ピンチクリフ・グランプリ

 

1978年日本公開 監督/アイボ・カプリノ

出演/セオドルおじさん、あひるのサニー、ハリネズミのランバート

 

そもそもF1のformulaというのは基本とか基準という、そういった類の意味であり、従ってある一定の基準を満たした車体で参戦する資格を有することが決定づけられる規則のもとでレースは開催されている。ル・マンもインディもデイトナもそうだが、こちらのようないわゆるファンタジーものではそういった規則上のこだわりは特別持たず、むしろクラシックに対する思い入れは強い作品も数多存在する。

 

またかつて私たちもテレビで見かけた「チキチキマシーン猛レース」(日本では1970年に初放送か)などに出てくるレースカーの数々もよく見れば、一体どこにルールがあるのか、スピードを出す為の装備に対する基準どころか、走行の邪魔をする装備基準が無制限と設定されている、要は何でもありの車ばかりが一斉に用意されている。或いは特別基準にうるさくはない感じだが、ある一定の常識の基準でクルマをチューンナップしてくるメカニックもレースもあることだろう。ここに列挙される作品は片やファンタジーではあるが、片やSF(とでもいうか)である。しかもこのコラムひとつにこの組み合わせを決める筆者の趣味の悪さといったらない。

 

まず前者は1978年に国内でも初めて公開されたノルウェーの映画であり、2007年にもリバイバル上映されて話題になった。しかも実写ではなくコマ撮りの人形映画である。イギリスからのクレイ(粘土)・アートによる人形劇映画『ウォレスとグルミット』(96~)が人気沸騰となった時期があったが、その先駆者としてこれほど精緻に満ちた人形映画かつレース映画もなかなかない。もちろんコアなファンの中には『こまねこ』シリーズを好む人もいるだろうが、この1975年に製作された作品とあってはこれを好まざるわけにはいかないことだろう。余談だが、『ウォレスとグルミット/ペンギンに気をつけろ!』は特に驚きだったことは筆者も斬新な記憶として脳裏に焼き付いている。

 

さて粗筋だが、要するにピンチクリフ村があって、その一角にはやたらに背の高い崖が聳え立っている。それはあたかも相当に背伸びした二見浦の夫婦岩みたいな感じ(?)だが、その頂上には自転車修理工のセオドルおじさんが工房で働いている。しかし彼は修理工だけではなく、なんと発明家としても数々の発明を生み出している。そんな彼にはかつてルドルフという弟子がいたが、いつの間にか霧のように消え去っていったことがあった。そして今セオドルおじさんのもとにはお洒落で負けず嫌いの黒いアヒルのサニー、臆病で花粉症なのになぜか花の匂いが大好きなハリネズミのランバートがおり、毎日の日課のように彼の仕事を手伝っていた。ある朝サニーが新聞を広げると、カッコいいクルマのトップ記事が大きく出ている。ところがその車体をよく見ると、設計はまるきりセオドルおじさんの描いたものと瓜二つ。なんとルドルフがセオドルおじさんの描いた設計図を持ち去っていたのだ。

 

悪事を働いたルドルフの鼻をあかしてやりたいのだが、先のレースでクルマにクルマで勝つには物置に置きっ放しだった作りかけのクルマを新たに開発する予算がなかった。そしてある日、サニーが双眼鏡を覗いていると、崖下のある男を見つけた。サニーはアラビアの石油王ボナンザ会長を工房に引き連れ、このクルマ開発のスポンサーにすることを思いついたのだ。さあ、いざ崖下へ。そして彼をスポンサーにして、お金を工面しておじさんのクルマを完成させなきゃ!

 

再び作り始めたスーパー・カー、イル・テンポ・ギガンテ号の総重量は2.8トン、12気筒ロケットエンジン、燃料は純粋アルコール、四輪駆動、スチール七枚重高性能タイヤ、スピードメーターは一個あれば普通なのに二個ついている、緊急輸血用の血液ストックも車体に装備されているという至れり尽くせり、北欧故かかなり生真面目な印象の仕様車がかくして完成されたのである。

 

原作は存在しないと思って良いらしい。いや、というのはこのキャラクター達のイメージは全てクジェル・オークラストによる風刺漫画からきているとされる。クジェルが徴兵された際に兵士向けの新聞にイラストを描かないかと誘われ、描いた風刺漫画が「ピンチクリフ・タイムズ」というタイトルといい、これらのキャラクターらの他にもクジェル以外の手による様々なキャラクターたちも寄せ集め続けられて出来たのがこの映画だというのである。また元々はテレビスペシャル版として話作りが進められていたがなかなか形にならないので、映画版になったという説も有名なようだ。ちなみにレース・シーンも中には実際にはラジコン・カーを走行させているのもあるというし、それをカメラが追いかけているというから見せ所としても面白い。このレース・シーンはなかなかである。

 

ざっくりと調べた限りだが、コマ撮りの元祖はウィリス・H・オブライエン、彼はサイレントの『ロスト・ワールド』(1925)や、『風と共に去りぬ』(52)のデヴィッド・O・セルズニックがプロデュースした『キング・コング』(33)などで特撮を担当し、『猿人ジョー・ヤング』(52)でレイ・ハリー・ハウゼンと組んでいる。ロン・アンダーウッド監督の『マイティ・ジョー』(99)はそのリメイクである。その1953年以降、ハリーハウゼンは『原子怪獣現わる』(54)、『水爆と深海の怪物』(58)など、そしてシンドバッドのシリーズでダイナメーション撮影という技法と共に益々名前を有名にしていく。ただしそれらは実写との合成が基本であり、即ちパペットだけの撮影はこれが世界初という。製作期間も5年ということから1970年頃から製作に着手したということになるのでこれは観ておくに越したことはない、貴重な先駆的パペット・ムービーとなることだろうか。

 

一方でここに取り上げるもう一本、ロジャー・コーマンといえばあまりにも多くの映画人たちからのリスペクトを得ているB級映画の生みの親と言われ、あくまで低予算に徹した映画作りを目指し続けてきたことで有名である。女性がベトナム戦争に行くみたいな『ビッグ・バッド・ママ』(76)、ロン・ハワードやジョー・ダンテもかかわるところの普通に危なげな『ピラニア』(78)や『卒業』(68)のその後的『バニシング IN TURBO』(80)、なんという説明なんだ的『モンスター・パニック』(80)、あまりにも凄すぎた『宇宙の7人』(81)など無茶な名作が多数あるが、日本未公開作品を含めると彼の関わった作品数は恐らく150本を下らず、とにかく半端ない。ちなみにビデオ題は『デスレース2000』と改題されているとのこと。もちろんご存知のように2008年にリメイクされ、ジェイソン・ステイサム、そしてデビッド・キャラダインの声も特別出演だ(リメイク邦題『デス・レース』)。生憎顔は出していないが、リメイクならではの物語の踏襲性はさりげなくキャラダインを声の出演に導いている。キャラダインの素顔の強面を見たければクエンティン・タランティーノ監督のシリーズ『キル・ビル』(03~)で充分に拝むことが出来る。それにしても低予算映画の名人がこのリメイクでも名を連ねているが、リメイクはそれはそれでビッグ・バジェットな印象のビッグ・スケールだ。なんと刑務所内がレース・サーキットになるのだ。『デス・レース 2000年』!

 

西暦はやはり2000年、アメリカ合衆国ならぬアメリカ連邦でのライブ中継放送番組、多くの視聴者の注目が集まり、足を運んでくる多くの観客が犇くその会場では政府主催のオートレースが今にも開催されようとしている。その名も、デス・レースだ! 歯並びが良すぎる司会者の雄叫びでレーサー一人一人が紹介されていく。ライオン号に乗るのはネロ・ザ・ヒーローとその隣の女性ナビゲーターはクレオパトラ。誘導爆弾号に乗るのはナチスびたりのマチルダとそのナビゲーター、ハーマン。雄牛号に乗るのは実在していた女性ガンマンの名前を模したカラミティ・ジェーンとそのナビゲーター、ピート。ピースメーカー号に乗るのは悪名高いマシンガン・ジョー(シルベスター・スタローン)とそのナビゲーターはマイラ。そして構内からストレッチャーで運ばれてきたが、すぐに意識も回復して会場に合流するのはザ・モンスター号、ナビゲーターはアニー、そしてそこにやってきたのは伝説の不死身の男、フランケンシュタイン(デビッド・キャラダイン)が再び帰ってきた。全部で5台のレースカーが今回参加するが、その各車の装備は実に見るもおぞましいほど攻撃的なものばかりだ。フードやバンパーには剥いた牙、或いは相手を串刺しにするほどの長い角、そして綺麗にスライスされてしまいそうなほど鋭角な巨大ナイフ。なぜこんな危険なものばかりが装備されているのだ。

 

ルールがそうさせているからだ。レースの最中に通行人などを撥ねる事でポイントが加算されていき、それで得点を競い合うことにもなっているのだ。またその年齢層や性別によって得点数が異なり、要人とあっては更に高得点になるのだ。これが全米大陸横断レースの全容であり、独裁政治を展開しているアメリカ連邦大統領を始めとする特権階級の娯楽と化していた。また観客にも根強いファンは大多数、わけてもフランケンのファンは全ての観客席を埋め尽くすほどの膨大な人数である。それというのも彼は毎回大事故で四肢のどれかを失っては取り戻して復帰してくるために、彼の存在は伝説と化していたのだ。

 

しかしなぜかレースのコース途上には様々な障害が待受けている。そのうち意図的にレースのスピードを殺さんばかりにコースの中央に数々のトラップを仕掛けたりしていく人間たちがいる。レジスタンスだ。そこに罠を仕掛けてレーサーたちが引っかかるのを待っているのだ。これも政府が制定した行事に弊害をもたらすことが目的だったのだ。

 

これを当時ご覧じた先達たちがどう考えたものか、ただ単にレース映画として楽しんだならばそれでも良いのだが、少なくともアメリカン・ニュー・シネマのテーマがここにも内包している感が否めない。それにしては大統領政府に対して冗談が過ぎる印象の設定として記憶に残るから結局どう解釈して良いものか。ただしこの映画はむしろハッピーエンド(?)に終わるので少しぐらいはそこから遠のいた位置付けになる。むしろそこを基本に据えながら後はもうとにかくレースの荒唐無稽なルールで独裁政治の悪趣味を表現したといったところか。基本はサバイバル・レースだが観客や通行人もサバイバルだなんて何がやりたいレースなんだか、という点でこの映画はかなりカルトだ。

 

面白いのはラスト、やはり主人公が大統領の席を交代するが、それまでの間に眼前の障害を突き破るために必要としていた暴力を全て排除するという政策としての決断の潔さに英雄視は集中されていく。全ての抵抗運動は鎮まり、政治は明るい方向へ変貌を遂げていく。

 

ルールはムチャクチャだがエンドクレジットに流れるモノローグは『2001年宇宙の旅』(68)のメッセージに見事に一致し、戦争による暴力に対する反論を提示している。何も考えなければこの映画は暴力そのものだが、独裁政府がスポンサードしている行事として開催されているところに反戦的ないし反政府的メッセージがこの約85分の全編に隈なく行き渡っており、表面張力一杯に溢れ返っていることに気づかなければならない。この満タン状態のメッセージはよほどプロットが残酷でなければ成し得ない。

 

 

デス・レース 2000年

 

1977年日本公開 監督/ポール・バーテル

出演/デビッド・キャラダイン、シルベスター・スタローン