WE CAN FLY !!

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23歳の大学院です。エンカウンターグループや簡単なボディワーク、瞑想などをしながら自分の見逃していた部分を見出すことに日々取り組んでいます。大学院のいちおうの専門はコミュニティによる問題解決です。

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新居で一人暮らしをはじめ、家の本棚に本をいっぱいに並べて、大学学部時代のゼミの同期に見せつけニヤついている場面が思い浮かんでくる。こういう願望を持っている自分がいる。そしてこの願望を叶えるために積読本を読もうという動機が働いている。そういう動機だと本は読み進められず、鬱屈としてしまう。

と自覚したら、またわりかし本を読み進められるようになった気がする。

そんな感じで強い情動をともなって思い浮かんでくることを自覚できると、日常の些細な滞りを突破できるなあと改めて思った。

そういうわけで、いくつかのことについてどう踏み出せばいいかヒントを掴んだかもしれない。強い情動をともなって思い浮かんでたことが思い出されてきた。

「関係性において必要な次の一歩は、その瞬間の状況の中に見いだされる。」
「「気づき」は、手に負えない葛藤さえも変容させることができる新しい一歩を必ず明らかにする」

というアーノルド・ミンデルの言葉が突き刺さった。
高校を卒業してからの約6年くらい、人や社会について、大げさな言い方かもしれないが、探求してきた。大学院に入学した動機も探求のためだった。最近、探求に一区切りついた気がするので、思いつくままに結論を書いてみる。(長くなった...)

出発点は、偶然の不幸に左右されない自己肯定、だった。世の中には想像を絶する不幸が存在する。自分が普通にしていられるのは偶然にすぎない。もし、例えばアウシュビッツの強制収容所に入れられたらどうしよう。偶然にのさばって生きるのは不誠実ではないか。そんなことを思い、偶然の不幸に左右されない自己肯定、というのを求めていた。

それ近い境地を垣間見たことがある。共働学舎という社会で生きづらさを抱えた人が酪農やチーズ作りを営みながら共同生活を送っている牧場があり、10日間滞在した。そこには、体が不自由になって自分らしくなった、両腕がない方が人生楽しい、という人がいた。社会的な価値観から自分を解き放ち、生きている。そういう人の存在によって周りの人も変わっていく。

自分の求めているのはこういうことなんだと思った。合理主義的・功利主義的な世間の基準から自由になり、主体的に生きること。常識から解き放たれること。ベイトソンの学習3のような。
でもまだ足りないと思った。例えば拷問や強制労働、虐殺には耐えられない。

この問題に答えるべく、さらに突き詰めて、社会問題、非暴力運動、そしてある種の霊性から着想を得た。社会問題から言及し、最終的にはじめに戻ってくる。

世の中に存在する多様な社会問題は、根っこにある構造を、社会的ジレンマ状態・囚人のジレンマ状態からだいたい説明できると思う。要するに、個人の合理的な行動の論理的な帰結として全体の利益が損なわれるというもので、例えば、核開発競争、二酸化炭素排出、ゴミのぽい捨て、違法駐輪なんかが典型例としていえる。簡単に言えば、一人一人の視点だと違法駐輪は便利だが、多くの人がやればみんな困ってしまう。かといって自分一人だけルールを守っても損だから違法駐輪するが、みんな同じようなこと考えてみんな損する悪循環、みたいな話になる。
貧困、格差、紛争、環境問題など、だいたい似た論理で説明できる。

日本もこれから高齢化社会になって圧倒的に介護事業者が不足する分、隣近所のつながりで助け合うことが必須だが、そのためには社会的ジレンマ状態を克服して共助の体制づくりをすることが必要になる。

社会的ジレンマ状態を克服するには、自分が損するのを覚悟で他者や社会、公共のために尽くす人が出てくる必要がある。本当に社会問題を何とかしようと思えば、そういう人が爆発的に増える必要がある。不可能にも思えるが、日本の高齢化なんかはそうでもしないとどうにもならない。紛争や貧困もそうだと思う。

じゃあどうやって利他的行動を爆発的に増やせばいいか。爆発的に利他的行動が増えた事例として、非暴力運動がある。紛争は究極の社会的ジレンマ状態といえて、憎しみや復讐を求めていると、延々と憎しみの連鎖の悪循環にはまってしまう。非暴力運動は、暴力をふるわれ、時には殺されようと憎しみを返さない。しかも国民レベルの運動まで発展する。奇跡としか言いようがないようなジレンマ克服が起きた。こういう力が同時多発的に働けば、社会問題を解決できる可能性が高い。

どうしてこのような奇跡が可能となったか。ガンジーやキング牧師のような究極のリーダーシップはどのようにして生まれるのか。キング牧師は自伝に次のように書いている。

「(略)非暴力を信ずるものは、未来をふかく信じている。(略)正義のための闘いのなかで、彼が宇宙を味方にしているということを知っているからだ。(略)この宇宙のなかには、現実のばらばらな側面をひとつの調和ある全体に統一するために働く創造的な力はたしかに存在するのだ。」(『自由への大いなる歩み』)

何か深い確信の境地がある。ガンジーもキング牧師も殺されているが、それさえもおそらく受け入れていたであろう境地。またキング牧師の引用になるが、キング牧師は運動の中どうしようない恐怖に陥り、極限状態で祈りを捧げた。

「勇気がすっかりくじけ去り疲労困憊したこうした状態のなかで、ぼくは、この問題の解決を神様におまかせしようと決心した。(略)

〝わたしは、ここで、わたしが正しいと信ずることのために闘っています。だが、いまわたしは恐れているのです。人々はわたしの指導を求めています。そしてもし、わたしが力も勇気もなく彼らの前に立つならば、彼らも勇気を失うでしょう。わたしの力はいままさに尽きようとしています。いまわたしのなかには何ものこっていません。わたしは、ひとりでは到底たちむかうことのできぬところにきてしまいました。〟

この瞬間、ぼくは神の御前にあることを感じた。こうした経験はいまだかつて決してなかったことだ。あたかも、〝正義のために立て。真理のために立て。しからば神は永遠に汝の傍にいますであろう〟という内なる声のしずかな約束をきくことができたように思われた。と同時に、ぼくの恐怖は消えはじめた。ぼくの不安は消え、ぼくは何ものであろうとこれに立ちむかう覚悟をきめた。」(『自由への大いなる歩み』)

こういうことなんじゃないかと思った。根源的な肯定の境地。人生における自分の実存的な問いの答えであり、社会を変える答えでもある。ニューサイエンス系のリーダーシップ論、東洋思想など、似たようなこといってる気がする。Uプロセス、シンクロニシティなのか。意識の奥の無意識よりさらに奥の霊性なのか。阿頼耶識、阿摩羅識、乾栗陀耶識なのか。ドリーミングボディなのか。ベイトソンの学習4なのか。

とんでもない理想主義だけど、これでしか納得がいかない。少しでも理想に近づくために、毎日少しずつでも自分の見逃していた自分を見出し、手放して生きたいと思う。






今、大学院を辞めようか真剣に考えている。前から考えてるけど、真剣さが増している。

もともと大学院に進学したのは、ものごとの探求のためだった。でもその探求がある程度終着してきた。さらに発展させるにしろ、今の大学院という場から得られそうなことは少ない気がする。

自分に備わっているものを発揮したり、人に考えていることを共有したりすることも、今の環境ではしにくい。自分を抑えて鬱屈とする。その度合いが増してきた。

ちょっと前まではそれでもいいと、仕方ないと考えていた。環境変えたいと思いつつも、結局は行動を起こしていないので、そこまでの気持ちが自分にはないのだろうと考えていた。現実逃避しているに過ぎない。

しかし環境を変えたい要因が日増しに大きくなっていく。これを抱えたまま修士論文を書き上げるのは厳しい。得ることもあるだろうけど、自分を停滞させる気がする。と思うのは現実逃避なのか...?

環境を変えたいと思いつつも、行動を起こさない自分を感じてみた。自分が追求したい、思入れのあることであるほど、自分で自分を塞き止めようとする感覚がある。大切にしてきたことだからこそ、そのことで人に低く評価されたくないのかもしれない。

大学院生という身分への執着もあるかもしれない。周囲に自分の選択を認めてもらうのがおっくうというのもあるかもしれない。現状に甘んじるのが楽だからなあ。

もちろん一番はどんな環境を選択するか。あてがない。生き抜くことへの不安がある。でも覚悟があれば、きっと何とかなるんだとも思う。覚悟は大きくなってきているがまだ弱い。

どうすればいいのだろう...。