ベンジャミン・バトン 数奇な人生

 

2009年日本公開 監督/デビッド・フィンチャー

出演/ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット

 

1918年、第一次世界大戦終戦の夜にひとりのこどもが産まれた。しかしその子の容姿はあまりにも見るに耐え難く、というよりは体全体が老いていた。眼は白内障にかかっていて見えなくなっており、関節は弱り、体全体も顔全体も皺くちゃ、老化現象と呼ばれるものがひどいぐらいに全て一緒くたになっているのだ。産みの母親に先立たれ、あまりの容姿の尋常のなさに恐れをなした父親(ジェイソン・フレミング)は或る老人ホームの入口に、毛布でくるんだその子を置いていく。どんな子供であろうと神が与えたものとして、介護役の黒人女性がその子どもを施設内で育てることになった。こうして彼はベンジャミンと名付けられた。

 

次第に成長していく(老)少年ベンジャミン(ブラッド・ピット)は車椅子で移動する毎日。ひと目にも高齢者層の小人症患者のように見える。同時にラッパ型の補聴器も必要だが、ところがいつの間にか眼は見えている。しかも神父の生命と引き換えにしたかのように不自由していた自身の両脚に歩く力を取り戻す。

 

バレエを習う少女デイジー(エル・ファニング)と出会う。彼女は見かけが高齢者の小人症に見えるベンジャミンを不思議なことに、ひとりの少年のように見ていた。これを境にデイジーはベンジャミンが気になる存在となった。しかしベンジャミンは17歳のときに家を出て行き、世界を見渡すために旅に出る。旅先の数々、船の上で労働を学び、素顔を知らないままの父親と知り合い、時にはひとりの中年女性(ティルダ・スウィントン)との深夜の会話をも嗜むこともした。

 

ややあって1945年の26歳の時に実家に戻る。そこで偶然デイジー(ケイト・ブランシェット)と再会。(実際年齢より超肌白な)彼女は既にバレリーナとして将来を嘱望されるまでに成長していた。戦争で船や仲間と離別したベンジャミンはデイジーを抱きとめることもままならぬ一方で、父親から真相を聞かされて遺産相続の話を持ちかけられる。しかし父親のトーマス・バトンは不治の病で余命幾許もなく、思い入れのある湖のほとりで美しき景色を息子と共に眺めながら息を引き取る。

 

1960年代にも入るとデイジーはニューヨークで益々売れっ子になり、舞台裏に挨拶に行ったベンジャミンは彼女の仲間にあしらわれて疎外感を覚えてしまう。何しろ人とは違った数奇な人生を辿るしかない人間である。この主人公は孤独に身を晒さねばならない境遇にあることは今に始まったことではない。しかしその人気者になったデイジーは人身事故で大怪我を負い、バレエの舞台に復活することがなくなってしまった。見舞いに行ったベンジャミンにはこんな姿を見せたくないと目を背ける。退院後の彼女はバレエ教室を開き、そこにベンジャミンが現れる。最も美しく輝く男に見える時期のようで、これぞブラッド・ピット、そんなベンジャミンとデイジーはお互いの気持ちが最も近い時期が今であることを確認し始めた。

 

メジャー・デビューを本格的に果たしたと言われるロバート・レッドフォード監督の『リバー・ランズ・スルー・イット』(93)の時に見せたブラッド・ピットの容姿は実に美しく、本作はまるでこの当時のブラッド・ピットに戻ったような錯覚を覚えさせる。陽光に照らされて波を蹴りゆくヨットの上で佇む空の中の彼もまた美しい。その一方で『バーン・アフター・リーディング』(09)では少々間抜けな大人を演じるなど、幅広な役柄の数々をこなす俳優としてのスタンスを持ちつつ、それでもこの映画では彼の美貌を大いに利用しない手はないだろう。これを観た観客は幸せなうちにどうしたものか。一生の記憶に留めては誘拐されるか憂き目に遭うか。

 

この映画のキーワードはもちろん時間だろう。冒頭にはどこぞの大きな駅舎の中で大きな壁時計がかかる。ところが針は全て逆回転している。盲目の時計職人は語る。時間が戻れば戦地へ向った息子も帰ってくる。それを願ったあまりに時計の進行方向を逆回転にしたのだった。式典に参席した大衆はみな帽子を頭から取って黙祷した。さて何をもの語る。時間軸は通常どう考えても一本しか存在しないし、これを進行、またはその逆行でドラマを展開させることが出来るが、この映画は時間軸が一人の人物の中に二本も存在しており、その外界の時間軸も一本本来の形のままで存在しているのでトータル三本ということになろうか。これは実にややこしく、同時にテーマとして深遠なる要素を込めようとしている目論見もまた見えてくる。

 

始発点とはお互いが高齢であることで、その同じ老衰を共有することで親密になっていく。ブラッド・ピットの遠い将来の顔つきのままに、教育を受けていつの間にか大人びているように見える。旅から戻ってくる毎に同居していた老人たちとは時間と共にひとりひとり別れ別れになっていく。あいにくも同居してきた皆を一人で見送るという形になるが、一度温めてきた親交をこのように置き去りにしなくてはいけなくなる寂寥をまず必ず味わう。

 

話は戻って40歳代半ばに差し掛かり、外見的にも最も冴えている容姿を持つ折にデイジーと再会した時に、鏡面壁の前でベンジャミンは「この姿を覚えておきたい」と言う。この記憶の一瞬が物語る二人にとっての運命の重さがこのワンシーンで示される。このシーンの厚みは本来の進行する時間軸と逆行する時間軸との交錯する時点によって生み出されるのも言わずもがなだが、この時点はややもすると擦れ違いのようにも見えてくる。この時点は二人にとって最も重要な運命の交差点であるばかりでなく、人生全体そのものが孤独であることをより一層強調する効果をもたらした感がある。デイジーは言う。「ここでやっとお互いがお互いに近づいた」と。お互いの思惑の極北がこの時点で見事に重なり合うのだ。

 

そうして二人には子供ができるが、しかしベンジャミン自身は次第に若くなっていく自分を見て父親を生涯務めることができないことを悩んだ末に彼女から離れた。そして1981年だったろうか、デイジーは娘13歳の母親になっていた。そしてそこにまたベンジャミンがやってくる。髪の質も強くなって色濃く、肌つやも取り戻し始めているかのようだ。そうしてまた彼は彼女から離れていく。

 

冒頭では老衰であるにもかかわらず幼児として出生してきたが、青年期、中年期を越えて再び幼児化していく。いったん生まれて成長して普通に物事を学んでそして認知症を訴える。見当識障害と診断され、いわゆる初期の認知症にあたるもので自身又は周囲についての基本的な情報に対する認識の可否を基準とするものだそうだ。それが更に時を経て次第に記憶も失っていく、いわゆる記憶障害をも患っていく。こうした形の症状は全て認知症の表れだそうで、まず見当識障害が四大中核症状のひとつという。これは他に知能障害、記憶障害、失計算(数概念の喪失によって計算が出来なくなるなど)と共に構成されている。大々的に捉えて認知症にも色々あるようで、ここではアルツハイマー型認知症として分類されるという。そして長期間にわたって社会に貢献する為には身体的に、または精神的には不利とみなされるという定義がある以上、これも障害者としてあてはまるのかな。それにしてもこの映画の流れはかなり強引ではあった。

 

老衰で生まれてきた胎児が最後には若返るが、ということは一方向にそのまま行けばいいところをよせばいいのに幼児に戻るという過程を辿ってしまっている。どうせ一方向にするなら成人の身長のまま幼児化していき時間を進めてみたらどうなるだろう。『千と千尋の神隠し』(01)の巨大な赤ん坊みたいになるだろうか。はたまた『AKIRA』(88)か。そして最後にはデイジーの腕の中で息が止まってしまう。老衰による原因でもなく、死因が何であるか、少なくともここではまるでわからない。粗探しをしようと思えば幾らでも出来てしまう、同時にあたかもいつされてもいいですよ、みたいな映画でもある。こうまでして穿ちたくなるほど矛盾を突いてみたくなる物理法則の飛躍こそがファンタジーの醍醐味ではあるのだが、この背景が何しろ歴史的現実を踏まえたものであるから観る側としては人間ドラマとして確実に噛み砕いていかなければいけないので案外思考作業は大変である。要するにどう転んでみてもやっぱり強引なわけで。

 

時間軸の構成こそがこの映画の独特な特徴である。ベンジャミンという人間の中に組み込まれた進行性の交錯現象は、共に経ることになる周囲の人生ベクトルのそれぞれと互いに物理的に擦れ違いながら、そこにある時間を東から昇って西に沈む太陽と共に過ごすことを繰り返す度に重要性が増してくる。受け入れ、受け流し、学び、そして切り捨てる。そのなかで最も切り捨てがたい存在がデイジーであり、そこに露わになった二人の交差点は人生の佳境。人間の人生はそれぞれにおいて独立し、交差する、まさにパラレルワールドの如くでもある。しかし交差はすれどもあくまで成長は一方通行である。フィッツジェラルドの原作では大人のままに生まれたままの姿となって登場していたが、それでもこの映画のベンジャミンの中には対向車線が走っている。そこに人間交差点が新たな解釈のもとで組み込まれたことになり、人間としての一方通行性からなるドラマ定義を一新させることにご執心だったことと思う。監督デビッド・フィンチャーのアート感覚を期待したら何もなかったので見事に裏切られる。それでも冒頭の大時計のエピソードの意味をしっかりと考えればまだマシな映画である。それにしてもどんなにか離れてもたまに会えばそれで済むかもだが、時間的制約に絡まれたためにただの一度しかなくなっているこの一瞬はどんなにか哀しい。