アイ・アム・サム

 

2002年日本公開 監督/ジェシー・ネルソン

出演/ショーン・ペン、ミシェル・ファイファー

 

ベッドタイム・ストーリー。アダム・サンドラーも映画化した(※09)いわゆる就寝前の子供に読み聞かせる絵本またはお伽話。アメリカでも誰でもが読み聞かされる絵本の類は山ほどにもあり、この映画ではその一冊 "Green Eggs and Ham"という本だ。主人公の名前が「サム・アイ・アム(Sam-I-am)」といい、文章は "I am Sam." で始まる。この絵本作家の名前が "Dr.Seuss" というペンネームで親しまれてきたセオドア・ズース・ガイゼル(Theodor Seuss Geisel)という人で既に亡き人だが、60以上もの絵本を生み出してきた。代表作として最も有名とされるのが "The Cat in the Hat" や "One Fish Two Fish Red Fish Blue Fish" や "How the Grinch Stole Christmas! " などが挙げられる。さてこのうち何本かは映画をより多く観る人ならば聞いたことのあるタイトルもあったことだろう。読んで字の如くマイク・マイヤーズ主演の『ハットしてキャット』(03)、ロン・ハワード監督、ジム・キャリー主演の『グリンチ』(00)の2本が既に実写映画化されていた。2008年7月にはCGアニメの『ホートン ふしぎな世界のダレダーレ』。原作題名は "Horton Hears A Who! " である。他で映画化がされていなくとも少なくとも米国内ではテレビアニメ等でも多くの家族に長い間親しまれてきている。独特のイラスト・デザイン、韻を踏んだ言葉遊びが特徴だ。"box, fox, house, mouse, ham, Sam" などといった単語が次々と並べられており、これを子供たちは諳んじて嗜む。

 

無論ベッドタイム・ストーリーは何もズースだけではないし、ティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演の『スリーピー・ホロウ』(00)も童話が原作である。これも幼少時に読み聞かされたことのないアメリカ人は少ないという。同じくバートンが原案・製作を兼ねて務めた『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス(The Nightmare before Christmas)』(93)も、童話 " The Night Before Christmas " のパロディとして題名づけられた。この根本的な原作の題名が "A Visit from St.Nicholas" で総称されているようである。

 

ズースは「現代のマザー・グース」とも呼ばれていたようで、本来の「マザー・グース(Mother Goose)」ももちろん有名な著書だが言葉遊びを重きに置いた歌が何百と収められている。これらのいずれかを引用して映画化されたものも漫画化されたものも、その数はまことに知れない。例えば『ダイ・ハード 3』(95)があり、テロ主犯格サイモン(ジェレミー・アイアンズ)が「サイモン曰く(Simon says)」の言葉遊びゲームを持ち出しながら刑事ジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)と店主人ゼウス(サミュエル・L・ジャクソン)の二人をニューヨークの街中で好き放題振り回していく。複数人数で親が「サイモンが言うには」を頭につけて何かしなさいと言う。みんなその通りにする。やらなかった人はアウト。逆に頭につけないで言う。やった人がアウト。赤旗白旗と似ているようでちょっと違う。言葉を聞き取った上で判断力、敏捷性、反応力を養うにも役立つという言葉遊びゲーム。役名がゼウス(Zeus)になっていて発音もズースと似通っているのがまた興味深い(一般的には国内ではスースが正しい読みとなっているようだが、こちらではズースにしておいてみる)。ついでにチャールズ・ディケンズ著「クリスマス・キャロル」のなかで遊んでいた「イエス・オア・ノー」というクイズもある。出題者がある答えの特徴をヒントにして次々と話していき、これをみんなに当ててもらうのだが、その時に「それは何々ですか」と答えを聞きだし、出題者はイエスかノーを答えるというものである。筆者が幼少の時も児童の間ではこれが流行っていたものだった。是枝裕和監督『怪物』(23)でも。

 

話し手にとっての実話もある。『スパイ・キッズ』(01)の両親(アントニオ・バンデラスとカーラ・グギノ)の仕事は秘密だから、実際の話を物語に置き換えて嘘くさいぞといちゃもんをつけてくる子供達に聞かせる。作り話もある。脚本家・三谷幸喜は2歳頃の時から既に就寝前には母親から作り話を聞かされ、そのうちネタが切れると三谷は聞くのみならず、自分を登場人物にしてみたり、更にまたネタが尽きれば母親と二人で物語を構築させたりしていったという。この時既に脚本家・三谷幸喜という才能の礎は完成されていたのである。

 

この映画の主人公、サム・ドーソン(ショーン・ペン)は名前が同じだからか、この絵本が大好きである。就寝前の7歳の娘、ルーシー・ダイアモンド(ダコタ・ファニング)にいつも読み聞かせるが、いまこれ以上読むと明日寝坊すると言って父親であるサムを諭す。7歳程度の知能で留まっている知的障害を患う父親サムを慮り、自身が7歳を迎えるのを境に勉強に力を入れなくなる。これに気づいた学校教師も心配し、ルーシーは施設に預け入れられることになる。面会も数が限られる。ホームレスの母親は娘を生んですぐに雲隠れしてしまった。ルーシーはサムの手一つで育てられてきたのだ。

 

スタバで働いて色違いのペットシュガーの並べ方を丹念にチェックし、常連客に声をかけて選んだメニューに "Good Choice" と褒める。そうして多からぬ収入を確保している現状。大のビートルズ・ファンでもあり、ルーシーは彼らの曲名からとったほどだ。彼の部屋にはジョン・レノンのポスターも貼ってある。ところで事実上2番目の妻にあたるオノ・ヨーコとの間の息子ショーンの子育ての為に、ジョンは活動を休止したこともある。幼少時のジョン・レノンは姉夫婦に預けられていた為、結果的には最初の妻との間に出来た息子ジュリアンをどう育てたらよいのか分からなかったという。そんなジョンの改まって子育てを重視した姿勢は、このサムとやや重なるだろうか。そうやって手塩にかけて育ててきた優しい心の持ち主、娘ルーシーをサムは手離すわけにはいかない。さあ困った。

 

そこでサムは女性弁護士リタ(ミシェル・ファイファー)に相談を持ちかける。弁護料も充分に用意できない知的障害を持つ男性の頼みを、リタは見栄のためにイヤイヤ引き受ける。同じハンディを背負う仲間達の支えのもと、二人は養育権を懸けて裁判に臨む。その合い間にスタバで働くサムに昇進という朗報が来る。しかし実際いざそのポストについてみると、仕事量が以前より多くなってしまうので客が満足に捌けずパニックになる。仕事に忙殺され克服できずに焦燥感も募り、こちらもまたパニックになるリタ。そうした2人がパニックのままにぶつかり合い、お互いが初めて何かを悟る。ここから二人は少しだけ変わる。

 

筆者は、「俳優は舞台や映画やテレビドラマに出るからには演技は褒められるまでもない程に出来て当たり前だ」と思っている。ということは下手なうちは出てくるな、出ても下手だと思ったら(思われたら)次の出番でやり直し。完成された画を見ては(モニターチェック!)常に自己研究に繋げてもらい、常にその繰り返しだと思う。沢山の自分を見て(観て)もらうのだ。映画は常に完成されていなければならず、一人が下手だと全部が落ちる。それが一人もいなければ映画として満足される。責任ある側として映画を完成させるためには、褒められるまでもない俳優を起用するのである。だから筆者は褒めるまでもなく、作品として評価するのが常である。しかしこれは時として悩みでもある。滅多に褒めない男だと逆に貶されるからである。それでもここまでが筆者の頑固な個性であり、映画批評を書いていつもあとあと困っている映画評論家たる所以である。戦々恐々とはまさにこのことだ。

 

それでもショーン・ペンの演技は本物であるとできるならそう賞賛してみたい(ダコタ・ファニングの幼いながらも完成された演技力も相当の話題になった)。何よりもまず存在感が全然違うのである。それこそ役に成りきっているということであり、あのどうしようもない結末になったのが恐ろしくも亀裂の溝の深淵を残酷にも露呈した『ミスティック・リバー』(04)や『21g』(04)でも渾身の演技を見せてくれたものと少なくとも筆者はそう記憶した。では何が違うのか。正直そこからが難しい。

 

鼻っ柱も強く、蛇のように或いはそれ以上に見据えられたら逃げようがないほど冷たい瞳、そのうえその瞳の碧さは明るすぎる。それらのパーツから成り立つ表情からにじみ出てくる重圧感はまるで横から岩が当たっても上方から水をぶっかけられてもテコでも動かぬようにも見える。従って冷徹で無表情であればあるほどに、ショーン・ペンそのものの人物像にそのまま役として反映されてしまいそうな程だ。換言するに(彼の私生活に多少なりとも興味を示さない限り)そのままの人物として在る(『バッド・ボーイズ』(83)! ※ショーン・ペン主演)のではとも考えてしまう。これは即ち、多くの部分或いはパーツで外見上の役得というものなのだが、多くの俳優の場合においてそれこそ自分を理解する過程で大変重要なプロセスではあるだろうとは思う。残るは柔軟性だったと思う。

 

少なくとも彼の風貌は若さに溢れている。そのぶん感情の振れ幅が大きくなりやすいようにも見える。それ時折のジェスチャーに伴われる感情表現が彼には出来ている。否、出来ているというよりも似合っているのだ。これがいちばんの役得の効能なのだと思う。この役得を利用しない手はないわけだ。アメリカ人として、典型的かつ若者としての主張性を思い切り前面に押し出すことが出来るとしたら、彼ぐらいしかいない。彼の表情ほど主張性に満ちた俳優はいない。この撮影当時、彼は既に2児のパパであるし、後に生まれた長男はこの映画の娘と同じ位の年齢にあてはまる。この時のショーン・ペンは如何なる思いで父親役をこなしたことだろうか。

しかし残念ながらこの映画は何故か風評もちょいとよろしくない。彼の素晴らしい演技が勿体ない。それというのも物語があまりにも説明不足で7歳の知能指数ってなんだ? と思ってしまうのだ。彼がスタバで働いている。それで生計を立てている。しかも子供を伴った生活をしている。それは彼が自立している分には素晴らしいことである。国や州からの保障があって生計が多少助かっても同じこと。それを元にあと幾ら稼げば当月を過ごせるのか、予測的な家計の計算すらも出来ることになるのだ。「はじめてのおつかい」に出て行く子供と同じぐらいの知能指数なのに? だけどアルバイトをして生計を立てて7歳になるまで子育てするなんて凄すぎる。

もっとも筆者は知的障害というものを100%理解出来ているはずがない。ましてや医学的かつ専門的な意味での、彼の知能指数が7歳と同等であるという判断基準というものを一般観客が持っているなんて考え難い。でも百歩譲る。

 

もうひとつ疑問に思ったことがあり、カメラの撮り方である。と言っても一箇所だけなのだが、裁判のシーンで対抗相手となる弁護士ターナー(リチャード・シフ)などを焦点に据えた形でカメラがグラグラと揺れている。筆者が観たDVD内のコメンタリーで監督が言うにはこれはサムの視点であり、戸惑いを示してみたとのこと。単純に戸惑いを示しただけのものであるならば、まあ別に良いに越したことはない。視覚的な意味でも観客側はそもそも知的障害者の気持ちが充分に把握できているわけではないので感情移入がなお一層難しいはず。診断基準の説明がない上に、その障害者の脳内を覗くことがまず不可能だから理解するのは至難。千差万別にある(個人差があるともいえる)自分の「できる」基準も鑑賞中において観客には設定づけようがない。従って、この手持ちアングルの方法は筆者なら一切使わないだろうとさえ出来るならば言いたい。

 

更にまた言い換えれば知的障害には診断基準がないのかもしれない。それぞれにそれぞれの症状が表れている。それに則し、それぞれの処方箋を用意する。そのなかには、必ずしも自立できないわけではない場合もありえてくるわけだ。従って、知能指数と知的障害とがいかにして結びつけられるのか。そういった地点からの説明がなかったし、そしてこれを呈示すればこそサム・ドーソンのキャラクター説明がより一層明白な形で成り立ったのではないかとも考えられた。

 

いや、これが知的障害者の視界なのか。

 

…そもそもこの本編にはその説明がなかった。従って、単にお涙頂戴で恐ろしくマーチャンダイジングな映画だ。多くの日本国内の映画評論家たちがそう口を揃えざるを得ない状況も実際に散見された。それでもこれは知的障害を患った父親と彼を思いやるがために社会への反抗を辞さない幼い娘との絆を確かなものにしていく物語であることに違いはなく、発想の根源からして若干突飛ながらそれでも大変素敵なプロットだ。そこを中心に据えて然るべき物語であるからこそ、それとも敢えて説明的要素は省いたのかもしれない。同時に人物面では娘を主軸に置いた作品とも言える。それ以前に観客の多くはそこまで考える余裕を作るまでの間に既に映画に没頭している。元来、映画はそうでなくてはいけない。

 

社会についていけぬ障害者を手助けする、そしてバリアフリー化を推し進める。後は自分で出来る部分を自分でこなさせていくことで自身に勇気づけてもらう。全ては思いやりから生まれる発想であり、それは社会的通念として既に満遍なく浸透している。トム・クルーズの弟が兄のダスティン・ホフマンとの絆を深める。これでもおれたちゃ兄弟だぜ。デ・ニーロの患者を治療しては彼を失う医師のロビン・ウィリアムズ。また寂しい思いをさせてしまったが、それまでは楽しかっただろう?といって納得する。この二人三脚の構図はこの父娘に同じであり、障害者と健常者との触れ合いを映像にしたうえで映画の中の健常者たちがいかにして振り回され、いかにして愛を与え、いかにして障害者との友情や絆を育むか、手持ちカメラを使うのは自由だが、あくまで客観的姿勢で貫き通すべきではないか。そうしてそこから健常者として何をどう考えるべきかを常に考えさせる機会を与えるのがこの類の映画の役割であってほしいと思う。同時に筆者も(既に軽度難聴だが)含めて健常者はいつ障害者になるかも予測できないものだ。そうなる前にこの類の話題を親子の間で話し合う機会をも設けさせる効能も有するだろう。親子のどちらかがお互いこの先どうなるのかわからないのだから、親が子に思いやりを教えなければならない。この類の映画のメッセージの機能性は常にそうあるべきではないだろうか。

 

しかしながらこの映画ではたった一つのカメラの撮り方(すら知らぬ筆者だが)、それ次第で疑問を感じざるを得なくなる。この監督は知れるはずもない知的障害の脳内を全て知り尽くしていると誤解を招きかねない撮り方をしてしまった。

 

ジョージ・ミラーやマイケル・クライトン、はたまた手塚治虫あたりだと多少なりとも理解はあるかもしれないが(かたやジェシー・ネルソン監督は医学面での経験はないようだが)、たとえ健常者でも脳内はお互い覗けるものではない。これがなければ(知能指数の説明がなくても)筆者も騙され気分で(?)この映画を心から嗜好したことだろうと思う。

 

何かで読んだが、全編ビートルズで流したいとしていたショーン・ペンだったが、全ての曲に許可が一切許可が下りず、仕方なく全曲ともコピーで制作したとか。

 

(159) I am Sam - Lucy in the sky with diamonds - THE BLACK CROWES - YouTube

 

 

ホートン ふしぎな世界のダレダーレ

 

2008年日本公開

監督/ジミー・ヘイワード、スティーヴ・マーティノ

声の出演/ジム・キャリー、スティーブ・カレル