マジェスティック

 

2002年日本公開 監督/フランク・ダラボン

出演/ジム・キャリー、マーティン・ランドー

 

1951年、戦後を過ぎてまだ間もなく、街は復興の兆しを見せ始めており、映画業界ももはや例外ではなくなっていた。そんな時に脚本家ピーター・アプルトン(ジム・キャリー)は映画会社のトップたちとネタの打ち合わせをしていた。ピーターは自分のシナリオ作品「サハラの盗賊」が映画館でもかかっており、その映画のポスターを観るたびに自分がクレジットされているのを秘かに喜んでもいた。女優とも交際があり、彼のサクセス・ストーリーは順風満帆に進んでいたかに思われた。ところが当時アカ狩りが横行し、その疑いの矛先はピーターにも向けられてしまった。横暴なやり方に納得が行かないピーターは顧問弁護士らとの話し合いで善後策を練って討論するなどして悪戦苦闘を繰り広げなくてはいけなくなった。

 

そのために彼の仕事は打ち切られてしまい、彼は自暴自棄に焼け酒をかっ喰らうことになる。飲酒運転もなんのその、ところが吊り橋の上でネズミが出てきて車はスリップし、ガードレールを破って車体が川底に向かってシーソー状態になる。突如大雨も降り出し、ギアをバックにするやタイヤは横滑り、車体はバランスを失って川底へ真っ逆さまに。

 

浜辺に打ち上げられた男。一人の老人が彼を見つけたが、男は自分の身に何があったのかまるで分からなかった。老人は少し不思議そうに男の顔を見つめていた。男は彼に連れられていく。その時は朝も早く、二人はいまだ静けさに包まれたその町に着き、男は食堂で朝食をご馳走になる。怪我もしていたため、病院に連れていかれる男。病院のドクターも食堂でもどこでも、男は周囲に怪訝そうにじろじろと顔を見られていった。ただひとり、同じ食堂にいた老人ハリー(マーティン・ランドー)は怪訝どころか驚愕のあまりに声も出せずに、男の後を追いかけていくだけしか出来なかった。病院で治療を受ける男に追いついた老人は、男を見て感極まった表情で涙を潤ませて彼の名を呼んだ。ルーク。

 

彼の息子の名前だった。しかしそう呼ばれた男本人は全く何のことだか分からない。寧ろ自分が誰なのかさえ分からない。記憶が全て一切合切なくなってしまったのだ。そしてその男をルークと呼んだ老人はその父親であり、息子ルークは9年以上も前に戦争に行ったきり戻ってこなかったという。記憶を無くした男の顔や体格がそのルークとは瓜二つだったのだ。

 

彼の帰郷の知らせを聞いて駆けつけた街人たちが彼に一斉に声をかけてくる。しかしルークと呼ばれてもしっくりとこない男は何も答えてやれず、その場をやり過ごすしかなかった。そしてルークのかつての婚約相手だったアデル(ローリー・ホールデン)とも正確には再会ではない再会を果たしたのだった。

 

戦争はこの街から一気に若者達を奪い去り、そして殆ど多くの誰もが戦地から帰ってこなかった。そのためにこの街には元気がなくなっており、いつも静かなのだった。そこに希望の一石が投じられたもののルークと瓜二つなだけだが、それでも彼一人のお陰で街は活気を取り戻しつつあったのだ。しかしそこをやはり抜け出たくても自分が誰かもわからず、どこに行けば自分が分かるのか分かる術もない。とりあえず記憶が戻るまでそこに留まるしかないようだ。

 

アデルから当時の話を聞いた。何もかも覚えておらず、ただただアデルとルークがどこでデートを重ね、どのようなことを語り合い、どこで多くの時間を過ごしたか、などと色々聞き出した。しかし映画「ゾラの生涯」の話題になるとそれは彼も知っていた。それでもこの街で直接に自分がかかわった記憶がまるでないのだった。いつもしゃっくりがひどいアデルにその治療方法を男は教えた。これですこし二人の距離は近づくのだった。

 

帰郷してきたルークのための送迎パーティーが催された。誰もが男をルークと信じて帰郷を喜んだ。この失われた活気を取り戻してくれた男一人のための集まりを男はどうにも拒否できなくなっていった。戦争のために片腕を義肢にした食堂で働く男ボブはルークと呼ばれる男を信用せずに寧ろ疎んじていた。

 

父親ハリーの家は古びた映画館の上にあり、映写技師のハリーやその従業員、黒人の老人エメットや白人系の老婆アイリーンからもかつてのルークの話を聞き、次第に彼の性格を理解していった。やがて彼はルークとしていよいよこの町に居つこうとしているかのようにも見えるようになっていく。

 

映画館の名前は「マジェスティック」。営業も全くの停止状態だった。そしてルークと呼ばれた男はその映画館の再起を提案した。街の本当の活気はいよいよこれから新たに生まれ変わろうとしている。そして映画館は宵闇に光る最高のイルミネーションを放ち、映画館には多くの観客が集まり、皆ひとたび映画が始まれば身じろぎひとつしなくなる。ようやく町が一体化しつつあった。そんな中で男はチケット売り場でも仕事をするようになり、いろんな観客に映画を薦めていく。

 

そして幾つもの映画がかかっていくそのうち、「サハラの盗賊」がかかることになる。ルークと呼ばれた男はその映画の台詞を一言一句違わずに暗誦できていた。彼はその映画のポスターを見に行った。脚本担当の名はピーター・アプルトン。

 

劇中劇として「サハラの盗賊」がかかっているが、主人公ローランドのイメージは恐らく1950年代を代表するアクション・スターのエロール・フリン。もっと前か。いまでは彼を確認できるソフトなど機会もかなり限られているかもしれないから、彼のイメージを他には捉えようがない。背景に映る影の使い方も絶妙で、インディ・ジョーンズの世界の根源もこの時代からの学習効果とも言える。1953年に日本で上映されたジョージ・スティーヴンス監督の1939年度作品『ガンガ・ディン』は『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(84)の元ネタとしても知られていたとかどうとか、などなど。

 

人間は忘れる生き物であり、筆者も時折何かを忘れることもあるし、人間としてこれは決して間違いではないと思う。この主人公は冒頭の事故のために川の岩肌に頭をぶつけ、記憶をなくしていたことが観客にはあからさまにわかるようになっている。

 

さて、記憶が戻ることでどのように物語は変わっていくのだろうか、それは町の活気が取り戻されることによって町の中に介在する一心同体ともなる団結力が、そのあとのドラマ展開に箔をつけてくれる役割を与えるようにもなっている。また、ほんのちょっとだけ山田洋次監督の『幸福への黄色いハンカチ』(77)を意識した作りも匂わせておきながら実はそうではないですといった軽いオチもみかける。

 

ちょっとだけ面白いのはこの映画の主人公が常に映画から離れないことだ。運命といえばそうだし、どこか人間妥協して趣味として留めることも方々ではよくあることだが、この映画脚本家であるピーターの場合でも、父親が映写技師というルークの場合でもそうした映画に恵まれた環境を持っている。名匠ジュゼッペ・トルナトーレ監督の『ニュー・シネマ・パラダイス』(89)へのオマージュとしても解釈することが可能な作品としても位置づけられ、フランク・ダラボンやジム・キャリーを始めとするこの映画にかかわった人たちのみならず、この映画を観に来た人たちやDVDなどを観た人たちなど全ての人類達に対して、映画への愛を再確認することを試みた映画と思っていいはずだ。映画の真似を現実においてするかさせるかは本人の常識次第だが、それをマナーにあてはめた場合に人間、あるいは社会人としてどう顧みるかも本人次第だ。映画は真似をする為に或いはさせる為にあるのではなく、希望や夢を与えるためにある。総じて娯楽を与える価値あるものでなければ成り立たないものである。この町にやってきた男もたったひとりなのに町の残った者たちに希望や夢を与えた。そこに更に映画館が再び開いたからこそ、夢や希望が増幅されるダブルチーズ・バーガーになれるのだ。

 

ところが記憶が戻ると話はどう変わっていくのだろうか。筆者はこれを観ていて、せめて記憶が戻らなければいいのに、と思っていた自分にハッと気づく。記憶をなくしたことで生じていた取っ掛かりが気にならなくなったはずなのになんとも矛盾していておかしな話だ。これはある意味映画上では想定的なハリウッドを若干茶化した感も否めないなどとも思う。それでも映画のリールは回り続けてスクリーン枠いっぱいに夢の光は広げられていく。記憶を無くしても映画に繋がりが持てるならば、何度でも記憶を無くしてもいいと思う映画ファンも多く出てくるような気がする。それはある種の人生のやり直しとも言い換えられるのだ。

 

日本でもかつては鞍馬天狗などチャンバラ無声映画が主流だった戦時だったが、そのチャンバラアクションが幼き頃の子供たちに元気を与えていった。以来、戦後。日本の映画館も目覚ましく変わっていった。チケット売り場の外装もすっかり変わったが、いまだ一階の入り口にチケット売り場を置いているのが以前からの名残として残されてあるのも筆者には気づかない(寧ろ気づかなくなった)ことではあるが、改めて考えると幸いなことではある。接客用語丸々ではあるが情報過多な現代においては観客としてまるで頭がカチコチになってしまった気がする。要は映画告知の大きな看板を前にした映画館入り口の外見は時として良い風景になることがあるということだ。それにしても名シーンだった。

 

丸の内TOEIはそろそろ閉館のようだ。老朽化だって。