ガチ★ボーイ

 

2008年日本公開 監督/小泉徳宏

出演/佐藤隆太、サエコ、泉谷しげる

 

人間は忘れる生きものである、とは巷でよく言われる表現である。忘れても仕方がない場合もあるし、それでも忘れては困るようなことまで起きているから世の中は実に複雑にできている。この世を生きる人間は実にナーバスに益々なるような気もそぞろである。

 

北海道のある大学サークル、プロレス研究会に新入部員が現れる。五十嵐良一(佐藤隆太)という三回生だが技ひとつ教えるごとに必ずメモを取る。いつもポラロイドカメラで皆を撮影するし必ず自分も被写体に入れる。運動能力はまあふつうで長身かつ細身だが自他共に認める負けず嫌い。大学の間でも司法試験に受かったほどの天才ということで有名になっていた。

 

プロレス研究会では安い予算の中しょっちゅう技の研究はもちろんするが、定期的にエキシビジョン・マッチなるものをも開催している。学園祭などで体育館や大学敷地内にリングを設営、部員それぞれがレスラーになってカードを組み、プロレス試合を行う。ただし安全を第一に考慮しているので殆どガチンコではやらない。お互いの全ての技が振りであり、場を盛り上げてお客を喜ばすのが研究会のモットーであった。

 

ある商店街でのリング・マッチが実施される。商店街の交差道路のど真ん中にリングを設け、そこでマッチが組まれる。デビルドクロ選手が寿司屋からリングへ登場。鎖は黄色いオモチャだ。片や八百屋の店先でメロンを手に抱えて登場するのは五十嵐改めマリリン仮面。二人はリング上でがっぷり四つに組む。早速練習の成果を見せようとした五十嵐にその時、彼は突如としてリングの上で立ち尽くしたままになる。

気がつけば五十嵐はその振りの試合をガチで取り組んでしまって気絶、相手も流血してしまっていた。それなのに会場は大盛り上がりで歓声に湧き、学生プロレス連合代表の目も五十嵐に止まり、注目の的となる。しかしそれでも部員たちは呆れていた。なぜ五十嵐が試合中にマジになったのか。そこに五十嵐の妹、茜(仲里衣紗)がやってきた。兄が心配でやってきたのだった。そこにいたマネージャーの麻子(サエコ)やさっきまで相手していたヌマは妹から真相を初めて聞かされ、五十嵐に皆に黙っておいて欲しいとせがまれたのだった。

 

ちょうど一年ほど前の学園祭、このプロレス研究会の試合も五十嵐を観に来ていた。辞めなければ別れると彼女に言われたOBの佐田(川岡大次郎)のドロップキックが忘れられなかった。そんな鮮明な記憶を最後に、同じ頃に彼は自転車で転倒して脳内に損傷をきたしてしまった。それから先の記憶、否、もう新しいことが覚えられなくなってしまったのだ。

 

冒頭に登場する五十嵐は手にメモ帳を持ち歩いている。五十嵐が大学構内に到着するまでの間におよそのことを把握していなければ、新しい一日を過ごせない。そのこととは、自分の記憶のなくした日から昨日までの記憶の全て。

 

彼の一日はそれからの全てを綴った日記を読むことから始まる。彼は自分の脳に記憶障害をきたしていることに毎日ショックを受けなければならない。そして毎日それまでの自分を把握しなければならない。一日経てば新しい一日が増えて把握することも一日分更に増えて大変だ。五十嵐は毎朝その繰り返しを行い、そしてプロレスを通して新たな記憶の植え付け方が次第に見出されていく。毎日覚える量は増えて、毎日ガーンと言って実に効率の悪い人生ではないか。

 

プロレス技の体得にはやはり経験が必要で、数多くの試合を連合で組まれることになるマリリン仮面。自分たちの研究会の知名度を上げるためにとにかく彼を沢山の試合に出場させていくことが必要だった部長の奥寺(向井理)らにとって、連合のメンバー達には頭が上がらない。ところが連合側はマリリン仮面にこれをガチと思わせるように奥寺たちに命じていた。結果的にはマリリン仮面の成長が期待されないことになる。成長も時間も人生も全て止まってしまう。この状況は記憶を収められなくなってからの五十嵐自身に重なって見えてしまうのがなんとも残酷な印象をもたらす。

 

しかし世の中にはなかなか理解されない、或いは言葉では説明できない物事が五万とある。それらはこの主人公の五十嵐の体が覚えており、足固め、チョップ、そしてドロップキックと何回も何回も繰り返し練習を重ねてきた技が繰り出される。同時に技を覚えていてくれたことが仲間には何より嬉しいことだった。かようにして体で覚えているフィーリングというのは言葉では説明できないばかりか、メモにだって残すのも難しい手法たりえた。

 

そのメモ手帳や日記ノートを五十嵐は、病を患ってからずっと毎日のように書いている。即でビジュアルで確認できるポラロイドカメラも使って、自分の言葉と手で自分が触れてきた物事、感じてきたこと全て形にする。記憶がいつか突然失われてしまう時が必ず来るのを知っている人間とは違い、自分の記憶したはずの物事を必ず残さなければならない。そうしないと自分自身が明日に追いつかなくなってしまうのだ。彼が書く日記には自分の素直な気持ちをぶつけ(泉谷しげる演じる父親・恒雄はその日記の内容を秘かに読むことになる)、彼が書くメモ手帳には自分との関わりを持つ全てのことがつぶさに書かれていなければならず、一枚でもメモ用紙が欠けようものならばお先真っ暗になってしまうのも誠に気の毒な話だ。

 

人間が忘れるという行為は人によって様々である。様々というのは、全体的な部分とか部分的なものとか、すぐに忘れるとかすぐには忘れないとか、のいわゆる程度の問題であって、メモをする必要がないと判断できてもそれを忘れてしまうこともあるし、メモを取っていても案外覚えているから結果的に必要なかったりする。放っておけばそんな記憶は所詮たいした所有物でなくなることも多い。しかし周りの人に知っておいてほしいことがあって文字にする行為も例えば自叙伝になる。例えば理論書になる。何かを発見した時、それを伝える為に文字にして理論書が完成され、やがてはその発明者のことが知りたくなるので自他問わずにその人物伝の作成が必要になってくる。その資料にメモや手帳は必携となり、それらの資料の数々が理論達成へ導く証拠を残していることになり、なにより確実なものになる。その内容は当事者が人生を懸けて書き記していった数多の方程式が織り成すライフワークと言い換えても過言ではない。

 

そのライフワークを全て書き記したという意味ではこの五十嵐の場合にもあてはまる。所詮はこの主人公の苦労をうまく脚色上美辞麗句的に言い換えたものに過ぎないが、主人公のテーブルに置いてある厚ぼったい大学ノートをやたらにくっつけ合わせたもの、そして手持ちのメモ手帳、ポラ写真とで全てをまとめる作業が日課としてあり、これは明日に後回しにしようとは絶対に考えられない作業量でもある。そんな制約があるなかで作業をこなしていくうち、彼のプロレスの練習で見つけていったものが彼の体に残っているアザの数々が止まっていた時間の中の自身の生を呼び起こすことに覚醒する。この過程で既にそんな自分を知ってもらう手段はこの主人公の部屋にドカンと、いつでも見れるように置いてあるようなものなのだ。これを父親の恒雄は見ることになる。

 

この手段は自分の主張が存分に書き込まれている。これを綴らないことには自分の人生が成り立たない。自分の人生を誰にも伝えることができない。自分の仕事の記録でもある。これを書かせないということはその人間の人生を完膚なきまでに否定する行為を意図的に行っているということになる。そんな大切な記録を周囲の人たちはいつも見ることがない。日記だから当然誰も見ることはふつう許されない。だから最後の最後に明らかになる、そこにドラマが出てくる。

 

この映画で残せなかった記憶を主人公が体で示した姿は実にアクティブかつエネルギッシュだ。若々しさと活気に溢れた記憶が脳内に残せないのは実に気の毒な設定だが、その記憶の隅々までを口頭で伝えられる手段も実は不充分で、周知徹底は予想以上に至難だと思う。だから紙という媒体が最も有効といえばそういうことになる。自分の過去を再確認することで今の自分を知り、人間を知り、他に学ぶところも多くなる。毎日確認する度に間違いなく彼が成長しているのだとしたら、読む側の自分に正確に伝わっていることになり、書く側の自分は相当な語彙力の持ち主ではないか。さすがはエリート学生だ。

 

ことほどさように日課であるべき書くという行為の重要さを示すと共に、記憶とは脳だけでなく体でも覚えられるものだということを若さゆえの必然的なアクティビティを絡めつつ、改めて観客に教えてくれる珍しい形のスポ根映画ではないだろうか。