逃亡者 THE FUGITIVE

 

1993年日本公開 監督/アンドリュー・デイビス

出演/ハリソン・フォード、トミー・リー・ジョーンズ

 

キアヌ・リーヴス主演『チェーン・リアクション』(96)では爆発で大きなトラックをも吹き飛ばしたこともあるアンドリュー・デイビス監督『逃亡者』。こちらは電車の脱線事故も相当の名シーンであった。

 

アメリカTVシリーズのリメイク(映画化に際し、設定は同じだが物語はオリジナルという)。1963年に放送開始された同名のドラマで、放送開始以後、全4シリーズが制作されて大ヒット。最高視聴率は最終回の72%。主役リチャード・キンブルはデビッド・ジャンセンという俳優が担当したが、サム・ジェラードはドラマではフィリップ・ジェラードとなっている。これを演じたのがバリー・モースという俳優だった。この俳優は今回の映画でもカメオとして出演していたという話だが、残念ながら公開時にはカットされてしまったという。

 

このオリジナルの元となったのが実際に起こった殺人事件だった。1954年にサミュエル・シェパードという医師の妻が殺された事件であり、犯人として夫である医師が容疑者扱いされてしまうものだった。彼が亡くなってからのちにDNA鑑定が史上初めて採用され、鑑定の結果、犯人は彼ではなかったと判明されたという実に気の毒な事件だったらしい。

 

ストーリーを軽く追いながら気になるところを論じてみるとしよう。のっけからキーパーソンなる者が現れ、片腕の義手をつけているこの男はひとりの女性を殺した。その現場に居合わせた外科医リチャード・キンブル(ハリソン・フォード)がその妻の殺人事件の犯人と誤審され、冤罪を受けた。ところが刑務所に護送される途中に列車事故で脱走、シカゴを逃げおおせながら事件の真相を追究する、いわゆる現実から逃げながら事実を追いかけるというものだ。これはもうとうに観ている人はどんなにか多いだろう。

 

これを連邦保安官ジェラード(トミー・リー・ジョーンズ)が追う。部下をぞろぞろと引き連れてはとにかくこき使いまくる。それでいてその指示は的確だ。動きながら考え、考えながら動く。それを部下にも教えている。早口なら判断力もすこぶる早い。とにかく頭脳明晰。運動を兼ねて階段を小走りに上るタフガイ。髪の毛を黒く染めて変装したキンブルが脱走した後にシカゴに戻って弁護士に電話した時の録音記録が捜査本部に渡り、その場所を突き止めるその耳の良さ。明確に聞き取らなくても、ひとつでもとっかかると再生リピートさせる。この感覚面での敏捷性があまりにも秀逸で、そして執拗な追跡を展開させる。これをトミー・リーは見事に演じてアカデミー賞を受賞するに至る。

 

キンブルはあくまでも片腕の男にこだわる。クック郡病院のなかにある義肢専門工房に潜入し、データを検索する。すでに調べてあった知識を元に条件を絞り込み、最後に検索して出てきた該当人数は5人。そして辿り着いたのがフレデリック・サイクス(アンドレアス・カツラス)という男だった。その自宅に潜入し、部屋を漁ると写真や資料が出てきた。その写真にはサイクスとは別の見覚えのある男が写っていた。冒頭の懇親パーティでも見かけたことがあった。医療機関スキャンダルの匂いをかすかに嗅ぎ取ったキンブル。

 

そもそもキンブルは冒頭でその妻殺しの犯人と格闘しており、既に相手が義手を使うハンディキャッパーであることも確認している。これが彼にとって確かな目撃情報であり、当然犯人も絞り込みやすいものだ。ところが警察側はこれを全く重視しなかったから自分で手がかりを探すしかなかった。全ては義肢。だから彼は専門書をどこかから入手する。

 

サイクスに片腕がないのは恐らくベトナム戦争か何かでの勲章モノ。憶測に過ぎないが、とにかく現在の彼は薬品大手メーカーのデヴリン社警備員という職をもらっている。院内ではもっぱらデヴリン社が新たに開発した新薬の噂でもちきりだった。これはあからさまにではあるが、義手が全てに繋がる映画なのであった。

 

キンブルがダムを飛び降りる直前に「妻を殺してない」とキンブルが主張するも、落としてしまった銃を逆に突きつけられたジェラードは「知ったことか(I don't care!)」と答えた。のちにキンブルがサイクスの家からかけた電話ではジェラードが「事件の謎解きをするつもりはない」と言い、あくまで身柄確保が優先されていた。時すでに病院でキンブルが義肢にこだわっていることを認識していた捜査側だが、少なくとも彼らはキンブルを追うことしか考えていない。そしてキンブルは逆探知をわざと可能にさせる為、電話を切らないまま出ていった。この電話を機に、キンブルは捜査側にデヴリン社を調べるように仕向けたのだった。

 

蛇足だが因みにアイルランドの民話に例えられる箇所が見つけられ、本編の途中で聖パトリック祭の行進が行われている。最も驚くのは川の水が緑に染められているシーンであろう。実際にはここだけではなく、インディアナポリスの運河も緑に染められ、これ以外では多くの地方で行われるパレードの行程ルートとなる車道の実線を緑にいったん塗り替えたり、また噴水の水も同様だという。緑にするのは服装にも及ぶ。食事も緑に統一したり、はたまた緑色のラガービールも出てくる。何もかもが緑一色になる。緑というのはアイルランドのナショナル・カラーなのである。

 

クリント・イーストウッド監督『ミリオンダラー・ベイビー』(05)でも物語上の根本的なモチーフとされていたが、そもそも緑色となったのはシャムロックと呼ばれる三つ葉のクローバーのことである。そしてこの5世紀のアイルランドにカトリック系キリスト教を布教したのが聖人パトリックであり、彼は伝道している時にはいつも片手にこのシャムロックを持っていたといわれている。彼の命日は3月17日で、これが聖パトリック祭の祝日となる。北アイルランドを初め、一部の地方ではこれが公休日という。この日になるとアメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、モスクワなどあちこちで緑に染まっていく祭典というわけだ。

 

また、日本語字幕では表示されていないがレプリコーン(Leprechaun)という妖精の御伽噺が出てくる。このパレードの行進や群衆の中をキンブルが身を隠しながら逃げおおせ、ジェラードたちは彼を見つけることができなかった。常に相手の一歩先を行き、相手を出し抜く頭の良さを例えたものだったのである。この妖精を登場人物に据えた映画にフランシス・フォード・コッポラ監督の『フィニアンの虹』(69)が挙げられる。これはハリウッド・ミュージカル名優のひとりフレッド・アステアの事実上のミュージカル俳優の引退作であった。アイルランドから旅してきたマクロナガン父娘が辿り着いた虹の谷で出逢った村人達との交流を深め、娘は恋に落ち、そこでレプリコーンとも出会うのだ。人種差別のテーマも絡ませ、最後には娘の幸せを村に託し、ひとり草原の彼方へと去って行くフレッド・アステアを見て、よく知る人はすぐに彼のミュージカル引退作とわかるだろう。その後の作品として『タワーリング・インフェルノ』(75)が有名だろう。また、シリーズ『ザッツ・エンタテインメント』(75~94)では彼の数々の名場面も含めてミュージカル集大成として楽しめると思う。コッポラ自身もイタリア系出身のニューヨーカー(?)なので、人種や民族に関してもこだわりが比較的強いせいか、この作品のアイリッシュについても底通するところあっての製作参加とも思う。

 

俳優ハリソン・フォードの父もアイリッシュである。そうした関係もあってかはたまた偶然か、アラン・J・パクラ監督の『デビル』(97)ではアイルランド生まれのニューヨーク警官の役として主演を務めた。彼はIRA(アイルランド共和軍)の特殊工作員であることを隠しながら同じアイルランド出身として知り合うブラッド・ピットと仲良くなるが、素性を知って裏切られるという話だったかしらと思う。

 

奇しくもこの『逃亡者』も『デビル』も、そしてマーティン・スコセッシ監督の『ディパーテッド』(07)も舞台はニューヨークであり、いずれもアイルランド絡みである。ニューヨークもその一つだが、イギリスに支配されていたアイルランドからの移民が頻繁に流入してきた地域としても知られ、そこにはユダヤ系も大勢避難してきた経緯もあった。だから舞台や映画(双方特にミュージカル)では、ナチスをちゃかしたものが案外ヒットするという。1949年にアイルランドが共和国として独立するまでおよそ約700年と言われる。ニール・ジョーダン監督の『マイケル・コリンズ』(97)や『麦の穂を揺らす風』(06)で興味を更に深めてもらえることだろう。ニューヨークで緑を見かけたら思い出してもらうとまた面白いかもしれない。寧ろ常に緑一色だろう。

 

さて、最後にキンブルは身柄を確保されて車に乗せられる。ジェラードは彼の手錠を外し、紳士的にも彼にホッカイロ(?)を与える。「優しいんだな」「まあな」そもそもオトボケが好きなジェラードのことだからこうしたジョークも言える。捜査側における組織の機能面での本質は変わらない。しかし徐々に人間味の出てくる、あるいは男気溢れる味わいがこの流れから感じ取れていく。一方で新入りの部下の耳元で銃声を聞かせるなどするのは上司と呼ぶにはあまりにも過酷だが、報告を受けて最後に「Well done, young man(よくやったぞ、若僧)」と褒めて「My pleasure, sir(どういたしまして)」とちょっとだけ嬉しそうに答える部下。確実に仕事を与え、確実に仕事をこなさせ、確実に部下を労う。まさに理想の上司ではないかという気にさせた。ところが悪く言われている部分もある。スラングに追いつけない上司を「古い」とぼやく部下の陰口が語られるところで案外好まれていない理想とも呼べない上司像。この良し悪しが現実にある上司像というものであり、オジサマで集まる(?)アカデミー賞協会はこの侮辱に共感してしまったのではないか。しかしそうではない。いや或いはそれだけではない。もうひとつオトボケのネタがあった。ロジャーズとは恐らく「ロイ・ロジャーズ」のことではないかと思われた。

 

冒頭での現場に初めて訪れたジェラードが保安官に現場責任者が誰かを尋ねる。ローリンズ(Rawlins or Rollins)と聞き、その場を離れながら「云々」言ってはとぼけ、そこに部下たちが口を揃えて「ローリンズですよ」とツッコミをいれる。ロジャーズ保安官とは一体誰のことか。正直かなり調べてみたがどうやら「ロイ・ロジャーズ」にしかあてはまらないと思われる。そうしてこの台詞こそがジェラードという人物のそもそもの理想像としてのモチーフなのだということがわかってくるのだ。たとえ見当違いでも書いてみる。

 

スター名として与えられたロイ・ロジャーズは、シンギング・カウボーイという西部劇のジャンルを確立させた、彼は元々ウェスタン歌手の役者なので、エンディングではいつも自分で唄って終わるという。1930年代から1940年代にわたって流行したこのジャンルは全米の少年の憧れを一気に集め、憧れの西部劇スターとしていまだヒーローとしてアメリカ映画史を象徴し続けている。1935年にはやがて映画にもデビュー、その3年後に同じく西部劇シンギング・カウボーイのジーン・オートリーにここで初めて命名され、従来のレナード・スライから継いでロイ・ロジャーズへと新たに誕生した。以後、数々の映画に出演、100話以上のテレビシリーズ「 The Roy Rogers Show 」で愛馬トリガー、番犬シェパードのブリット、また彼の仲間にジープを運転して回るパット・ブラディ、西部の女王デイル・エヴァンスとお決まりのメンバーが揃う。筆者が現時点で確認できたのはさすがに古いものなので資料素材も少ないが、30分枠ドラマの3エピソードでそのうち「大切な駿馬(Horse Crazy)」ではロジャーズのキャラクターを、銃を向けていた男と親友になる、或いは捕まえたら親しげに振舞う男として描かれていたことがわかる。これぞまさにジェラードそのものなのである。保安官という肩書きがいつ付いたのか今のところわからず、しかし設定はある意味ムチャクチャ、ストーリーは幾分雑だったらしいが、それはそれで古いんだから。カッコよければ話は何でもいいというB級西部劇の伝統が形成され、こうして完成されていったヒーローの象徴への憧れが多くの子供達に植えつけられていき、彼と共に生きてきた世代によってアカデミー賞受賞投票に回っていったのではないかと考えていいと思う。前述のようなキャラクターを微細に演技づけ、更に『ロイ・ロジャーズ』に憧れたことのあるジェラードという人物として示す手段として用意された、さり気ないジョークのひと言で巧く仄めかし、キャラクター設定を完成させた。即ち今でいう(?)団塊世代・イン・アメリカの感情移入や共感の潤滑油的促進剤としての役割を大いに果たした台詞だったのだ。その一言が「はーいはい、ロジャーズ保安官(Sheriff Rogers)ね」だった。知らない世代への訂正ツッコミだった。ではローリンズとはいったい誰か。Rollin, Rollin,Rollin,…と口ずさむフランキー・レインによる有名な主題歌はかつて日本でも放送されていた西部劇ドラマ「ハイロード」(59~66)、主演はご存じクリント・イーストウッド。部下たちは彼の名前を間違えて覚えていたという冗句だったのかも知れない、ただそれだけのことかも知れなかったのだ。