アメリカン・グラフィティ

 

1974年日本公開 監督/ジョージ・ルーカス

出演/リチャード・ドレイファス、ロン・ハワード

 

1944年にサンフランシスコのモデストで生まれたジョージ・ルーカスはいつしか車に魅了され、15歳になって初めて車を持ってから自分の人生に目覚める。この時には競争心をも学んだようだ。また既にチキン・レースが大流行で、映画ではジェームズ・ディーンの『理由なき反抗』(56)でもそのシーンが有名であり、同時にクルマにはとにかくハマるルーカス。

 

しかし1959年の高校3年生の時に愛車フィアットを全損にしてしまうほどの交通事故を起こしてしまい、リハビリに努めつつカーレーサーへの夢を断念したエピソードはいまや有名な話だ。ろくに勉強もしなかったため、比較的入り易かったという南カリフォルニア大学映画学科に入学、数々のフィルムを制作していくことから映画人生がスタートするルーカスだった。

 

学生映画祭などで数々の賞を貰い、ワーナーの奨学金制度の試験に最後まで残って合格、そのスタジオに研修するなどしている際にルーカスはここで初めてフランシス・フォード・コッポラと出会う。この時期のコッポラは『フィニアンの虹』(69)の製作にかかっている最中で、その折にルーカスからたまたま『THX‐1138』(71、日本未公開)のプロットも聞き、これをワーナーへ売り込むための企画計画のうちに入れることにしていた。

 

そうした流れがあった中、ルーカスとコッポラの間には性格上の支障が空気中に次第に溶け込まれていき、ルーカスはいつしかこれに気づいて徐々に彼からの距離を作っていったのだった。

 

その間、学生時代には彼も反対していたベトナム戦争を題材にした『地獄の黙示録』(80)や「指輪物語」を題材にした企画について試行錯誤してばかりの紆余曲折の傍らで、ルーカスは過去の交通事故に遭うまでの学生時代をベースにしたシナリオを書き上げた。それが1950年代から1960年代を背景にした、田舎風な町での学生たちの青春劇『アメリカン・グラフィティ』であった。

 

今作もコッポラがプロデュースを務めているが、ユニヴァーサルの若い重役だったネッド・タネンという人がコッポラに声をかけ、以前から囁かれていた不仲説がいつの間にか一度は落ち着くきっかけになったようである(しかしその『地獄の黙示録』製作がいよいよ動き出す時になって二人の不仲はぶり返されてしまう)。

 

高校を卒業したばかりの学生たちがこれから卒業パーティーに向かおうとしている。ボールルームでのダンス・パーティー会場やその裏の駐車場、待ち合わせが続くハンバーガー・スタンド、ネオンサインが遥か向こうまで連なって煌き続けている街並、様々な名車が道行く女性たちに声をかけている。まるで若さに溢れる人波で街の活気が夜中まで保たれているようだ。

 

カート(リチャード・ドレイファス)は翌朝には朝一番の飛行機で東部に出て行く予定はとうに決まってはいるのだが、どこか釈然としないで迷っている。スティーブ(ロン・ハワード)はカートの妹であるローリー(シンディ・ウィリアムズ)と恋仲だが同様に東部に行くことをためらっている。テリー(チャーリー・マーチン・スミス)はスティーブから愛車シボレーを借りて女の子をナンパに出かける。ジョン・ミルナー(ポール・ルマット)は彼らよりも年上だが、長年の付き合いがあり、ここを出て行く彼らとは最後の集まりになる。ジョンはいわゆるドラッグ・レース(ゼロヨンみたいなもの)のチャンプでもあり、今回も勝負を申し込まれるのだった。その相手はボブ・ファルファ(ハリソン・フォード)だった。

 

せっかくドライブ・インに集まった割にはすぐ解散して自由行動、テリーはデビー(キャンディ・クラーク)に同乗させることに成功するがやがていろんなことが二人に起こる。スティーブとローリーは離れるのが嫌だが別れるか否かの決断を迫られていたが、ボールルームでのチークを終えてから破局の方向へ向かってしまう。ジョンはいざナンパしてみたら、ちょっと困った女の子を同乗させる羽目になる。カートは白のサンダーバードで流しているブロンドの女性をみかけて一目惚れ、しかしはぐれてしまい、一晩ずっと彼女を探すことになる。やがてそれは叶わぬ恋とカートが思い知ったのは夜明けももう目の前という時だった。

 

舞台背景として1962年の彼らの高校を卒業した後の出来事がつらつらと描かれている。アメリカを知る上で大きな部分で位置付けられる映画であり、観方を変えれば日本人でも共感しうる映画でもある。学生時代は免許も取れる年頃でもあり、ひとたび車が入ればナンパし放題のデート必携アイテム。そこにオプションとしてカーラジオ。筆者はなぜかまるで聞いたことがなかった「オールナイト・ニッポン」もかなりの若者たちが聴いていたのだろうか。それ以前に1960年代(或いは封切当時の1970年代)の日本におけるクルマ情勢とは果たしてどんなものだったのだろうか。舞台は1962年となっているが、同年のレコード大賞は橋幸夫と吉永小百合の「いつでも夢を」が受賞、デュエットや演歌がかかったまんまナンパでもしてたら凄いよな、という…。

 

高校を卒業した時に必ずでてくる質問は「みんなこの後どうする?」であり、人それぞれの進路をお互いが確認し合う情報交換が恒例の行事にも思えれば、その反面それが確認できず何ごともなかったようにそこを卒業しておしまいで、といったような学生も出てくるかもで、人それぞれのドラマは結局何だっていい。今作はたまたまルーカスが出会ってきた仲間たちを参考に他のシナリオ・ライター達と一緒にキャラを創出し、性格づけを行っていく作業を経ていっただけだ。そしてこれは誰もが行う作業工程であり、或いは着想点でもある。そこに大衆的な共感が生まれればいいだけの話なのである。

 

簡単なようだが、でも幾つか違うような点がある。まず全編をオールデイズ・ロック・ソングで通してしまうこと。まず映画史にとって初めての試みであったかもしれないし、実際に元々はエルヴィス・プレスリーの候補曲も沢山あったが全て省かれたという。ビーチ・ボーイズ、プラターズ、チャック・ベリー、その他色々、全部で41曲が本編に挿入されたという。これら名曲の使用料は約9万ドルと見積もられたほど。クルマもやはり名車なるカスタム・カーが勢揃い、サンダーバード、フォード、シボレー、目立たないがシトロエンなどが相次いで登場、当時の流行に満たされた時代を象徴している。

 

そんな時代下にあった若者たちがクルマを乗りこなし、ツッパって、遊びや踊りに明け暮れて(カウボーイ・ハットを被ったハリソン・フォードも紛れ込んでいる、あれだけかと思ったがそれにしても少し出ているだけで皆喜んでチェックする)、泣いて笑ってケンカして時を過ごす。そんな経験はアメリカ大陸のどこにでもあることであり、クルマやナンパなどといった行為はカルチャーの違いはあってもアメリカのみならず、やはり日本でも輸入され当然のように流行してきた。クルマの室内は二人が乗れば、その空間は二人だけのものとなり、フロントガラスの前の風景では色んなものが見え隠れ、パノラマの如く広がりを見せてはどこかが話題のタネになり、時にはその美しさに陶酔する。フロントガラスは世界のビューファインダーといったところか。そしてこれは世界共通の常識となり、ルーカスはこの若者世代が必ずスルーする通過儀礼を何らかの圧力から切り抜けるようにして踏ん張って乗り越えていくさまを描こうとした。傍からは些細な決断のようだが、本人にとっては新しい世界に飛び込むにはかなりの勇気が要ったことを示し、クルマのみならず住み慣れた町からの離脱もひとつの通過儀礼として描かれ、これを旅立ちとして強い支持が得られたようだ。この当然のように従わねばならないようなルールにも近い人生の鉄則はクルマが存在する限り、今後も続いていくと断言してもいいだろう。

 

これはジョージ・ルーカスが機械的地下世界からの脱却を試み、地上という新たな世界から強い生気を感じる太陽光の歓迎を受ける『THX‐1138』、『アメリカン・グラフィティ』、そして大ヒットどころか社会現象発生にまで及んだ『スター・ウォーズ』(78)のルーク・スカイウォーカーの砂漠の惑星からの脱却を経て成長する姿を追うところにも表れている。

 

またたぶん、ということで憶測に過ぎないが、このプロデュースの後押しを手伝ったユニヴァーサルの重役だったネッド・タネンはこの作品の試写を観てどういうわけか、えらく激怒していたというのだ。それを聞いたルーカスは愕然としたが、いくら編集を重ねても観客の支持は一向に下がる気配がなく、寧ろ大盛り上がりになる一方なのにタネンは多くのシーンのカットを要請し続けた。周囲は彼の思惑に疑問を感じずにはおれず、ましてルーカスとは多少微妙な距離を置いていたコッポラもこの反応にはさすがに憤慨し、ならば自分がこのフィルムを買おうかと申し出てきたほどだという。その喧騒は長く続き全米公開も危ぶまれていた。ルーカスやコッポラたちのさらなる交渉でようやくプレミア上映なるものが行われ、徐々に全米公開にシフトしていき、封切当時の興行収入ベスト3にも入るほどになった。この時のタネンの名前はシリーズ『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85~)の不良ビフ・タネンと苗字が同じであるが、その理由はついに明確にはされなかった。当時その場に居合わせていなかったスティーブン・スピルバーグはこの出来事はその時期で聞いてきた話の中では最もいい話だと明言している。ということは例外があっても仕方がない話ということにはなるが、ルーカス自身もどちらかというと女性に対してはそれほどの固執心を抱いているわけでもなかったというから、ステディとしてはまずまずのスタンスにあったのかと考えれば、この映画が出来たという偉人伝には些細な不思議も伴われるのであった。

 

この作品の続編も1980年に日本でも上映された。『アメリカン・グラフィティ2』、一人ずつ同級生たちがベトナム戦争、反戦運動と仲間から離れて行く。無論、ポップ・ミュージックも満載、ルーカスのプロデュースだ。