クラッシュ

 

2006年日本公開  監督/ポール・ハギス

出演/ドン・チードル、サンドラ・ブロック

 

1991年の出来事。ポール・ハギスはジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』(91)を観に行った後、車に乗って帰ろうとしたら2人の若い黒人青年にカージャックされたことがあり、その他でも何度か両手を挙げさせられたことがあったという。この時にこの若い2人は自分の犯罪をどう正当化するのだろうか、どう生き延びていくのだろうか、またそもそもこの2人はどんな関係なのか、どんな環境に育ってきたのかなどとポールは考えていた。

 

そんな経験を初め、彼が長く住んできたLAのあちこちでは既に数え切れぬほど多くの犯罪が発生していた。なかでもより相当の事件規模だったとされるのは(個人的にも報道などで印象に残ったものとして)ロス暴動だったと思う。

 

黒人差別による暴動は、もちろんこれが初めてではなかった。現在では既にロサンゼルスに吸収されたワッツでも既に暴動が起こっていた。この時の逮捕者を4000人は下らなかったという。1965年の事件、ここで既に差別意識は顕著になっていった。

 

そして91年、ロドニー・キングという黒人青年が警察にスピード違反で捕まるが、それを約20人もの白人警官が腹いせからか暴行を加えてしまった。たまさか一般人がそのありさまを撮影し、そのビデオ映像が全米で放送され、黒人たちの反感をより一層強く煽る結果となる。

 

一方ではアフリカ系、ヒスパニック系、韓国人系などがそれぞれのところでコミュニティを形成しながら生活を営んでいたなか(実際、正確にはアフリカ系がヒスパニック系や韓国系に占領された形が正しいそうだ)、ある店を経営していた女性韓国人が、来客していた当時15歳の黒人女性ともめごとをした後、彼女を銃殺してしまった。この事件の裁判での判決は軽微なものとなり、納得も行かずこれにますます業を煮やした黒人たちは堪忍袋の緒が切れたように暴動を起こした。これが1991年のロス暴動である。あまりの暴力の凄まじさに警察は一切動員されず、あくまで自己防衛に徹するのみだったという。

 

暴動は6日間続いた。暴動を鎮圧させるため動員されたのは州兵、連邦軍(陸軍&海軍)全てひっくるめて4000人超という。逮捕者は1万人を上回り、死者約60人、負傷者約2000人、放火件数約3600件、被害総額は最大で10億円。このロス暴動の発端とされるロドニー事件で直接関わった警官4人が起訴されるも警官たちの主張が全面的に認められ、判決は無罪となる。陪審員に黒人はひとりもいなかった。ゆくゆくは陪審員制度での課題が克明に浮き彫りとなった事件だった。

 

ニューヨークも同様に様々な人種が混在するが、前述のコミュニティのような形でではなく、要はシャッフル状態になっていると思えばいいだろうか。従ってお互いの民族集団がここLAでは交流すること自体、つまりお互いの地域を行き来することも殆ど無かったということから、未だになかなか気難しい間柄らしい。結果として、これまでの暴動事件の数々がお互いの集団に対する先入観を作り出してしまい、多くの不寛容と誤解と緊張を残してしまう結果となった。これも(残念ながら)歴史であり、その末端として完成された本作の主題でもあると筆者は考察するのである。

 

LA生まれのラッパー歌手&俳優のアイス・キューブやキューバ・グッディング・Jrが、このロス暴動の中心地であったとされるサウスセントラル地区を舞台にした青春映画に出演した。ジョン・シングルトン監督(当時23歳)の『ボーイズ・ン・ザ・フッド』(91)。奇しくも『羊たちの沈黙』との公開時期が近く、ポール・ハギスの人生観はこの1年が最も大きく変動を見せたものになったのかもしれない。

 

この殺伐とした背景のなかを生きてきたポール・ハギスも様々な人種たちの交流を数多く目撃してきた映画作家のひとりであると思う。警察官の暴行に対する抗議文を読んだり、撮影現場でのスタッフである白人や黒人たちとの間で聞かれた差別的なジョークの言い合い(しかもそれを笑って流す)が聞かれたり、日本では決して身近に味わうことのない環境であるに違いない。

 

LAはバカみたいに広い。東京都全域よりさらにもうひと回りぐらい広いものらしく、このことから明らかに車が必要な移動手段となることも至極当然のことだ。多種多様なる民族の数々が互いに接触することもなく、彼らを乗せた車が流れて移動していく。しかし世界じゅうどこでも交通事故が起こらない日は一切ない。衝突事故が起こって初めて他民族出身の人との交流ないしぶつかり合いが起こり、そして多くの場合、人は変わる。

 

触れ合い。

どんな街でもそこを歩けば、

人と触れたり、ぶつかり合ったりする。

でもLAにはそれがない。

金属とガラス、そう、みんな車に隠れてばかりいる。

だからみんな、誰かとぶつかり合いたい。

そしてみんな、誰かと何かを感じたい。

 

かようなモノローグから物語は始まる。このモノローグを刑事グラハム(ドン・チードル)が語りだす(この役名は恐らくトマス・ハリス原作シリーズからきている)。死体遺棄現場に向かっていた矢先、交通規制の渋滞で追突事故に遭う。急ブレーキを踏んだ中国人の女性運転者と揉める女性の相棒刑事をよそにして現場に歩き出したグラハムが見たものは。

1日前。2人の若い黒人青年がカージャックを始める。車を奪われた夫婦(サンドラ・ブロック&ブレンダン・フレイザー)は車の鍵と一緒に家の鍵をも奪われたために自宅の鍵も交換しなくてはならず、鍵屋を呼んだ。呼んだらタトゥーの入ったヒスパニック系(マイケル・ペーニャ)だったらしく、今回の事件で黒人ならなんでも一緒くたにして差別を露わにするようになった妻を夫はなだめる。夫は地方検事で選挙とやらで忙しい。秘書はうちひとりが黒人女性だった。

 

奪われた車は黒のリンカーン。盗難被害の通報が全車に伝わり、夜中パトカーは全ての車種に目を凝らす。ナンバーは違ったが、警官ライアン(マット・ディロン)は同じ車種を見つけて停めさせた。相棒の警官ハンセン(ライアン・フィリップ)に手伝わせるが、ドライバーのプロデューサー夫婦(サンディ・ニュートン&テレンス・ハワード)は警官ライアンに辱めを受けてしまう。夫婦は帰宅して喧嘩(ポール監督の自宅でロケ)。警官ライアンは黒人差別主義者。そんなライアンをハンセンは軽蔑し、その一方でそれでも自身は警官としての正義を貫こうとしていた。

 

鍵屋は一人娘が可愛すぎて仕方がないパパ。外から銃のような音がして、ベッドの下に隠れていた。透明マントの話を聞かせて娘を安心させる。危険から避けて家族のために奮闘するパパである。

 

いつもイラク人と間違われてイライラするペルシャ人のファハド(ショーン・トーブ)一家。護身のために拳銃を買った。雑貨店のドアの修理に鍵屋を呼んだが、交渉の擦れ違いで誤解が生じ、無駄に終わる。そして数日後、雑貨屋が荒らされた。鍵屋のせいだ!

 

黒人差別主義者のライアンの自宅(ここもポール監督の自宅)。病気で苦しむ父の姿を見て悩み続ける息子の無念と葛藤。かつて父親は一企業の主として黒人を雇い入れていたのだが、法律が変わってしまったために(或いは差別視からくる圧力か)会社を畳んでしまわざるを得ず、そして全てを奪われた。黒人と共に社会を築くことを夢見ていた父親が裏切られ、そんな父に憧れていた息子の心には黒人を優先し過ぎた社会のジレンマから黒人への差別が沸々と湧き出てしまっていた。父親の病気を治すための保険調査事務所に相談するも、ルール優先で頑なに断られるばかりである。その調査員(ロレッタ・ディヴァイン)も黒人女性だった。

 

刑事グラハムの母親はドラッグ中毒になっており、失踪していた息子が帰ってくるのを待っていた。ママっ子の長男は常に母を看取っていたが、弟のことばかりで相手にされなかった。母親からの愛情が直接でさえ感じ取れず、常に寂しさを抱えていたグラハムの一面。

 

白昼、相棒から外れることになった警官ライアンは、パトロール先で衝突事故現場に遭遇する。車が1台ひっくり返ったままで、ドライバーがまだ車中から抜けられないでいた。そのドライバーは、前に自分が辱めを与えた女性だった。

 

黒人青年達はまたぞろカージャックを始め、今度はプロデューサーの黒のリンカーンだった。プロデューサーは夫婦喧嘩でムカついていて、青年達に刃向かった。彼の鬼気は凄まじく恐れた青年の片割れピーター(ラレンツ・テイト)は逃げはぐれ、もう一人のアンソニー(クリス・リュダクリス・ブリッジス)は成り行きで車に同乗。パトカーに追われ、その中には警官ハンセンもいた。ハンセンにはこの車に見覚えがあった。

 

ペルシャ人ファハドは怒りで鍵屋の自宅に駆けつけ、彼を待ち伏せていた。鍵屋ダニエルが帰ってきたのを確認して、ファハドは彼の目の前に立ち、銃口を彼に向けた。家の中でそれを見た娘は、パパから貰った透明マントでパパを守るため、外に出て走り出す。

 

ポール・ハギス監督は十字架にこだわったと言う。正確には全ての登場人物にではなかったが、一部の人物の後方に十字架を見立てたアイテムを背景に置いている。偶然か否か、前述したアメリカン・ニュー・シネマ『バニシング・ポイント』(71)の表現に似つかわしい。然しながらこの広大なる地LAに十字架による空気には包まれてはいなかった。

 

黒人の保険調査員の座るデスクの後方に、十字架のような形状に見える電信柱が映る。パパを守るために家の外に走り出そうとする鍵屋の娘の向こう側にうっすらと高い位置に(しかも一瞬)見える十字架。カージャックしたピーターが夜中道を歩く時の後方にあるイルミネーションの十字架。ラストで追突される例の保険調査員が喧嘩を起こすところに敷かれた信号停止線。いずれも神の啓示に近いものを感じさせる演出をも監督は発見してきた。

 

ミロシュ・フォアマン監督の『アマデウス』(85)では、サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)は作曲家を目指したかったが音楽を理解しなかった父親の存在が疎ましく、神に人生に代えても作曲家になりたいと祈った。その後、父親は喉を詰まらせた。この偶然の出来事に彼はすっかり神の力に陶酔してしまい、その後宮廷作曲家として出世する。ところがあまりの好色、傲慢、幼稚、無礼な作曲家が彼の目の前にやってきた。モーツァルト(トム・ハルス)だ。サリエリはモーツァルトのあまりの才能の高さに嫉妬を覚え、彼を神の子とみなし、神への復讐を誓う。サリエリは神の裏切りを憎み、敵視し、十字架を燃えさかる焚火の中へ入れてしまう。後半、病気で疲弊しきったモーツァルトの前に燭台を重ねるシーンは、これこそ彼を十字架に置き換えている。神は最初からサリエリを運命づけていたのだ。いわゆる映画とは随所に神の啓示を仄めかすことも可能な媒体なのである(それにしても『アマデウス ディレクターズ・カット』(02)は必要なかった)。

 

同じことがこの本作『クラッシュ』に対しても言える。しかしこの映画はそもそもLAを主役と見立てた映画であり、まして人種問題という、より身近な問題提起を前面的に提供しているため、宗教面においてそこまで崇高な映画には仕上がるべきではない気もする。逆にそうなるとかえってバランスが悪くなってしまうし、だから十字架をそこに置くことで神が近くにいることを示すには、今作のようにそれほどしつこくない程度でよかったのだ。

 

ではその理由として、そもそもなぜそこに十字架を置くことにこだわったのだろうか。その理由まではDVD(ディレクターズ・カット版)におけるポール・ハギス監督のコメンタリーでは言及していなかったと思うが、それぞれにおいて違った意味合いをもたらすことがまず考えられる。保険調査員の場合は、警官ライアンに対する救いの手を差し伸べる必要がないと判断する時点において、後ろに立つ神(電信柱の十字架)は見張っていたのか、それとも調査員自身を神と見立てたか。鍵屋のパパをかばうべく外に出る少女の向こうに立つ神(電信柱(?)の十字架)は少女を守るためにあったか、それとも少女にそう働きかけるように暗示でもかけたか(それによってペルシャ人ファハドには人生観が変わるきっかけになる)。黒人青年のピーターがヒッチハイク中に後方にいた神(イルミネーション)は正義を貫き通す、あまりに純朴すぎる警官ハンセンの人生を変えるきっかけを与えた。やっていることがまるでモノリスに近い気がしてくるのである。ラスト、車の追突事故に遭った保険調査員のケースが出てくることによって、前述での意味合いが伴われてくる。不運の均衡性を強調したいのかもわからないが、前述の『アマデウス』のくだりを踏まえれば、幸運不運もへったくれもなくなり、既に最初からバランスよく運命づけられているとしたら人間みな既に平等ということになる。一方で人種差別問題は確かに平等にならない。だがそれは人間の感情が作り出したものであり、神の判断によるものではない。人間が作り出した不運と、(あるいは神が作り出した)偶然が重なる不運とは全くの別物なのではないか。北野武監督の『キッズ・リターン』(96)にも似たような皮肉は感じるし、人間誰しも気づかぬ範囲でお互いに影響を与え続ける。そこに均衡性があり、結果的にも堕ちる人は堕ちる。これに対して我々は自分のことも含めて何も手が出せない(そこへ手を差し伸べてあげたいと意を決する人もどこかに必ず存在しているが遥かなるLAだ)。無意識であればこそ、運命論が強調されるかもだが、万が一にも解釈を間違える人がいると、その人間が意図的に人生を変えようとすればそれこそ傲慢以外の何者でもなくなることもある。ギブ・アンド・テイクとはこういうことなのかとさえ思わなくもなくなってきた。

 

人間としてどう変わるか。その中身は人によって異なるのも当然だが、善から悪へ、悪から善へと単純に割り切れるものではないし、簡単に区切れるものでもない。しかし全ての人間において共通するものがある。人間としての弱さだ。人としてどこか変わっても、中身は脆弱なままであることに変わりはない。守り、傷つけ、誤解、疑い、不安を覚え、それでも自分達が自分達を癒しつつ、守って生きていかなければならない。その理解を得るにはまた人との交流が必要なのであり、しかしそう簡単ではないのがそれこそ人種の坩堝のありのままなのである。ライアン・フィリップは語る。

 

「これほど正確にLAが描かれた作品は、今までになかったんじゃないかな」

 

カージャックに始まる人生体験。この映画ではもちろん多民族集域における民族間とのぶつかり合いを衝突(追突)事故に見立てた。そして、日本にはないこの感情論のぶつかり合いによって常に民族間の均衡性が保たれていかなければならないこと。お互いに疑い、お互いにビビり、お互いに安心を与える。そしてこれが現代のLAであり、これが現代のアメリカ合衆国の赤裸々な姿であることを、ファハドの後方に映る星条旗は代弁してくれている。

 

 

アマデウス

 

1985年日本公開 監督/ミロス・フォアマン

出演/F・マーリー・エイブラハム、トム・ハルス