デイズ・オブ・サンダー

 

1990年日本公開 監督/トニー・スコット

出演/トム・クルーズ、ロバート・デュバル

 

ル・マン、F1グランプリと続いて次は世界三大カーレースにならってインディ500といきたいところだが、このカー・レースを舞台にした映画も意外に少ないように見受けられた。その傍らで人気のあるストック・カー・レースを舞台にした映画のほうが寧ろ多いようで、ここではこれを挙げてみたいと思う。ストック・カーというのは市販車を改造したものをレースに参戦させるもので1959年が最初とされるこの類のレースはアメリカ中でも幾つも開催されている。そのひとつがナスカー(NASCAR)である。1周あたり2.5マイル(約4,000m)を200周(500マイル)走破するとかしないとかのレースであり、デイトナ500レースも有名だ。このトニー・スコット監督の『デイズ・オブ・サンダー』もこのレースが舞台となる。

 

メカニックのベテラン監督、ハリー(ロバート・デュバル)のところへチーム・オーナーのティム(ランディ・クエイド)が話を持ち込んでくる。新しいドライバーを見つけたから見てやって欲しいという。サーキット場で最近でも活躍も華々しく見せているドライバー、ラウディ(マイケル・ルーカー)も見守る中、田舎からやってきたその若き青年は好タイムを叩き出す。かつて辺鄙な田舎での草レースで好成績を残し続けてきたが、ある不祥事に巻き込まれてクビにされてきたという男、コール・トリクル(トム・クルーズ)。しかしコールとハリーはお互いを分かり合うことで万事は順調に進み、成績は見る見るうちに好レースを展開、連勝を重ねていった。

 

しかしあるレース場の危険なコーナーで大事故が発生、周辺が煙幕に覆われて視界を見事に奪われたなか、コールも先を見失ってラウディの車と衝突、彼の車は大きく弧を描いて横転し、リタイア。救急車に運ばれ、入院を余儀なくされるが診断結果によっては命をも奪いかねない状況にまで陥っていた。ラウディも同時に、しかも同じ病院に収容された。二人のレーサー生命が危ぶまれ、検査の結果を待つばかりであった。担当医はルイッキ(ニコール・キッドマン)があたることになった。

 

しばしの休養が与えられ、退院手続きも済んだコールはとにかくルイッキに接近、ついにはデートにまで漕ぎ着けていた。そうして二人の逢瀬が繰り返される一方で症状も順調に回復していった。しかし家族持ちのラウディは少し様子がおかしく、ルイッキのチェックで脳内に異常があることがわかってしまい、しかも後遺症は益々悪化していた。これでレーサー復帰は望めなくなったラウディ。復帰が待たれたコールはラウディとひとつの約束をした。

 

コールの後釜にはすでに新人が入っており、彼も彼で人気高騰中だ。またオーナーのティムはもうひとつのチームをも買い取ってはいたが、双方のチームへの優先順位の誤判断でトラブルを引き起こしかねなかった。そして復帰戦に望むことになるコールは無事完走できるのか。

 

といった具合であるが、何しろトニー・スコット監督のことである。話をかなりコンパクトにまとめ上げてくるし、その物語の切り換えのタイミングも実にテンポ良く、流れるようなカメラワークも遜色なく、観ていて心地良いのがトニーのカラーだが、正確にはこの映画のおよそ10年後に映像に露わになってきて以来、こうした定型とも呼べる傾向が個人的には印象論として強まってきている。ということはこの、例えば『スパイ・ゲーム』(01)あたりまで辿った上でだが、この『デイズ・オブ・サンダー』の時点ではこの『スパイ・ゲーム』程の派手なカメラワークを披露したわけではなかった。つまり基本にのっとったということだが、そうした意味でもこの映画はトニー・スコットには映画監督デビューしてからまだ10年を経ていないながら、監督第2作『トップガン』(86)で大ヒットを記録して名匠入りを果たし、その踏襲性はこの『デイズ~』へ受け継ぎつつ、それらからは経験の積み重ねが垣間見えてくる。それにしてはハリウッド・メジャー作品のレヴェルとしても誠に壮大な経験蓄積作業である。ちなみに彼は兄リドリーと共に1973年にCM製作会社を設立し、撮影を幾度も重ねてきた技術者でもあった。

 

トム・クルーズはいつからか、失読症を患っているとして知られていた。『大いなる陰謀』(08)ではトム・クルーズの台詞は彼自身分かっているのか? ちゃんと理解しているのか? などと評価面で書かれてしまっていた。ともあれ相当難しい内容の台詞の応報であったのだが、それがこの作品の原案に彼の名もクレジットされている。脚本を兼ねたロバート・タウンとの共同作業だったが、正直なところどのような形で作業が進められたのかはいまだ不明瞭、わからないからみんなで作った、という経緯もなくはない。しかしながらレースカーのメカ知識を一切持たないままに直感で運転してきた男ならではの発想が何となく学習障害を患ったトム・クルーズつながりに見えてくる。少なくともここでは事故による恐怖感の克服をドラマの伏線としているが、こうした精神障害克服の経緯の現実と虚構それぞれがトム・クルーズの思いを内包しているようにも思えてくるのであった。

 

トム・クルーズが実際にその症状の克服に頼ったのがサイエントロジーと呼ばれる宗教団体であり、ほぼ完全に克服したいま現在となってはこの団体を支持する声明を出している。以後、トム・クルーズは映画プロデューサーとしても活躍、映画会社との軋轢をも引き起こす経緯もあったが、役柄としてその中盤から義眼をはめて登場する『ワルキューレ』(09)を発表してもなおハリウッド・スターとしてのオーラはいまだ立ち消えすることがないのであった。

 

続いて『カーズ』だ。無論ご存知のようにピクサーによるCGアニメである。ダイナコ400レースが開催されるサーキット会場にはもちろん観客が大勢というおおぜいが観に来ているが、どれもこれもみなクルマである。観客席が駐車場になったようなものだから場外に駐車場は要らないようなもので、これを省スペースと言わずして何と言う。しかもパーキング料金をも払わずに済むのだからこれはかなり便利な映画だ(?)。そんな会場の中をこれまたクルマがドライバーを乗せることもなく我先にと目と鼻の先にある瞬間を奪い合う競争を繰り広げる。

 

そのなかで史上初のピストン・カップの新人チャンプが期待されるレースカーがライトニング・マックィーン。車体を赤に染め、横腹に稲妻をあしらい、あたかも稲妻のように瞬時に消え去る速さの持ち主を象徴するかのようだ。しかし彼は自分が世界最速と豪語するほどあまりに自信過剰にしており、チームのピット・クルーたちの話にも耳を貸さず、今度のレースではタイヤ一本のパンクで苦しい接戦を余儀なくされたことでクルーに責任を押し付けるほどだ。そして優勝を賭けた次のレース会場へ向かうため、マックィーンはトレーラーに乗って一眠り、翌朝には到着するはずだった。

 

ところがトレーラーが暴走族に煽られてしまい、その弾みで荷台車の扉が開き、ストッパーから外れたマックィーンは惰性で地上に落とされ、トレーラーに置いてきぼりにされてしまう。もちろんそこは街灯もない真夜中、開けた砂漠のど真ん中であるために大きな目印もないから自分がどこにいるのかさえ分からない。目が覚めたマックィーンは自分が立たされた窮地に狼狽し、トレーラーを追いかけたが却って道に迷ってしまい、パニックになってオーバースピードであちこちを彷徨するうちにパトカーに追われる。そしてある町に追い込まれてしまい、捕らわれの身となった。

 

そこはラジエーター・スプリングスという町。かつて地図上でもその町を構成する国道、ルート66も表示されていたが高速道路の建設のために観光客も来なくなって久しく、いよいよ地図からも消えていこうとしていたほど町自体が寂れていた。そのスクラップ置き場で鎖に繋がれて一晩を過ごしたマックィーンは、車体中が錆だらけのレッカー車、メーターに法廷内に連れ込まれる。傍聴席には弁護士を務めるポルシェのサリー、マックィーンを捕まえたパトカーのシェリフ、メーター、とにかく町の人たち、もとい町のクルマたちが大勢来ていた。判事を務めるはこの町の長老、ドック・ハドソン。判決の結果、前夜の騒動で荒らされた道路を舗装し直すことで社会奉仕を果たすことを課される羽目になるが、マックィーンはそれを嫌がり、とにかくレースに戻らなければならず、そんなことをしているヒマはなかったのだがハドソンとのスピード勝負に負けてしまい、そこから逃れる術はもはや何も残されていなかった。それもそのはず、ハドソンはかつてのピストン・カップの覇者でもあったのだ。

 

そして弁護士のサリーとも出会い、このラジエーター・スプリングスの過去と町民であるクルマたちを知るうちにこの町から逃れることをいつしか忘れるようになる。一度は手をかけたが粗過ぎた仕上がりの舗装道路も今や綺麗に修復し、それもみなこの町とみんなに出会えたからだった。

 

やがて町にマスコミがやってきてマックィーンを見つけ出す。クルマたちが集まる都会ではマックィーンの失踪に世間がすでに騒ぎまくりだったのだ。そしてここでマスコミの一報、ライトニング・マックィーン、レース復帰か?

 

出演者にライトニング・マックィーンやドック・ハドソン、声の出演者はそれぞれオーウェン・ウィルソンとポール・ニューマンである。かつては車好きが高じてカーレーサーをも経験したポール・ニューマンがここにこうして声優として参加するファン・サービス。

 

ジョン・ラセター監督は劇場用パンフレットでのインタビューでも「シボレー販売店務めの父親の影響を受けている」と話している。幼少時は毎日が車に囲まれた生活だったのに加え、母親が美術教師だったことも合わせて今作の製作に取り組むきっかけとしてみなす事は一応可能だ。また筆者の記憶が確かであれば、DVDのインタビューでは2000年の夏にキャンピング・カーを使っての家族旅行をきっかけに、仕事で缶詰状態になっていた彼自身が周囲の家族を大事にする考えを培う時間を得られたと言う。自分の周囲にある家族との存在によって、自分が周囲に支えられているのだと言うことを自覚した上でこの映画は「最も個人的な映画」だとしていることになる。

 

自分の周囲を顧みることがなく、いつまでも猪突猛進になってまっしぐらになって協調性を失っているようではいずれ転落するということを嫌でも学ばされてしまう。こうして悪い例を予め提示し、そして主人公にはなかったものが芽生えてくるか、周囲との交流を重ねた上で協調性を学んでいくか、そして人生の喜びを最後に共有し合う、といった具合に目覚めの物語を進めていくのである。

 

そういう意味で前者の『デイズ~』でも底通するところがあり、人が何かを学ぶ、何かを得る、何かを克服する、といった行為がドラマの起伏となり、映画を盛り上げてくれる要素として不可欠であり基本である。またそれは現実においても人間の成長を立証する為に必要な過程であり、あるいはこれを通過儀礼とも呼ぶべきか。前項までに取り上げたいわゆる人生交差点とは異にするエッセンスでありながら、実に分かりやすい成長劇としてあるほうが成長過程にある子供向けにもなれば、大人向けの場合としても通用しうるストリーム、対象年齢層は実に広いもので、基本に立ち返るにはこの要素を盛り込むことが最も肝要であると筆者は考えた次第。

 

 

カーズ

 

2006年日本公開 監督/ジョン・ラセター

出演/ライトニング・マックィーン、ドック・ハドソン