DRIVE ドライブ
2002年日本公開 監督/SABU
出演/堤真一、柴咲コウ、大杉漣
この映画を見ていると、ひとつに輪廻とはこういうことをもいうのだろうかと感じた。然しそれは人の生き死にに関わることを意味するからちょっと違うけれども、言い換えれば生まれ変わったように人生が変わるというほどの転機が巡ってくるとすればそこに辿り着くまでの周回が輪廻という風にも言い換えられるのかなとも考えたのが正確なところか。
薬品会社の営業サラリーマン、朝倉(堤真一)はいつも同じ場所で車で信号待ちをしており、それというのも同じ時間にそこを通りかかる銀行OLのスミレ(柴咲コウ)を見かけたいが為だった。ところがそこでちょっとハプニング、スミレが花屋で花を落としてしまったのを朝倉は目撃、そこを去ろうとするスミレと眼が合ってしまう。そんな気まずい雰囲気の中をぶち壊すようにドア開閉の音が突然強烈に響く。銀行強盗集団が自分の運転する営業車に何故か乗り込んできたのだ。
強盗は3人、西(大杉漣)、児玉(安藤政信)、新井(寺島進)たちはもう1台の、猛スピードで逃げて行く車を追うよう朝倉に怒鳴りかける。ところが朝倉は融通が利かない生真面目な男(自分は巻き込まれても運転免許証まで巻き込まれたくない気持ちならよくわかる)のためか、制限速度を時速40㎞ときっちり守るほどの、ルールに縛られ過ぎているためにどうしても速度制限を破れずにそのまま走る事しかできない。後ろからは追い越されては遅いと罵られ、先に逃げて行った車は益々自車を置いていくばかりだった。乗り合わせた全員レストランで休養し、事情をいちおう飲み込んだ朝倉。銀行強盗をやらかした矢先にもう1人のメンバーのミッキー(筧利夫)に金を詰め込んだ鞄を持ち逃げされてしまったのだ。
朝倉の隣に座る新井は突然説法を話し始める。彼の実家は寺であり、人間はみんな縁でできているということから始まる。更には朝倉の後ろを見て「お前の後ろに誰かいる、そいつ(祖先のこと)、まだ死にきれてねえよ」と言われる始末。そこに(どんな関係なのか全く不明な)男(松尾スズキ)が偶然そこに居合わせ、強奪した大金の分け前をせびる。持ち逃げされたことまで話せず、通報を決めた男がレストランの出入り口に向かおうとするとそこで朝倉はワイングラスをこぼす。
その男は入口前で倒れ、またそこで偶然居合わせた警察にメンバーは引き止められかける。咄嗟にその場から一目散に逃げ出す男たち。関係なくてもいいのに朝倉まで逃げ出した。やがて真っ暗な路地裏にまで逃げ込むと、いつの間にか新井がライブハウスに入って行ってしまう。そういう訳で新井はここでメンバーとお別れになっていく。
改めて車に戻って3人で朝倉の自宅に行くことになった。彼の育ての親となる叔母(根岸季衣)から朝倉の過去を知ることになるが、叔母のあまりの愚痴の多さに嫌気がさした児玉が逆上してあわや日本刀を交えそうな大乱闘に。そもそも朝倉にはいつも頭痛があった。人間には様々な頭痛の要因があるが、彼の場合は緊張型頭痛かと診断されたばかりだった。
結局そこに落ち着くことはなく、また車で移動する3人。そこに今度は原付に乗ってきた若い女性が車中の児玉を見つける。連絡をしばらく取らなかったので心配だった彼女ともみ合いになりながらバッティング・センターへ。朝倉は鬱憤を晴らしたいかのようにバットを振るが、いつの間にか隣のボックスでは児玉も打ち始めていた。児玉の方がよく当たった。そして今度は車の中には2人だけになった。
金を持ち逃げしたミッキーは人があまり通らぬ河川敷に予め別の車を停めてあり、逃走した車をそのまま置いて新たにそこから逃げるつもりだった。しかし車の鍵を迂闊に落としてしまい、しかも足元の相当に深い穴に落ちていってしまった。右腕を伸ばして中まで差し込むが、今度は腕が抜けなくなってしまった。どんなに動いても動かなくなってしまった。そして宵闇に包まれる時間になっても彼の腕は抜け出せない。そこでミッキーは見るはずのないものを見た。
少なくとも北野武監督の『キッズ・リターン』(96)にも共通するものがあり、それというのも人間はお互いに釣り合って生きているという存在のバランス機構をこの映画にも感じたことであった。そして先に挙げた周回(輪廻)という発想はこの映画の場合では自転車に近い形で例えられているという発想も可能なはずだと思った。主人公2人が動き出すことでそれぞれの場所で影響を与え続けて元鞘に戻るという周回はまさにこの『DRIVE』にも言える。ただしあちらはあくまでも与えるということであり、一方でこちらの『DRIVE』では連れ添いの形で話と人間が同時に運ばれていき、それぞれの男たちに収まるべき鞘を朝倉という男に用意させている。誰が彼に用意させたかといえばそれはまた説明がつかないし、それが宗教というものなのかもしれない。筆者の記憶が正しければだが、2004年に封切られた金城武主演の『ターンレフト、ターンライト』でも折り重なる偶然が筆者を驚かせたような記憶があるが、アジア映画でもああした巡り合せが宗教的理想を生むものだとしたら日本人やアジア人全域においての宗教思想がいかほどまでに根付いたものか改めて考えなくてはならないものかと感じざるを得なかった。
人間は理由があって初めて行動を起こすものだが、この朝倉という男には理由がない。ということは行動を起こさせるだけの背景が彼にはなく寧ろ塞ぎこんでいる。つまりスピードオーバーは行動そのものであって、朝倉はその日常生活の中にある規則の範疇内にのみ動いていける人生を送る道を歩んでいる。これは即ち抑制であって、同時に禁欲にもなりえ、下手をすればスミレに対する思慕という蒸気自体も車中からの噴出が不可能になったようなものだ。しかし人間そのものが塞ぎ込む性格になってしまっているために人間として走るという感覚がこの映画では(全くではないが)どうにも露わにすることができない。従って朝倉の運転するクルマはその代弁者なのかもしれない。更に言えば車というものは人間よりも早く走れるということも大きく左右している。新井は言う。「強烈に生きろ! 安らぎは常にそこにある!」ということはそういう局面から抜け出そうとすることに重なると思う。そして強烈に生きることはかつてバリー・ニューマンが演じていたその姿を想起させ、安らぎは確かに観る側たるこちらにも体感しえるものがある。それまでは全く無難である。
それに反して(あくまで筆者の記憶だが)安らぎが結果的に認められようとしていたのが後の『疾走』(05)とも言える。人間は常に癒される何かに収まりたいというような願望でも持っているのか、その発想は恐らく母胎の中に収まりたいというのに近い。それがないとなると人間、或いは男はどこに行くのかわからない、ということになるのだろう。そうして収まるところがない男にはミッキーのように散るだけに終わるケースもあったりする、という感じだ。
人間には収まるべき場所がある。そこに行き着くまでに遮るものは全て排除され、それは全て、例えばこの映画では祖先が末裔を見張るということだろうか。現実にいる人間が遮るものでなく、そこにいないものが導くか否か。否、遮るというより遮っても元鞘に戻ってそのまま進む。偶然はともすれば何かに導かれているように錯覚を起こす。その行動ひとつひとつの実質的な理由は傍目にもすぐに認識されようが、人生の大いなる転機を迎える時になって初めて、また別に大きな理由が見えてくる。但し吉か凶かは誰にもわからない。