っているように、私達日本人にも廃れてしまった暦の方が日本人の身体にも自然にも合っているのかもしれません。
本来、人間は月や太陽と言った宇宙のリズムと自分達の身近な自然環境のリズムを巧く合わせて生きる知恵を持っているのではないでしょうか?
そのような能力を発揮出来る事も文明のひとつのような気がしてなりません。
バリ人にとっての重要なカレンダーは私達の使っているグレゴリオ暦ではなく1年が210日の『ウク暦』と354日の『サカ暦』の2つです。
今や世界的観光地になったバリではグレゴリオ暦は日常生活で当たり前に使われていますので、私達とバリ人との間で曜日について、ものすごく大きな隔たりがあるわけではありません。
例えば私達が「今度の日曜日」と言ったら「それはウクのいつだ?」とか聞かれたりはしないのでご安心を。

ウクの方は古代ジャワで使われていたものですが、これは私は何度か仕組みを聞いたのですが全然解りません(語学力の問題?)
カレンダー編纂のプロがいるくらい複雑ですから、、、、、
が、殆どのオダラン(お寺の創立祭)がこのウク暦によって行われています。
一方サカの方は、太陰・太陽暦と言われるものでひと月を29日か30日で計算しています。
そうすると純粋な太陽暦との間に誤差が生じるのでそれを何年かに一回閏月を入れる事で調整しているものです。

ウクでは『ガルンガン・クニンガン』という日本で言えばお盆のようなお祭りがあり、これが210日に一度やって来るウク最大の行事です。
ガルンガンの数日前から翌日の『マニス・ガルンガン』まで、バリ人は供物作りにてんてこまいの忙しさ。
お祭りだらけ、奉納だらけ、供物は山盛り作ります。
ガルンガン当日もご先祖様のお迎えにお寺へ行き、悪霊を祓うために”バロン”という獅子舞が練り歩きます。
この時期はムスリムのお店以外の商店や官庁などほとんどがお休みになります。
クニンガンはガルンガンから10日後に訪れる、ご先祖さまをあの世に送り返す日です。
”ペンジョール”という巨大な竹で作った飾りが家の門に、大きな通りに飾られます。
それは、日本の『門松』のようなハレの日を飾る意味があるのではないかと思いますが、竹の先にヤシの葉で編んだ飾りや黄色や金色の布で装飾を施されたペンジョールはとても美しく、飾られるとバリ人でもないのに何だかウキウキするのです。
そして、日本の角付け芸と同じように子供達が獅子舞で練り歩き、お金をもらったりお菓子をもらったりする姿を見ると、日本を越えて広くアジアの共通の文化だな~と思うと平面図の地図からは見えて来ない、先人達のつながりやネットワークを感じ、それもまた心が踊るのです。


そしてサカには『ニュピ』という日本で言えばお正月のようなお祭りがあります。
お祭りと言っても大騒ぎは出来ません。
日本も元旦から三が日は家でだらだらが基本ですが今となっては初売りが二日からだったり、テレビもお笑い番組ばっかりやっててにぎやかですが、バリでは大声を出す事、外出、電気や火を使う事が禁じられるため、いつもは車の通りが激しく音がうるさい場所でもし~~んとしていて、聞こえるのは犬やニワトリや鳥の声だけ。
夜は本当にまっくらなので晴れていれば星が空いっぱいに広がって美しい静寂の一日です。
空港も閉鎖になるためこの日はバリに入る事もバリの外に出る事も出来ません。

私の泊まってる宿は暗闇に不慣れな観光客ばかりなので夜、ロビーの電気を灯していたら隣のバリ人宅から電話があり(しかも小声で)灯りをもっと小さくしろと言われたらしいので、観光客とは言えども容赦はありませぬ。(大きなリゾートホテルは別のようですが、、、、)
もちろんテレビもラジオもやってないので、やる事と言えば前日に買い込んでいた食料を食べ続けるか、お酒を飲むか、寝るか、しゃべりつづけるか、、、、
私はここ3年ほどニュピを体験していますが毎年「よっしゃ~~瞑想するぞ!」と意気込みはするものの、食べて寝てしゃべってを繰り返すだけの1日となっております、おほほほ。

そして、お祭りではありませんが、新月(ティルム)満月(プルナマ)は特別な供物を作る日でお寺や沐浴へ行き身を清める人も多い日です。
そしてもうひとつ、ウク歴にはひと月に2度 悪霊が徘徊する日『カジャンクリオン』という日があるのです。
この日もやはり供物は特別なものをお供えし、悪霊に取り憑かれないように(?)家寺でお参りをしたりするのです。
ムチャルという土地の悪霊払いの儀式もこの日に行われる事が多く、ただでさえ悪霊が徘徊してるって~のに、その上祓った悪霊がうろうろ、うようよ、、、、バリ島全島に悪霊注意報が出ていそうです。
$Exit 2013
ペンジョール

ウブドから少し東に行った所に「ペジェン」という村があります。
その村には『ペジェンの月』と言われる巨大な青銅のゴング(銅鑼)が安置されているお寺”プナタラン・サシ”があり、仏教の影響をも受けたというヒンズー古代遺跡の”ゴアガジャ” ビシュヌ・シヴァ・ブラフマナの三大神が祀られてる”サムアンティガ寺院”などの観光スポットと呼ばれるような場所の多い村です。
その村に『レゴン・プライヨン』という古い古典舞踊の踊り手だったおばあちゃん サン・アユ氏が住んでいます。

この踊りは延々と同じような曲調が続き、その中で振りやコンポジションが変わるという金太郎あめみたな踊りで、今はあんまり踊られないようなのですが、今回、プリアタン村のラカ先生が「この踊りは覚えるのが大変だから長期滞在している今、勉強してみたら?」と奨めて下さったのでやってみる事にしたのですが、稽古の合間にサン・アユ氏の話しになり、「私も彼女に習ったけど彼女のようには全然踊れないのよ。ナビィも彼女が生きているうちに会っておいた方がいいわよ!今の踊り手にはいないタイプだしとにかくパワーが凄いから」と言うので住んでいるバンジャールと名前だけを頼りにバイクに乗ってペジェンに探しに行きました。

”ゴアガジャ” ”サムアンティガ寺院”を通って大きな通りを北東へ直進。
バリは大きな町や遺跡などの観光スポットを示す標識はあってもバンジャールの名前を示すものもなければ番地を示すものもな~んもないので、そこら辺の人に聞くしかない。
「あっちだよ~」
「むこうだよ~」
指差す方向へひたすら走る。
途中バイクでナビしてくれたオジさんが居たけど、自信を持って「ここだぜ!」と連れて行ってくれた場所は全然違うバンジャール、、、、
何で?私の悪い発音のせい?
ウブドを出て1時間半近くが過ぎてやっとサン・アユ氏の住むバンジャールの集会所に着きました。
さて、ここから自宅を探さねば。
バイクを止めて暫し考えてると、今時、日本人のな~~にが珍しいんだか知らないが子供達がわんさか集まって来たのでサン・アユ氏の名前を出し「レゴンの先生だよ」と聞いてみたけど子供達は「知らない~~」を連呼。
その会話を聞いていた女性が「坂を上がって小間物屋が左手にあるからその奥の家だよ~」と教えてくれました。
さっそく、坂道を直進。
小間物屋のおばさんに「サン・アユ氏のお宅ですか?」と尋ねると指で後ろを刺したのでバイクを止めて家の中へ入ってみました。

ごくごく普通のバリ人宅にひとり、スカーフをアタマに巻いた不思議な色の目をした小さな痩せた老女がぽつんと軒先に座っていました。
その姿はまるで魔女。
何だか人間ではないような不思議な存在で言葉なんて通じない人のようでした。
そして小さな小さな身体から飲み込まれそうな圧倒的なパワーを放っていました。
間違いなくこの人だと思い「イブ・サン・アユですか?(以下、イブに省略します)私はナビィという日本人です。プリアタン村のグンビアン・ゲー(ラカ先生の事)からの紹介で会いに来ました」と言いました。
すると、まるで子供のような笑顔になり「ジャパニズ?」と言うと隣に座れと合図して来ました。
そして顔をのぞき込んで「ユー、マウ、ムナリ?(あんた踊りたいの?)」と英語とインドネシア語のミックスで聞いて来ました。
ユーって、、、、まるでJ・喜多川?
うぷぷぷ~と笑いそうになるのを答えながら「あっ、はい、勉強したいです」と、答えたら速攻で「今?今か?」と聞いて来ました。
その勢いはまるで女王蜘蛛。
びしゅ~っと放れた蜘蛛の糸に引っかかった私は「今日は挨拶だけ」と思い、練習着も持って来てなかったのに勢いと魔力(?)に負けて「ハイ」と言ってしまいました。
バカバカ、私のバカ。


ものすご~~く昔、イブが友達の宿泊先に来て教えてるのを見学させてもらった事があるくらいで、もちろん踊っている所なんて観た事もなかったので、何を習っていいのかも解らなかったのでとりあえず曲に合わせて踊ってみる事に。

プライヨンの最初に女官の踊りがあるのですが、私は1度3日間くらい習った事があるくらいでまともに習った事がないので殆ど覚えておらず「踊れない」も同然だったのですが、イントロが始まったと同時に「あんた、これ踊れ!」と言われました。
「習った事ないので無理です」と答えると
「観てみたい!あんた踊んなさい。ユー、ムナリ!!」と笑顔なんだか怒ってるんだか皆目見当のつかない顔と強い口調で言われ、へびに睨まれたカエル?まな板の上の鯉?今の自分が何なんだか、よ~~~解らんけどここはもう踊るしかあるまいと観念しました。

踊り始めると、くったくたのソファーに埋もれるように座っていたイブは立ち上がり
「ユー、ピンタール(上手)」
「ユー、バグース(素晴らしい)」
目をキラキラ輝かせて叫びます。
初めのうちはユーの連呼に爆笑しそうだったのですが、何でしょうか?あれは。
身体が勝手にどんどん動いて本当に踊らされてしまうのです。
言霊に操られているって事なんでしょうか?
ちゃんと出来てるんだか出来てないだか自分では全然解らないけど、楽しい。
踊るの楽しい!!!すんごい楽しい!!!猛烈に楽し~~~~~~~~~い。
(帰国して聞いた話だと、イブは誰にもそう言うらしいです。笑)

女官の踊りが終わり、プライヨン本編に入る所でイブはテープを止め「あんたが踊ったのはプリアタン村のだね~~この村ではここはこうだよ。あそこはこんな振りだよ」と違いを説明するために踊り始めました。

さっきまで弱った老人(すいません!)だったはずなのに、しっかりした足取り、しなやかな手首、ど~んとした踊り。
足の動きなんて、私よりぜんぜんしっかりしてるぅぅぅぅ。
ソファーで埋もれてる姿はまるでスターウォーズのヨーダのよう(重ね重ねすいません)だった老女とはまるで別人。
集会所の前で家を教えてくれた女性が「今でも教えてる」って言っていたので少しは踊れるんだろうなとは思ってはいたけれど、私の想像を遥かに越えた動き、踊りに唖然。
しばらくボーゼンと見つめるのみでした。

そして、昔読んだバリ舞踊に関する本の中に『身体は木の幹、腕は枝』と書かれたいたように、イブの身体は幹、そしてそこから繋がる腕はまるで水を吸込んで伸びる枝葉のようにただ風にしなるように動いていました。
なんて素朴な美しい動きだろう。
見惚れました。

「ユー、この踊り似合うね」と言うと「はい、もう一回最初から」
約7分くらいの踊りは延々と繰り返され、気が付くと1時間半が過ぎていました。
ジーパンとTシャツは汗まみれ。
イブもそろそろお疲れだったので、この日は女官の踊りを繰り返すこと無限大で終わりました。

レッスンが終わると今度は昔の写真を見せてくれました。
旦那さんはガムラン奏者で同じ歌舞団で活躍したとか、10年くらい前には文化功労賞(のようなもの?)を受賞し、その時に久々にレゴンを踊ったという話しや、孫もダンサーでそのうちの一人はプリアタンの近くの村で踊って教えているとか、初めて来た日本人は誰でとかその方の写真を見せてくれたりと色んな話を聞かせてくれました。
そして昔の住民登録証のようなものが出て来ました。
そこには「1926年生まれ」と書いてありました。
って事は、、、、、、現在87歳。
う~~~~~~ん、凄いです。
こんな気力・体力のある87歳ってそうそういない気がします。

その日から数回、イブのレッスンに行きました。
毎回、毎回、”ユー”の後に続く言霊に踊らされ、それはある種のトランス状態なのか?何なのか?何を踊ってるんだか(笑)自分でも良く解らない状態で、ひたすら操られるように踊り大抵1時間くらいでぐったりと疲れるのでした。
「イブって私のエネルギーを吸って元気になってるんじゃないの?」
やっぱり魔女?


そのうち『チェンチェン』のレッスンが始まり、踊りの自主練習は部屋でも出来ますが、楽器は楽器を鳴らさないと巧くならないので暫くの間、楽器のレッスンに重点を置くことにしお休みさせてもらうことにしたのですが、結局、その後、一度もレッスンには行けませんでした。
帰国の日、失礼をお詫びしなくてはと思い、バイクをすっ飛ばして挨拶に行きました。

夕方5時を回っていましたが、まだまだ外は暑くイブは昼寝をしていました。
横たわった小さく痩せた身体を見て、起こさずに家族に伝言をお願いしようか手紙を置いて行こうかと悩んでいたらイブがむっくりと起き上がりました。
私の名前は覚えてはいなかったけれど、また、子供のような笑顔になって私の手を握って立ち上がりました。
初めてお会いした時のように軒先に二人で座りました。
私が「イブ、今日まで来れなくて本当にごめんなさい。私、今日の夜遅く、日本に帰ります。また来た時必ず続きを習いに来ますからどうかお元気いて下さい」と言うと、初めは驚いた表情でしたが、突然、何故か私のアタマをナデナデし、にぃ~~~っと笑って「ヤー(はいはい)」と言いました。
そのにぃ~っという笑顔に笑いが出たのと同時に、とてつもなくイブに申し訳なく泣きそうになり「イブ、ごめんなさい。本当にごめんなさい。」と繰り返していました。
イブは「はいはい、もういいよ」とでもいうようにうなずいていました。
そのうち、家族の人達が「今晩帰るんだって?何時の飛行機?日本には何時に着くの?」と集まって来て私とイブの二人きりの時間は終わりました。

薄暗くなり始めた頃、私はイブとイブの家族に別れを告げて帰る事にしました。
イブは自宅の外まで見送りに来てくれました。
いつもは魔女のような不思議なパワーに溢れているイブの姿は本当に小さく、大きな風が吹いたら飛ばされそうなくらい細いごくごく普通の老女で、次に来た時にまた会える確証はないような、とても切ない気持ちにさせるものでした。
そう思うと、もっと習っておけば、と後悔の気持ちもふっと湧きましたが、若かろうが年を老いていようが、毎日会っていようが、たまにしか会わなかろうが、どんな相手とでも「また今度」があるかどうかは解らない。
イブは私に「踊る事はとてつもなく楽しいという事を私は知っている」いう事を教えてくれました。
私はそれを自分の中で拡大して行くしかない。
もしかして「また今度」がなかったとしても、もうイブは私に先生として種をくれた。
ふっとそんな事を同時に想いました。

「Ibu! Benar benar terimakasih banyak. Sampai bertemu lagi (本当に有り難うございました。またお会いしましょう)」と言うとイブは黙って手を振っていました。

どうか「また今度」が叶います様に。
毎度毎度、私は師匠・マデさんの踊る”トペン・パジェガン”の奥深さに感心する事しきりなわけです。
んが、こんなに凄い仮面舞踊の踊り手さんですが、「こんな不当な扱いある?」とびっくりするようなメにいつも遭ってるように思います。
先ず、ムチャルは家の中のお寺で行われるのでお寺の以外の空いてるスペースで踊られる事になります。
たまに、仮面舞踊以外に他の芸能も同時上演されていたりして、広大な敷地の屋敷でもない限り、与えられたスペースは1畳くらいだったり、敷地の中のただの通り道だったりします。
道で踊ってても誰も踊り手の動きに何の配慮もなく、「あら~ちょっとごめんなさいよぉ~」的な雰囲気で通行人がぶつかって来ます。
「あのぉ~皆さん、踊り手さんはお面付けてて見えてないのでちょっと気を遣って頂けないでしょうか~?」心の中でお願いする弟子の私。
そして、ムチャルの神事の終わり頃に水を撒きながら敷地内を女性達が練り歩くのですが、それも踊り手が踊っていようがお構い無しでガンガン練り歩き、仮面に水がぶっかかっても、これまたお構い無し!!
今回4回ほど、ムチャルでのマデさんの踊りを観に行かせて頂きましたが、どれもこれも「こういう場合の奉納舞踊家ってどういう扱いなの?」と何か根本から問うてみたい気持ちにさせられるものばかりでした。

マデさんにこれまた尋ねてみた所「まぁ、ムチャルってそんなもんだよ。ははは~」とこれまた何の返答にもなってないようなお答えでした。
ですが、後日、私は観に行けなかった普通のオダランでの奉納がやはり通り道でだったそうで、通行人がガンガンぶつかって来て非常に踊りにくく「なんであんな所で踊らせるかなぁ~」とぼやいていたので、やはり「ムチャルはそういうもの」と言わしめる何かがあるのでしょうなぁ。

お寺での奉納を観ていると全然違う芸能が割と至近距離で同時上演という事が良くあり、ただ観ている私でさえ両方の音楽が入り交じって気が狂いそうになる時があるのに、踊り手は平然と踊っているので「バリ人の集中力は凄い」と常々思っていたのですが、今回、その事をマデさん他、数人の踊り手さんに尋ねてみたら「は~も~気が狂いそうに決まってるじゃん」と言われ多いに安心したのですが、何でこんな仕打ち?とも思いました。
普通に考えてみてそれってかなりの苦行じゃない?誰か止めてあげてよと思うのですが、、、、

ムチャル以外でもこんな事もあるわけなのですが、じゃあ踊り手は全然大事にされてないかと言うと、そうでもなく踊り手が到着したらお茶やお菓子やタバコやのもてなしを受けた後、仮面への供物をお家の人達が提供し、そこでお祈りが始まります。
供物もそれなりにお金も手間もかかって作られているのでしょうし、何よりもお家の人達の空気からやはり踊り手は必要とされ尊敬されている感じがひしひしと伝わって来ます。


日本で踊っていると、観ている人と踊り手の境界がはっきりと分かれています。
それは踊りに限らず、ライブでもそうですし、たいていはそういうものだという事にこの日本ではなっているように思います。
が、バリはその辺が曖昧で、そこが私にとって面白く興味深い所でもありました。
そして通り道で踊らせようが仮面に水がぶっかかろうが、それが『尊敬していない事にはならない』という感覚がバリ人にはあるのだろうなと思います。
日本人の私だったら、尊敬の念をもっと違う形で現すよなぁと思うし、わざわざ境界を曖昧にしておく意味があるのだろうなと思うけれども、何もぶつからなくてもいいじゃん、と思うと何だか笑えてしまいます。

そこには日本人のちょっとバリの芸能をかじっただけの私には解らない、奥深い意味や意図があるのではないかと思います。
だから私になんて解りっこないし、興味深くは思っても何の分析も出来やしないのですが、なんとなく『そこに心を込めたという事実さえあれば、それでいい』という心の在り様があるような気がします。
供物があり心を込めた祈りがあったという事。
皆のために踊り手が来てくれ踊っているという事。
それさえあれば、それでいいのだと、そう思って生きているような気がしています。

Exit 2013
最後に登場 いわば”福の神”のシダカルヤ
バリ人は全員、みんなアーティストだ!と思う瞬間があります。
それは、供物を見る時です。

日々のお祈りに供花(チャナン)と炊きたてのお米を乗せた小さく切ったバナナの葉(サイバン)とお香をお供えします。
家にはサンガという家寺があり、その祠から神棚、洗濯機やガスレンジなどの日常に使用するものや、道には悪霊が暴れないようにとお供えしますが、そのお花を乗せるためにヤシの葉で作られたお皿にも色んな形があり、それはどれも美しいのです。
また、大きなオダランでは、色とりどりの果物をタワー上に積み上げたものや、米粉に色を付けて練り上げた粘土状のもので作られた供物や、マンダラ図みたいなものや、もう私のボキャブラリーでは説明出来ないような色とりどりの供物がお祭りの種類のよって様々に長いものでは何日もかけて作られて行きます。

神様に捧げるためにこんな美しいものを市井の人達が淡々と作り上げるなんて!!この人達ってば凄い!といつも思うのですが、特に毎日捧げるチャナンなど顕著ですが、お祈りが終わってしまえば人が踏もうがバイクが踏みつけようが、うさぎがもぐもぐ食べようがお構い無し。
宿のスタッフは「これはもうゴミね」と言い、ポイとゴミ箱へ。
バイクにもチャナンをお供えしますが、ハンドルのあたりにただ乗せただけなので走り出したら当然チャナンは風で吹っ飛ばされますが、それでよし。
自然に還るしね。
前方を走る人のチャナンがふっ飛んで来てびっくりした事が何度もありました。
私なんて、なんだか捨てちゃったら神様と自分との繋がりも簡単に切れちゃうような気がして、走っても飛ばない様にハンドルとライトのところにわずかにあった隙間にむりやりチャナンをねじ込んだりしていました。(これはこれで酷い扱い?なんだろうな~)

ムチャルという家の土地の悪霊を祓うお祭りがあるのですが、そこでは仮面舞踊が奉納される事が多く、マデさんにも依頼が来て私もよくついて行きました。
このムチャルでは開かれて丸焼きにされた鳥や”サテ”という焼き鳥(豚の場合もヤギの場合もありますが)が細長く組まれた櫓風の供物の上の方に捧げられます。
が、数日前から作り始めたこの供物。
ムチャルの当日になったら既にサテは腐ってどこからともなく風に乗ってくっさい臭いが、、、、、
これが供物?神様に捧げるもの??ホント???

これについてマデさんに尋ねてみた所、「悪霊は汚いものが好きだし獣をお供えして地面からおびき寄せるため」というウソかホントかちょっと解らない答えが返って来ました。


私が観せて頂いた仮面舞踊は『トペン・パジェガン』と言い、トペンは仮面の事で、パジェガンというのは「一人で」という意味らしいのですが、最近は二人で踊る事もあるらしく、マデさんも二人で踊っていました。
大臣、道化師、高僧、王、などの数種類の仮面のキャラクターを踊り分け、最後に『シダカルヤ』という神様になり全て無事執り行われたという印に古銭とお米を東西南北に撒いて終わるというもの。
この最後のシダカルヤの登場というのは、すべて儀式を取り仕切っているお坊さんのマントラ終了の合図として鳴らす鈴の音次第で、シダカルヤの前はたいてい道化や語りがメインの芝居だったりするのですが、これが一体いつ合図が来るのかが解らない。
次から次へと道化の仮面を付け替え色んな役を二人で踊ったり演じたりしながら合図を待ちます。
見ている人達もゲラゲラ笑って、道化、受け狙いに成功!と思っていると突然合図があり、シダカルヤに付け替えそのキャラクターになり切る。
う~~む、凄い踊りです。
鈴の音はマントラを唱える毎にならしているのか、頻繁にリンリンと鳴っていて、トペンド素人の私にゃ~あんまり区別がつかない、、、、
踊り(演技?)に没頭していても合図を逃さないというセンサーは働いていないといけないし、これは大変な踊りだなぁ~と観る度に感心しました。


$Exit 2013
トペンの一種”ジャウック・クラス”
私の大事な一部でやんす~~~~