トッポ・ジージョのボタン戦争
 

1967年日本公開 監督/市川崑
声の出演/中村メイコ、小林桂樹
 
この記事原稿の執筆当時は市川崑監督が急逝されてから半年も経っていない時である。彼は驚くほどの数の映画を撮り続け、しかもそのジャンルは驚くほどの数の多岐にわたった。

 

そのうち金田一耕助シリーズも決して忘れてはならない。『犬神家の一族』(76)など、あれほど呪わしくも流麗な映画作品群はなかった。この頃では三谷幸喜監督の『ザ・マジックアワー』(08)をはじめ、今後は数多くの映画人たちが様々な新たな作品において市川監督へのオマージュを次第に捧げ始めていくことになった。


市川崑監督作品の中には非常に解り易くて感動を誘い易い映画もあり、その一本がこの『トッポ・ジージョとボタン戦争』。月はチーズで出来ているといつも勘違いしているジージョという名前の鼠(トッポ)が暗闇の中の地下のあるところで一人暮らしをしている、実に愛くるしく可愛らしい人形劇だが、その物語には原爆保有への反対意識というメッセージが強く濃厚に込められている。他にも、かつてはアニメーション業界を目指していた市川崑監督の、ディズニーやカートゥーン・アニメなどに対するオマージュが隅々まで捧げられていることも、たとえば筆者の記憶が確かなら京マチコ主演の『穴』(57)などで、わかってくるようにもなったものだ。
 

地上がなにやら騒がしく、その物音がうるさくて目が覚めるジージョ。結局眠れなくなったジージョはいまだ真夜中でも仕方なく外へ散歩に出かけることにする。いっぽう、地上では警察官を襲った男が捕まっては、ショーウィンドウガラスにペンキを無造作に塗って(そこには「PEACE」や「平和」と書かれ、さらにその上から「?」を重ねていく)捕まる男もいる。監獄に放り込まれた男たち。他にも投獄された男たちがいる。実は彼らこそが銀行強盗の一味であり、わざと捕まってここに収容されることを装いながら集合していたのだ。彼らの特徴は暗闇の中、影で隠されているためにまるで人相がわからない。その代わりに人数などがわかるように靴下の色を赤や青や黄色で区別させ、これで少なくとも五人はいるだろうか。その彼らが穴掘りスタート、銀行の金庫の床下に辿り着くまで延々掘り続ける。その彼らを指導する男がおり、彼らはその男をB、O、S、S、ボスと呼んだ。ボスはトランシーバーをバナナやセロリの中に仕込んで無線通話に使うが、話し終わると無線機まるごと食い尽くすのだ。筆者はこの映画の中にあるメッセージを汲み取ろうと試みた。
 

お散歩の途中のジージョは赤い風船と出会う。暗闇の中をポツンと佇む赤い風船。ジージョは気にすることもなくそのまま通り過ぎるが、気がつけば赤い風船がいつの間にか彼のあとをついてきていた。気になったジージョは赤い風船に声をかけた。話し込むうちに次第に仲睦まじくなるふたり。そうこうしていくうちに二人は一緒に散歩をまた再び始める。ところが車のリヤバンパーに風船の紐が引っかかり、そのまま車は去ってしまい、ジージョははぐれてしまう。そしてまたあちこちと地下をさまようが、そのうちひとつのパイプ穴から抜け出すことができたジージョ。しかしそこは銀行の地下金庫室であり、そこには死体の山がひしめいていた…。
 

監視テレビの画面からマシンガンが乱射されるや、そのブラウン管を突き抜けたのか、銃弾は監視室内の壁を打ち砕き続け、監視員たちは次々と倒れていく。現実ドラマとして観ていくと、突如としてここで理に適わなくなっている感覚に捕らわれる。それより前には金庫扉の前に立って監視している監視員の足元周りの床を細い鋸が弧を描き、地下へ落とそうとしている。鋸は微妙に現実味がありそうだが、マシンガンがブラウン管を貫通してくるとはどうにもリアルではない。ああ、既にこれはアニメの実写版みたいなものなのだ。ジージョが人間と直接話すシーンというのは前半においてほぼ皆無で、金庫室で強盗とジージョが鉢合わせになって初めて会話をしているこの時点で既にリアル意識から外れたアニメチックなものに完璧にシフトされている。ということは当然、ブラウン管貫通のような荒唐無稽なシチュエーションもそもそもアニメ意識ありきが当然の流れか。
 

そもそもの銀行強盗たちの目的は金庫扉の向こうにある原爆発射ボタンを奪うことにあった。それらは全部で五つあり、それぞれのボタンがそれぞれの加盟国にある原爆を発射させる機能を持つ。これらを我が手中に収めようというのである。
 

その銀行強盗団のうち少なくとも二人が義肢を使用しているのが見える。一人は義手を使っており、監獄の中で無線機や穴掘りの道具を取り出して組み立てる。また時には金庫室の前で義足を外して中身を取り出し、銃身のパーツをこれまた組み立てていき、マシンガン銃が完成。ここで銀行襲撃が始まるのだが、それにしても相当に重い義肢だったろう。
 

劇中のセリフに出てくる『黄金の七人』は1966年に日本でも上映されたイタリア映画で、銀行強盗を働く一味の活躍を描いている。ルパン三世のようなリーダー格の男がチームを引っ張っていく。峰不二子のような女性もメンバーのひとりであり、しかも裏切る。モンキー・パンチはこれを見て「ルパン三世」の着想を得たのはあまりにも有名な話。
 

もっともこの義肢を使っている人間たちが悪役というのも、非難を浴びせられる理由にもなりかねないが、市川監督もその点はあまり意識しなかったのだろう。本来の目的はこの義肢の数々を映像に収めることを通して、原爆被害者への敬意や慰労を表し、同時に警告の意味を含ませたものとも筆者は考えさせられた。否、使うのは寧ろ我々だとも。
 

ネタバレだが最後に風船も割れる。パンと割れ、それまでデレデレと淡い恋心を抱いていたジージョは茫然自失となる。聞こえるか聞こえないかの爆発音と共に閃光は輪を描き、瞬く間に空を飛び、爆風が襲いかかってくる、そんな現象をはるかむこうの長崎や広島で広めさせられ、両親や兄弟を、そして最愛の人を失う人たちの悲しきまでの姿を彷彿させるだけの力を有する程の重なり方を観る者に提供する。筆者も含めて若い世代にはまず実感しにくいものかもわからないが、この映画は1967年に封切られたもので戦後まだ22年の当時。原爆所持反対運動も始まったばかりか、或いは未だに多かっただろうというこの時期にて尚続くこの反論を綴った訴状。
 

筆者はさほど人形劇に関して知識に長けている訳ではないが、ひとまず一瞥したところ、この類のものは子供たちが人形の動きを見て笑い出すなどから既に客観性で通されているのが一般的だと考えてもいいが、実際この有り得ぬ(?)世界の中では普通の大人が観たら感情移入もしにくいところ。ここは市川崑監督、観客には主観性を一瞬で切り替えさせるようにたった一つのワンシーンを用意した。風船の割れた音で駆けつける時のショットはジージョの低い目線になっているロー・アングル・ショットただ一つ。それまで我々はごく普通に人形劇を観ており、他人事だったようなものをここで一気に当時の観客と日本にとってあるまじき過去を想起させた。
 

映画が観客に支持されるためには、共有感覚が必要であるとされる。どこかで書いたと思うが、どれにせよ、これがなくては大衆レベルで多くの共感を得るのは大いに難しくなるというものだ。そしてここでの観客層にとっての共通点とは被曝関係者であること。その時代をより身近に生きた人達へのメッセージが込められた映画なのだ。更に言えば冒頭で既にメッセージの概要がたったの一言で示されている。その夜、ジージョがうわわぁと、ひっそりとした宵の町の片隅の小さなベッドから飛び起きる。「原子爆弾だ!」