激突!

 

1973年日本公開 監督/スティーブン・スピルバーグ

出演/デニス・ウィーバー

 

スピルバーグがこれを監督するまでの間、いくつかのテレビドラマは撮っていた。そのうち一本が「刑事コロンボ/構想の死角」(71)であり、彼にとっての第一回監督作品とまで言われている(実際はそうではない)。基本、テレビドラマでは顔のクローズアップで撮ることが多いが、彼の場合はそうではなく、それはあたかも部屋の隅にカメラを置いて部屋全体をファインダー枠に入れながら人間の動きや会話をそのまま全身的に捉えるものだった。これが新たな手法とされたという。その後、今度はこれをやってみようと原作が彼の元に舞い込んできた。それがこの『激突!』だった。掲載されていたのは「プレイボーイ」誌、著者はリチャード・マシスン、本作でも脚本を兼ねている。彼はジョン・F・ケネディ大統領が暗殺されたその日にその知らせを聞き、一緒にやっていた友人とのゴルフを終了まで行かずにトホホと切り上げて、帰途上の車中でタンカー・トラックに煽られたことから着想を得たという。意外に身近にあるものなのだ。

 

やがてこれがスピルバーグの目に止まり、かようにテレビドラマ化された。この緊迫感に溢れた面白さが評判を呼び、劇場版として今度は映画館にかかるようになった。それは日本で公開され(正確には多分アメリカではテレビ放送、日本では劇場公開だと思う)、これまた話題を席巻する。そうして日本ではスピルバーグの次作を勝手に(?)続編扱いにして『続・激突! カージャック』(74)と銘打った。なんと初作に出てきたようなタンク・ローリーが全然絡まないではないか。この劇場版監督第一作では一台の車を追うパトカー行列が見モノの焦点となるが、これはジョン・ランディス監督の『ブルース・ブラザース』(81)でも模倣されたようだ。スピルバーグ自身もゲスト出演している。

 

映画監督の人生を紐解いていけばいくほど、その人生の節々が映画一本ごとに反映されていることがわかることがよくあるし、実際スピルバーグもその一人である。世間の感情が最も振れ幅を大きくして揺り動かされた時代は1960年代後半から80年代。90年代にもなるとCG技術が発達してき、ただただ技術の進化のみを多大にアピールするのみに留められ、ストーリーは次第にありきたり化され(鑑賞本数が比較的少ない人はここまでなかなか考えないが)、世界に名を知らしめた往年のハリウッド・スターたちは製作側に回ることも多くなり、或いはバックアップ側に回る一方で、作品の出来としてはその人物特有のカラーが殊更浮き出てくるような印象が薄いままに終わり、その人物特有の派手さに欠けることも多くなってきたような印象もある(もちろんそうとも限らない例も多くある)。つまり監督の人生が垣間見える映画が少なくなり、国内に限ってもこのネームバリューや話題沸騰力(?)の底上げを実現させるだけの努力が映画会社から伝わらなくなっている感がある。これは映画会社をはじめとするメディア側の責任となるのかも分からない。そうでなければそれは量的な問題なだけかもしれない。だから努力云々の問題でもないわけで。しかしそう思うかというその時に、2007年以降、かつてのハリウッドが生んだヒーロー達のめざましい復活が続々と頻発してきた。インディアナ・ジョーンズ(ハリソン・フォード)、ジョン・ランボーやロッキー・バルボア(シルベスター・スタローン)、ジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)、そして今度はマックス・ロカタンスキー(メル・ギブソン)が復活か?(そういう噂もあったかな)、そうなるとしてもこうした全盛的ハリウッド復活現象もいずれは立ち消えとなり、この追随を今の世代に再び盛り返してもらいたいものと思って早10年。責任云々の問題ではないのだ。時代が誤解させて責任追及という間違ったベクトルに導いているだけなのだ。

 

追記すると、しかもである。アメリカン・コミック・ヒーローを主人公に据えた、否、寧ろアメリカン・コミック・ヒーローそのまんまの映画が台頭してきて久しい時代に来た。恐らく『スパイダーマン』(02)が最初に流行を作ったのではないか。そして『X‐MEN』(00)がそのあとを追う格好となった流行的感慨が筆者自身の過去に追求することができる昨今である。こちらは順番が前後しているが、後者は孤児院のミュータントたちという設定の暗さが目立つためにファンをゲットしにくい要素があったような印象が筆者にはあるからである。それでもシリーズ化は今も相次いでおり、アダマンチウム開発の主犯格たるナチスの存在をどうしても表現できない(それともただの真似)謎が筆者には興味深い。片や前者はトビー・マクガイア主演とあって同時に毒蜘蛛による人体の突然変異を患いながらも青春と正義を右往左往しながら全うするという語り口が人気を呼んだといえる。

 

さて、こうした極論なる一方で日本映画は連続ドラマの映画化などを頻繁に立ち上げてきており、それというのも連ドラに限らず、まずテレビ露出の具合、またネット小説、ケータイ小説など若年層が好むとするメディアを通しての知名度によって初めてその映画における話題性の持続力が映画のヒットを保証している現状に近いという(最も無問題かつ継続も保証されたような保険がかかっているのはポケモンやワンピース、ドラえもんなどのアニメ映画だが、客層の違いから観察点は大いに異なる)。即ち興味の根源が全く異なる位置からヒットの要素がやってくる。例えばそのために邦画の上映比率が洋画に対して上回っている時期もあったから、アメリカ映画がまるで盛り上がらないような印象。また或いは2001年におきた9・11事件の影響から大作映画製作自粛が進められたこともあったろう。皮肉にもネット配信の技術進歩に起因する、2007年秋から始まったメジャー映画会社に対する全米脚本家組合によるストが実行され、連ドラ、映画の製作が大幅に遅れたりと一時期的な遅延現象も見られたこともあろうが(ついこの間もストが敢行された)、これでは大いに仕方がない。ここではそうした事象を主題に取り上げるつもりはないのでかなり大雑把なことしか述べられないが、いずれにせよ国内での洋画の盛り上がりが強いという印象が以前ほどには感じられなくなったのが全体的に残念である。或いはこういう言い方も可能だろうか。映画は既に恵まれた時期を通り過ぎた。どのみち、前段の結論に同じく帰結してしまう(なお、現時点に至っては少しでも復旧のめどは立つが、有事の種類としては些か小規模かつ断続的であるなかで、かつ政治面での変遷に囲まれたような形で今の日本はある。そしてそれはどこかマンネリ化しているか、しつつあるか)。

 

…そういう意味でも筆者にとって70年代や80年代は実に羨ましい限りだ。もっとも、もっと多くの様々な角度から情報を集め、果たしてかように羨ましいだけかどうか穿ってみなければならないという反論もあると思うが、これ以上の野暮は敢えて遠慮しよう。

 

さてスピルバーグの人生だが、彼の父親がかつて第二次世界大戦では爆撃機の無線士を務めていたこともあって、スピルバーグは父親からその時のことを山のように聞かされて育ってきたという。また家を転々と引っ越していたこともあって友達は簡単には作れず、更に悪いことに彼はいじめられっ子でもあった。またユダヤ系である彼の家庭ではハヌカ祭を開催したりしていた一方でクリスマスの時期になっても自宅にイルミネーションを飾りつけることがなかったという。周りは点々と豆電球を家中に飾り付けているのにウチではそんなことはなく、そのうちスピルバーグは他と同じになりたいという願望が強くなったという。

 

そこにディズニーアニメーション『ピノキオ』(40、日本では52年に公開)を観てスピルバーグは共感した。ゼペットじいさんが満天の空に煌く星に願いをかけた。出来上がったデク人形がホンモノの子供になりますようにという、現実にムチャな願いが最後には叶うのだ。スピルバーグの中にかつて内在していた疎外感は従って、『未知との遭遇』(78)や『A.I.』(01)などでもそれなりに表れている。

 

一方、スピルバーグは第二次世界大戦などにもこだわる。父親の経験話で耳にタコができ、その矢先でデビッド・リーン監督の『戦場にかける橋』(57)を観てリーン監督のファンになり、ビルマやインドなどジャングルな背景をそのまま『インディ・ジョーンズ』シリーズ(81~)に反映させているに近いと考えたことを筆者は特別疑問視する気がしない(実際のところではインド・ロケは叶わなかったらしい)。他にはもちろん『シンドラーのリスト』(93)、真珠湾攻撃のパロディ映画『1941』(79、サンタクロースを幾度も茶化していることからどうやら本当にクリスマスが嫌いなのかしら)、いじめという現実から逃れるために飛行機や宇宙船にこだわって『オールウェイズ』(90)、『未知との遭遇』、テレビでは『TAKEN』(02)、いじめられてきた割には相手を怖がらせるいたずらが大好き、『インディ・ジョーンズ』シリーズ(初作の公開時には残酷描写などで日本では比較的冷たくもされたという)、『ジョーズ』(75、ちぎられた足が海底にポトンと)、『ミュンヘン』(06、目出し帽の男に刃物が突き刺さる)、『プライベート・ライアン』(98)では冒頭の戦場シーンでの徹底されたリアリズムで観る者を驚かせた。

 

彼が父親になった時期には、彼の両親が決して仲睦まじくなかったことから理想の父親像を求めて『オールウェイズ』(正確には夫が死んでもなお途切れることなき夫婦愛に理想を、さらにそこからくる理想の夫(父親)を自己に追求したか)や『フック』(91)、『ジュラシック・パーク』(93)に求めていたという説もあり、筆者も或いは理想の家族像を『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(02)にも求めてはいないだろうかとさえ考えもした。一人の社会人として、或いは一人の大人として成長を見せたかのように思われたスピルバーグだが、それ以前の彼はあたかも子供らしさを孕んでいたかのように『未知との遭遇』の主人公ロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファス)に『ピノキオ』などにこだわってはアレが飛んでったぞとジェスチャーしたり、ラストには自己中にも自ら進んで拉致対象になる(?)その一方で、『E.T.』(82)のエリオット少年はあのE.T.との別れを告げて(観客と共に)別れを学ぶ成長を見せた。ただ単に同じ話じゃねえかといういちゃもんを避けただけとも取れるが、このほんのちょっとした些細などんでん返しで、スピルバーグの人生観の進路変更が裏づけられない訳でもない。

 

家族像や父親像といえば母親像ないし母性はというと、意外にも製作総指揮面で表れている気がする。『ポルターガイスト』(82)について、これはテレビ時代の『ヘキサゴン』(71、前述したが正確にはこれが最初の監督作か)の仕切り直しと言われているが、心霊現象にさらわれた幼い娘とその母親の絆の強さを暗に示し、『インナースペース』(87)では主人公(デニス・クエイド)の恋人の体内に胎児がいることを見つけることから母性を見出した感がある(同時に父親になることを喜ぶ主人公の姿から理想の父親像をも見出せる)。『ニューヨーク東8番街』(87)でも立ち退きを余儀なくされつつある(『続ラブ・バッグ』(74)でも同じ建物、よほど有名なんだな)マンション住人の一人に妊婦がおり、その女性の目の前でどこからか飛んで来た小さなロボットが三兄弟を作り出す。『続・激突!~』では妻(ゴールディ・ホーン)が夫(ウィリアム・アザートン)をいとも簡単に脱獄させてしまうなど若干ムチャクチャなコメディだが、この強引さが滑稽な母親像として活かされているのも分かる気がする。

 

彼は幼少時に「サバービア」という、いわゆる郊外住宅地に住んでいた。一本の道に沿って立ち並ぶ、同じように見える外観の家屋、眼前には広めの庭が敷かれ、今の東京で言うならば稲城や多摩ニュータウンみたいなものだ(行ったことはないし、どこからどこまでがそうなのかよくは知らないが、とにかく郊外(suburb or suburbia)であることに着目したい)。第二次世界大戦終戦後にG.I.Bill(復員援護法)なるものが採用され、兵として帰ってきた民間には参戦お疲れさんということで当時の高校生には大学へそのまま何の条件もなく入学させてあげたり、家族持ちには新居のローンを援助するなどの方針を合衆国は施した。クリント・イーストウッドもこれを利用したことがあるという。

 

ところが余りにも同じ形をした建物ばかりで、隣人との関係も疎遠になりがちで、個性がなくされるためか退屈な印象しかもたらされなかった。こんな家いらんやろ(?)とばかりに『1941』ではラストでネッド・ビーティが家を崖から落とし、『マネーピット』(86)ではトム・ハンクスが新居を購入して喜ぶもつかの間、ガタガタとトラブルだらけ。更に『ポルターガイスト』では最後に家屋がブラック・ホール(?)に吸い込まれていった。スピルバーグが創立者の一人と数えられるドリームワークスの製作を後押しされた『アメリカン・ビューティー』(00)でもサバービアの退屈かつ個性喪失、そして自堕落な生活空間を浮き彫りにした傑作として高く評価された(このサバービアを知っておけばこの作品、人間ドラマがいかに面白いかがよくよくわかる)。更に同じくドリームワークスの『ディスタービア』(07)もサバービアが舞台、自宅謹慎になった学生(シャイア・ラブーフ)が退屈凌ぎに近隣の覗き見を始めるヒッチコック名作『裏窓』(55)をベースにしたスリル溢れた作品。原題の『disturbia』はdisturb(邪魔する)にsuburbia(郊外)を重ねた造語のようにも見えてくる。遡るに『未知との遭遇』でも『E.T.』でも、そして何と言ったって、『激突!』でも舞台はこのサバービアから始まるのだ。それだけこのサバービアはアメリカ人にとって実に疎ましい環境だったようなのである。ちなみにもうひとつ仮説とも言うべきなのか、この地域はいわゆるWASPが流行的かつ集中的に移動してきたからともいわれ、何しろ彼らは白人至上主義なのだ。いずれにせよ、住んでみた結果、あまり宜しくはなかったということが明白ではあった。

 

(やっとこさ)そのガレージからバックして道路に出て(シャッターは閉めないでそのまま?)出勤するサラリーマン、デイビッド・マン(デニス・ウィーバー)。郊外から通勤してそのまま直行でもするのか、都心を通り過ぎてはそのまままた郊外、更には州外に出て行くようである。フリーウェイを延々と走り抜け、ラジオはうにゃうにゃ喋りながらガーピー言っている。やがて砂漠にまで出てきたらしい。目の前のタンク・ローリーを追い越して通過したら、その直後から嫌がらせが頻繁に続いた。出勤早々にマンはろくでもない目に遭うのだ。

 

DVDの特典映像でも触れていたことだが、スピルバーグ特有の子供心がこの作品には全くないという解釈はありえない。最後には(多くがご存知のように)トラックは車体もろとも崖から落ち、全ては解決を見た。そこで恐怖やパニックから解放されたマンは、紳士というオブラートからさも抜け出したように崖淵を跳ね飛びながら狂喜乱舞するのだ。それまでの彼は全てからの圧力に取り囲まれたままであった。サラリーマンならではの圧力、妻と喧嘩したばかりの後味の悪さからくるストレス、このストレスの全てがあのタンク・ローリー一台に集約されていることになり、このスピードを伴った圧力は日がな一日イヤでも続けさせられてしまうのだ。「サラリーマンの哀歌」と揶揄されていた説もあったが成程なのである。ふと全てが終わってみれば、みなされるべき紳士性は見事に消失していき、抑制から脱皮、タガが外れたように跳ぶ。そして彼の眼前には夕陽が佇む。

 

スピルバーグの映画フィルモグラフィーからこうして見ていくと、スピルバーグ監督人生はかなり(多少は雑把でも)分かりやすくなるし、面白いと思う。同時に筆者はもうひとつのことを見出したのだが、実際にスピルバーグ自身がそうした概念を持っているのかどうかは定かではない。被害者的立場から見た、いじめっ子といじめられっ子の関係である。

 

この映画の構図はあくまで18輪トレーラードライバーとサラリーマンの二人舞台で通している。だからサラリーマンが他の人間たちに助けを求めても相手にされないことをトレーラードライバーは充分に熟知しており、常に優位に立っている。案外世渡り上手なようで、エンストで止まったスクールバスをも助けてしまっている。どんなに相手が悪者だと叫んでも信じてもらえず、尚更優位に立てなくなったサラリーマン。この優位性がサラリーマンを不利の、更に一層深い底に陥れており、それはやがて恐怖に変わっていく。まして外観に至ってはボロクソにススこけた車体がいかにも邪悪な様相を呈し、何がぶつかってきても相手が倒されて踏み潰されて絶対負けてしまう強靭なボディ、とにもかくにも何もかもに有利なトレーラー車種だ。そしてどういうわけかスピード加速にも強い。ただでさえ上り坂も多いのに。

 

ドライバーは絶対に顔を見せない。実際のドライバーは『ブリット』でもスタント・コーディネーターを務めたケアリー・ロフティンだが、この視認性の不確かさこそ無敵さを彷彿とさせ、夥しいまでの恐怖感を漂わせる鉄面皮がいとも簡単に踏み潰れてしまうほどのか弱きセダン車一台には、これでもかこれでもかと攻めていく。

 

いじめには理由のある場合とない場合とがある。この映画の場合は単にセダン車がさりげなく追い越しただけだから、まるで理由になっていない印象が強く、相手が悪かっただけだと括りようもある。若いうちに早くも『アルマゲドン』(98)などで脚本を務め、初めての監督作品である『m ᛬ i ᛬ III』(06)やテレビシリーズ『LOST』(04)などで目覚しい活躍を遂げたJ・J・エイブラムス(旧 : ジェフリー・エイブラムス)が脚本・製作を務めてリメイクになったような(?)『ロードキラー』(01)では、兄弟フラー(スティーブ・ザーン)とルイス(ポール・ウォーカー)の悪ノリで無線相手のトラッカーを怒らせていたので一応理由にはなっている。ところがこれもまた相手が悪かった、という作品である。それにしても観た後に「結局、お前らが悪いんじゃん」という、助けてあげたい気にすらなれない後味が残るのでは鑑賞料金に対しても疑問が残ってしまうだけなのだった。それでも両作に共通しているのは理由はどうあれこれらトラッカーの性格の根底に猟奇的な要素があることであり、このリメイク(扱いされている)作品ではそれを確実に踏襲している。その上今度の彼(?)はちゃんと喋る。そうは言ってもそもそもの責任を擦り合う兄弟喧嘩のシーンが一切ないのが現実味に欠けていてつまらない結果になった。

 

そういうわけで、この鉄面皮という表面からいじめっ子のありのままが映し出された気がするのでこうした対立関係が筆者には思いつかれたのだった。スピルバーグ自身がかつていじめられっ子だったらしいということも踏まえて考えれば自ずとこうなってしまう。また、デイブはレストランにいる時でさえそこに顔の分からぬドライバーがいると思ってずっと疑心暗鬼になりっぱなしで、食事すら喉を通らずに被害妄想に陥っている。いつかまたやられるのではと安心できなくなっている。間違いなくいじめられっ子の心境に近いということになる。そこにカメラアングルが活かされているのだ。

 

そして最後には相手に打ち勝ったことは誰も目撃していない、この孤軍奮闘のやるかたなさはいつも以上に爽快であり、そして虚しくもある。これまでのサラリーマン人生の中で最も白熱した長い一日であり、その事件は朝から夕方までの勤務時間帯に見事に重なるのだ。全てのプレッシャーの渦中に常にあるのがサラリーマンという偶像となる。

 

追記するに、続編にあたる『続・激突!~』は子供を取り返すために夫を刑務所から無理矢理(あっけなく)脱獄させては老人達の乗る車に同乗して最後には引ったくる、母性からくる強引さで振り回される夫と振り回す妻のライトなコメディに溢れたロード・ムービーである。あんな簡単な脱獄があるか的突っ込みも可能だが、この当時大流行だったアメリカン・ニュー・シネマ作品とは似ているようで実は全く関係が無いと思っていた。政府や警察という権力組織に対する風刺や皮肉をクルマで代弁させた映画は何しろ五万と作られた時期にあって、無論そのうちそんな流行は廃れていくのだが、そうなる前に、或いはその流行の渦中に堂々と警察を特別嫌う気がないということをここでは明確に示している映画でもある(それでも充分に警察を振り回した)。これはベン・ジョンソン演じる保安官の存在ありきであり、彼は夫婦の事情を察して共感を覚え、最後まで見守るという姿勢をとった。実際どんなにカー・チェイスやクラッシュがあったとしても、汚職まみれになっていた組織の中にも時には良い人もいるというメッセージを込めんが為に作られたような映画だと考えられてもいる。最後まで警察をおちょくる。この映画はおちょくらない。この違いだけでも充分なのだが、あくまで権力組織への対抗意識を以って首尾一貫しうる作品こそが事実上のそれであり、警察組織を翻弄しながらも自らを以って笑いを与える映画は、その線から一歩下がった位置にいることになる。

 

1969年5月、テキサス州で実際に起きた実話。スピルバーグはこの新聞記事を見つけ、早速動いたという。親戚に引き取られた息子を取り戻すために、服役中だった夫を無理やり脱獄させてカージャック。息子のいるシュガーランドへ向かう母親の道中を描いたもの。

 

 

続・激突! カージャック

 

1974年日本公開 監督/スティーブン・スピルバーグ

出演/ゴールディ・ホーン、ベン・ジョンソン