ミシェル・ヴァイヨン

 

2003年日本公開 監督/ルイ=パスカル・クヴレール

出演/サガモール・ステヴナン、ダイアン・クルーガー

 

いまこの世界中で開かれているモータースポーツは数知れず、ここでそのジャンルにあてはまる類の映画としてそれぞれ挙げるにも種目数自体枚挙にいとまがない。1年は365日、一年間で作られる映画はその数以上あるかないか、というよりは想像以上にたくさん作られてきている。

 

繰り返すが、世界のレースは実にたくさんある。なかでも有名な世界の三大レースというのがあるそうで、「インディ500」、「ル・マン24時間耐久レース」、そして「F1グランプリ」。ところが「インディ500」をモチーフにした映画は意外に少なかったようであり、見つけやすそうだが他のレースにもスポット・ライトをあて、まあそういう訳で見出しを幾つかに振り分けてみる。

 

レース映画にも様々なものがある。レニー・ハーリン監督の『ドリヴン』(01)、ご存知スタローンの主演とシナリオが鳴り物で、負け犬の若僧に勝負の厳しさとそれに負けないためのガッツを植えつける年長者の役柄を受け持つのも一時期定番のようにも思える。大規模な爆発がセールス・ポイントのハーリンだが本作ではほんのオマケ。監督作『ディープ・ブルー』(99)ではサミュエル・L・ジャクソンというスターを被害者にさせるなどのサプライズまで用意しちゃって大丈夫なのって言うぐらいびっくり。『ホワイトアウト』(00)の平田満状態。ちなみにこの『ドリヴン』のレースはF3000、もてぎでのロケも行われたようだ。路上のカー・チェイスも滅多に見られるものではなく、マンホールの蓋もメンコのように軽々と飛んでいく。同じフォーミュラでもこちらは和製フォーミュラ、小谷承靖監督の『F2グランプリ』(84)。何でもホンダのカラーが濃厚だとかいうが肝心のソフトもただいまお取り寄せ中。中井貴一主演。

 

もっと遡るとブレイク・エドワーズ監督の『グレートレース』(65)やケン・アナキン監督の『モンテカルロ・ラリー』(69)がある。前者は「チキチキマシーン猛レース」みたいなノリのロードレース、ジャック・レモンの一人二役が弾けているのもレアな見もの。後者は生憎筆者も未見であり、観ようにも観られる機会が希少な、世界ラリー選手権(WRC)のひとつを舞台にした映画。もちろんモナコである。トニー・カーティス、ゲルト・フレーベ、ピーター・クック(『スーパーガール』(84))といい顔ぶれだ。また日本では高倉健主演の『海へ ~See You~』(88)がパリ・ダカール・ラリーを背景に倉本聰の筆力によって砂漠の向こうから人間ドラマを深く儚く奏でてくれる。三時間の長尺とあって大作感溢れる蔵原惟繕監督作品。レースとは関係なくてもクルマでお金を追いかける映画もあり、その元祖は恐らくスタンリー・クレイマー監督の『おかしなおかしなおかしな世界』(63)だろう。スペンサー・トレイシー、バディ・ハケット、ミッキー・ルーニー、ピーター・フォーク、そしてバスター・キートンと次第に多くの人が巻き込まれていくドタバタなクルマ映画である。それほど古くもない筆者にとっても2時間半以上もの尺を持つ恐らくはデート映画であっただろう。

 

ハリウッド・スターのオートレース・ファン魂が嵩じてレーサーになるというケースもザラにあった。マックィーンはもちろん、ポール・ニューマンもその一人であることは有名な話だ。『レーサー』(69)や『デッドヒート/マシンに賭ける男の詩』(71)、そして『ポール・ポジション2』(80)、『ウイニングラン』(83)などで様々な形で出演を果たし、実際にル・マンやデイトナ24時間耐久レースでもレーサーとして活躍、好成績を残してきた。

 

さてさて、他にもできるだけ多くを取り上げたいのは山々と思う中を先ずはフランス中部の小都市ル・マンで行われるビッグ・イベントを舞台にした映画を2本だけ。このレース会場はサルト・サーキットと呼ばれ、周回コースは1968年時点で全長13.469㎞、既に歴史も古く、ポルシェ、フェラーリ、アウディ、ジャガー、プジョー、アルファロメオなど多くのメーカーブランドが参加する由緒あるモータースポーツのひとつである。この周回コースにて決められた走行時間は24時間、この時間のあいだに走破した距離を競うものである。また一台あたりドライバーは2人一組の交代で進められ、一人あたり一度の運転にあたって4時間以上は走行、オーバーランしてはならないという。

 

自分のことを余り話さないという名匠リュック・ベッソンはレース・ファンなのかどうかは明確にされていないという。彼の手がける作品のうちよく知られるクルマ映画が多いからそう気になるのだが、例えば名シリーズ『TAXi』(98~)やジェイソン・ステイサムの出世作シリーズとも言うべき『トランスポーター』(03~)がやはり人気だろう。前者では傍目では個人タクシーなのに相当に手を入れた改造車プジョーが大活躍、後者では運び屋が駆るビーエムに載せるものはある意味機密扱いだがそれを守らなかった為にヤバイことになった。どちらもクルマッチ(トゥーマッチ?)なアクロバットが目を瞠る。そのベッソンが地元だからなのか、このル・マンのレースにも一気入魂、フレンチ・コミックが原作(初掲載以来50年以上経過なのだそうだ)のムービー・プロジェクトを打ち立てた。

 

ミシェル・ヴァイヨン(サガモール・ステヴナン)の母親エリザベス(ベアトリス・エイジェナン)が悪夢で目が覚める。レース中にドライバーの息子が事故でレースカーは飛び跳ね、炎上する。そばで寝ていた夫のアンリ(ジャン・ピエール=カッセル)は夢でうなされて不安を隠しきれない妻をなだめた。

 

25年もの長きに亘る因縁の戦いが続くチーム・ヴァイヨンとチーム・リーダー。リーダーの方はヘッドが他界して一時はレース界撤退かと思われたが、その社長令嬢ルース・ワン(リサ・バービュシア)が跡を継ぎ、レース復帰を宣言した。

 

ペアで参戦するラリーで宿敵クレイマーとデッド・ヒートを続けるデヴィッドやスティーヴ(ピーター・ヤングブラッド・ヒルズ)たち。橋を渡る直前に車体が横転し、川底に入ってコースアウトしてしまう。ジュリオが後続車のミシェルたちを呼び止め、状況を伝えるがいったんは無事かと思われたデヴィッドが車の中に残ったまま車が爆破炎上してしまい、帰らぬ人となる。その葬儀にミシェルたちはデヴィッドの妻ジュリー(ダイアン・クルーガー)と初めて知り合う。ミシェルとマネージャーを務める兄ジャン=ピエール(フィリップ・バス)はジュリーがル・マンを走らせてくれと懇願してくることに戸惑うもタイム・トライアルをさせることで参戦を判断することにし、実際彼女はクリアしたのだった。

 

ル・マン耐久レースのスタートが迫る直前に父アンリが何者かによってさらわれた。そしてミシェルの耳にはチーム・リーダーのスパルタな女マネージャー、ルースの八百長の話が入る。母親に心配させることも許されず、そして更に耐久レースに使われる2台のレースカーを載せたトレーラーは人為的な事故という妨害工作のために道路から脱輪、身動きが取れなくなる。果たしてレースカーは会場に無事辿り着くのか、難なくエントリーできるのか、そして父親は無事救い出せるのか。という、いちおうリュック・ベッソンのシナリオ。感想としては別の意味でちょっと凄いなと思った。

 

世界的象徴たるビッグ・イベントに対する脅威的右翼行為の実に連続的な話だが、2002年冬に撮影されたという映像の数々は実に疾走感溢れる勢いを火花の煌きと共にフィルムにびっしりと焼き付けている。湖畔沿いのアスファルトでも2台揃って走ってくれているし、サービス度は『ドリヴン』にも劣らない。最後は赤と青の一騎打ちとなるが、所々にあしらわれた白線がアクセントとして光り、まるでフランスの国旗と同じその配色は愛国心の表れでもあるかのようだ。いまでさえこうして粗筋を読み返しても、今の世界は実にテロリズムに溢れかえっている、実は恐ろしい映画だったのだ。

 

片や名作の一本と数えたい作品は同じくル・マン24時間耐久レースをドキュメンタリー・タッチで描いた人間ドラマ『栄光のル・マン』だ。肺がん(一説ではアスベストが原因という)で若くして50歳で他界した(あの当時は訃報自体というそのショックが如何に鮮烈であったか、まだ9歳だった筆者には痛いほど記憶に残った)マックィーンは自他共に認める無類の車好きで、レーサーを務めることを熱望していたほどだ。この映画では実際に彼はドライバーとしても参加している。

 

距離にして13㎞オーバーの周回コースのスタート形式は奇しくもこの撮影時期を境に変更されたらしい。従前はコース脇に一列に並んだレースカーとは反対側にドライバーが立って構え、合図と共に自分のカーに向かって横切って走る形式だったが、これを映画の中では変則的にドライバーたちの走行ダッシュをカットし、既に運転席に着かせたまま、レースカーをコース脇に斜めに並べてのスタートとなる。そうして翌年からはF1同様に普通に順位順で並べている。映像では確認出来ていないがいわゆるローリングスタート。

 

無論だが、この当時は日本国内において中継放送などは恐らくなく、ダイジェスト放送がせめてものファンの楽しみだったようである。充分に普及したとはまだいえなかったテレビでは滅多にお目にかかる機会もないために、この作品の類は実に大ヒットの要素を内包していたのだ。

 

ポルシェ所属の国際プロ・レーサー、マイク・デラニー(スティーブ・マックィーン)が会場に着き、耐火服を着て更にドライバー・コスチュームを羽織る。同じポルシェのドライバー、リッター(フレッド・ハルティナー)は妻と引退の話をしている。会場には前のレースで接触して事故死したドライバーの夫人リサ(エルガ・アンダーソン)が観に来ていた。長年の好敵手、オーリックやストーラーらと火花を散らすデッド・ヒートが観衆に望まれつつ、マイクは静かに時を待つ。

 

フランスの国旗が勢いよく風を切って波を打つ。全ての車体にイグニッション・スタートがかかり、轟音が一斉に場内を震動と共に覆い尽くす。タイヤの軋みが唸りを上げ、豪快な摩擦は一瞬のうちにスモークを周囲に這わせる。ギヤチェンジが甲高いエンジン音に区切りをつけ、スタート・ダッシュの興奮をこれでもかと長引かせ、そのエキサイトの渦は観客を否応なしに巻き込んでいく。

 

前者はCGを極力使わない方向で製作されていったが、それでも目立つところはCG合成とすぐに分かるもの。それは見せ方次第でその必要性も左右されるし、結果次第ではノーマークだ。しかるにこちらは1970年の映画だからCGなどあろうはずもなく、それなのにこの見せ方は一体何なのだという位に完成度が高いのだ。タイヤ・ホイールと同じほどの高さにもカメラが取り付けられ、そこまでローアングルでは隣のフェラーリにぶつかるのではないかというほどハラハラさせる近さ。或いはローアングルのまま後ろから赤のフェラーリが近づき、ぶつかるかと思いきやそのファインダーは一気に横に向いて隣の車の姿を捉えて離さず、そのまま追いかける。車のあちこちにカメラは取り付けられ、カットも頻繁に変わるからカメラの取り外しも頻繁になされたことは間違いがなく、カットの度にハイ・スピードで駆けて行くレースカーたちである。これらのカッティングは実に精巧で見事につながっているのだ。

 

登場人物をそこにおいて回想シーンを差し挟み、彼らの過去に何があったのか、観ている誰もが分かりづらそうな、台詞を極力抑えた形で空気を読ませる傾向のある本作。レース・シーンの迫力に圧倒されてはドライバー交替の休憩時に、そう言えばこいつら何かあったっけ、みたいな感じで例えばマイクとリサの会話を聞きながらそう思うか思わないか。

 

アングル一つ変えただけでクルマの姿そのままをあれこれと強烈に見せつつ、小休止のようなドラマのシーンではじっくりと、そして静かに流れるように見せるべく周囲の風景と一緒に切り取ることで周囲に溶け込ませていく。しかも台詞が少なく、そのため登場人物の感情の起伏の波が露骨にならない。静かに燃える男の行為は車のスピードとハンドリングに叙事的に表われる。全てが終われば後は落ち着くのみ。後はゆっくりと語り合う。全てを置いて疾風のように先へ進まなければならない男と後に引きずる女との、お互いが整理するための接点が最後に用意されている。二人が待っていたのはそれであることを示した人生劇なのかもしれない。

 

 

栄光のル・マン

 

1971年日本公開 監督/リー・H・カツィン

出演/スティーブ・マックィーン、エルガ・アンダーソン

 

 

※『フォードvsフェラーリ』(20)についてはしばらくお待ちください。