博士の異常な愛情

 

1964年日本公開 監督/スタンリー・キューブリック

出演/ピーター・セラーズ、ジョージ・C・スコット

 

英語題を訳した正式な邦題は『博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』である。政治はあまり得意ではない。であるにもかかわらず拝見し、これの何が面白いのかって、笑ったという人も沢山いるようだが、筆者には全く笑うことがなく終わってしまい、それはそれで何回も繰り返し観てきている。それなりにまあだいぶ分かってきたが、これの何が笑えるのかまるで理解できない。ちなみに予備知識もなく観ているし、更にリピートする際は全て忘れてからにしている。それでも、だから何が面白いのよ、ということにしかならないわけで、筆者はどうやらブラック・ユーモアに対しては不感症(?)ならしい。洒落にしては自虐的で我ながら少々きついが、要するにブラック・ユーモアにはどうやらニブイんじゃないかというわけで、政治が苦手以前の問題らしい。もちろんこのシニカルゆえのビュー・ポイントは最高だろうと思う。政治を行うのも人間だからであり、人間としての観察が行き届いているのが凄いのが恐らく筆者にはその最高だという理由にできるだろうか。実は政治などどうでもいい映画だと気づく。

 

ある日、英国空軍基地に所属する将軍ジャック・リッパー(スターリング・ヘイデン)が、ペルシャ湾海域から北極海域にわたって配備されているB‐52機34機からなる飛行部隊に命令を下す。その1機の飛行艇内の機関士がその暗号を見て暗号台帳から確認してみると「攻撃R作戦」。滅多にない、ありえなさすぎる指令に艇内の兵員たちはおろか、隊長のコング少佐(スリム・ピケンズ)も目を疑う。対ソ核攻撃開始命令という意味である。

 

命令を下したその基地内で将軍からの報告を受ける将校マンドレイク(ピーター・セラーズ)、将軍のオフィスに駆けつけてはソビエトに向かわせようとしている飛行部隊全隊を引き返させようと説得する。結果、そこは将軍による篭城と化す。

 

命令系統の異常の報告を受けアメリカ合衆国大統領メルキン(ピーター・セラーズ)をはじめとする要人たちが召集された作戦室。タージドソン将軍(ジョージ・C・スコット)も出席、いわゆる「攻撃R作戦」の概要、システム概要、現在の状況の説明や報告を実施。そこにソビエト大使(ピーター・ブル)も交えて情報を交換、ソビエト大統領とメルキン大統領が電話会談を行う。しかし先方のソビエト大統領はお酒で酔っているからもう大変(Hip Flask必携!)。しかも悪いことにはソビエト領域内で攻撃された場合、自動的に爆発するようになっている殺人兵器「皆殺し」装置(Doomsday Device or Machine)が起動するという。これにより放射能による被害を米国は長期間にわたって潜むことになる地下壕が必要になってくるという計算も報告された。

 

まずは何としても飛行部隊を引き返させなければならない。しかしいったんその作戦が軌道に乗ってしまうと、無線傍受が出来なくなるシステムになっており、この作戦実行の解除の為の暗号を全機に送るべきところを、その暗号はこの作戦の指令者であるリッパーしか知らないのだ。しかもそのリッパーが空軍基地で篭城、そこに陸軍が押し寄せて攻撃をしかけ、リッパーの身柄を確保し、暗号を聞き出さなければならない。ところが彼は自殺してしまい、一緒に篭城に付き合わされたマンドレイクはそのヒントを、それまでに交わしていた会話と彼が描いていたいたずら書きから見出す。そうして暗号は解読され、全隊に帰還命令が漏れなく届いたかに思われた。しかしこの時すでに、うち1機のカウボーイ・ハットを被って操縦するコング機は未確認のミサイルをレーダー・キャッチしていた。

 

観た限りではまさにスリル感覚溢れる政治サスペンスだが、キャラクターのそれぞれがあまりに滑稽なもので緊張感が完璧に薄らぐばかりか、ほんのちょっとは筆者も笑えるがそれにしてもなんだか人間が可笑しく見えてくる微妙な面白さだ。これを何回も観る内に筆者も段々分かってくることを内心期待する自分がいつしかそこにいるのだ。

 

原作はピーター・ジョージによる小説「赤い警報(Red Alert)」、1958年に発表された作品である。のちに1962年に発表されるユージーン・バーディックとハーベイ・ホイーラー共著による "Fail‐Safe" も似たような内容であり、これも同じ1964年に映画化されている。シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の『未知への飛行』(82年日本初公開)で、この原作は実は似ているからとピーター・ジョージが訴えたが事無きを得るに留まったらしい。また2000年にこれをアメリカCBS系列で生放送、白黒でドラマ化された。ジョージ・クルーニー、ハーヴェイ・カイテル、ノア・ワイリー、ドン・チードル、リチャード・ドレイファスと豪華な顔ぶれ、監督はスティーブン・フリアーズ。この2冊を原作とする映画群の他にも『渚にて』(59)が挙げられ、スタンリー・クレイマー監督、グレゴリー・ペック主演。原作者はネヴィル・シュート、潜水艦やらがモールス信号をキャッチし、その発信源を辿るもその信号はそよ風で揺れてゴロゴロ転がるコカ・コーラの空瓶が出していた音だった。

 

という、こうして見ていくと核爆弾を抱えてかなりの警戒心も抱えて戦争に備えていながら、何かあると実はから騒ぎに終わってしまったというような空振り感覚がある。人間の判断も間違いは時には許されないとされる一方で機械は絶対に間違えないからと言って自動というのはどうよ、という無茶な発想もあるし、とりわけここでは「皆殺し」装置が解体できない仕組みになっていることから益々自動というのはどうよという話になってくるから堂々巡りにならなくもないプロットだ。

 

若松節朗監督の『ホワイトアウト』同様、テロ主犯格宇津木弘貴(佐藤浩市)も車椅子を使うが、これらの本編のオチは一応偶然にも一致している。いずれの場合もなんだそれとでも言わせんばかりのオチを見せてくれてはいるが、この博士の場合それより前にドイツから帰化したアメリカ人として描かれている。ナチズムならではの性癖が身体に染み付いており、自分自身でも如何ともし難いほどに不服従な運動神経になっている。ここで筆者が気になったことが実はある。

 

本作の前に『現金に体を張れ』(57)をキューブリックは撮っているが、競馬場からの金銭強奪事件の主人公ジョニー(スタンリー・ヘイデン)が金銭強奪グループへ参加させる相手の一人に本命馬をレース中から外させる為の元狙撃手がいるが、その男は足が悪いように見せかけた。その狙撃の現場となる駐車場の管理を務める兵員の黒人青年に共感を持たせるためだったが、予定外に絡んできたのが自分の命取りにつながる。自分が逃亡手段を失わない為の口実として必要なことだったが、これがどうにも偶然にも見えない気がする。そこから何かこだわりが出始めたのかといったような。

 

この勝手に動く義手あるいは腕そのものがナチズムに染まった以上は彼の持つ神経系統はそれでしか機能しなくなり、或いは本能的に「ハイル・ヒットラー」と脳味噌は命令していないのについ右手が上がるように仕込まれたと言えばそれが分かりやすい。だから車椅子から立ち上がることなどもっての外であるのをこれまたナチズムを茶化す。その根拠はキューブリックがユダヤ系の血を受け継いでいるという事実から憶測されるに過ぎないものの、この神経系統のあまりに身勝手な反応は本作ではまずリッパー英国将軍(ジャック・ザ・リッパーからのネーミングも分かり易い)の理由なき乱心、『2001年宇宙の旅』のHALのパニック症状、また『ピノキオ』(59)にすっかり感化されたスティーブン・スピルバーグが監督する『A.I.』(01)の場合に至っては、そのドロイドの神経系統が如何なるものなのか、医学的な探求性は多少弱かろうとも周囲の人間やドロイドなどと触れ合うことによってどのように影響し合うのか、常に矛盾なく筋道を模索しようとしていたのが目に見えてくるようなスタンリー・キューブリック遺稿となる。また乱心と言えば『シャイニング』(80)のジャック・ニコルソンのように、『フルメタル・ジャケット』(87)のヴィンセント・ドノフリオのように激しい形相を露呈する。これらの乱心も何某神経系統が支障を来し、そうして周囲を崩壊させていく行為にスイッチが入る。そのシステムの仕組みは医学的にもどうにも説明し難く、しかしキューブリックはこの神経系統、命令系統、人間など有機的生物とドロイドなど無機的生物、その融合がもたらす作用諸々に深みにはまり、こだわっていったのではないか。キューブリックのフィルモグラフィーを一望するとこのように見えてくるのだった。

 

威厳に見える筈のスター、ジョージ・C・スコットのおかしいほどにスター特有の威厳さを完膚なきまでに崩した演技力の深さに脱帽、しかもどこかヒトラー被り、途中で後ろ向きでコケるが実はたまたまのアクシデントでそのまま使うことにしたキューブリック。手書きかつどこかバランスの欠けたオープニング・クレジットの数々、戦意高揚を煽る名曲「ジョニーが凱旋するとき」を流しておきながら戦意高揚の為にあるはずのシーンに癒しのクラシックを流すなど、ギャップを露呈させることで戦争をおちょくる姿勢もそのまま次作の『2001年宇宙の旅』へと引き継がれていくのである。

 

副題の「または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」、「または」とはつまり、「即ち」であると思う。躊躇することなく、水爆の爆破成功に如何に誠意を注いできたか、或いはその瞬間までのプロセスを問われているのであればそこに明らかな理由はなく、ただキノコ雲を見て、全身がすっ…、と楽になった、ただそれだけだ。考えようによっては意外と、或いは想定外にたいしたことなかったなぁという後味のことでもあるのだが。

 

 

未知への飛行

 

1982年日本公開 監督/シドニー・ルメット

出演/ヘンリー・フォンダ、ウォルター・マッソー