スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐

 

2005年日本公開 監督/ジョージ・ルーカス

出演/ユアン・マクレガー、ヘイデン・クリステンセン

 

1977年に全米で初公開、日本では翌年に初めて封切られた『スター・ウォーズ』は世界のあちこちで瞬く間に社会現象を巻き起こした起源、すなわち台風の目になった。以後は『帝国の逆襲』(80)、『ジェダイの復讐』(83)と三部作を完成、一時は全ての戦いの物語は終焉を迎えた。

 

筆者は『ジェダイの復讐』でギリギリ時代に追いついた。高速スピードの滑らかさ、空間の碧さに酔いしれながら緑の環境保護を意識したわけでもなさそうで緑の美しさもあいまって、全てがリチャード・エドランド、ケン・ラルストン、デニス・ミューレンらの手によって紡がれた、自由を得るための美しき地獄絵図を堪能した当時。そうして時を経て21世紀直前の1999年に『エピソード1(以下、各エピソードを『1』、『2』、『3』と略す)』がお披露目となる。グンガン人のジャージャー・ビンクスのキャラがキモいとファンから苦情が殺到したことでも有名で、ここから一体全体どんなお話が始まるのか。このアナキン・スカイウォーカーがいかにしてダース・ベイダーになったのか、という物語は筆者にとって最初の印象はどうでも、全ての映画の中の人間性に本格的に目覚めていく現象を体内に引き起こした。これは『2』以降のヘイデン・クリステンセンが新人であったことが充分効果的に作用したということだろうか。

 

幼少時のアナキン・スカイウォーカーにジェイク・ロイド、青年(ジェダイのパダワン)時代にヘイデン・クリステンセンが起用された。

 

よく言われたところでは新人俳優の演技は下手でしょうがないと。しかしそれは誰もがそうで、そのうちマシな成長を果たしてくるだろうからそこに期待するか、当人がガックシ挫折するか。それはあくまでも先の話であり、我々の予測すべきところではないだろうし、実際に筆者はそれほど気にならない。それよりも、そもそもアナキンというキャラクターの性格は、寧ろ誰よりも優れた才能ゆえに傲慢で、わがまま、駄々っ子、要するに弱点として感情のコントロールが効かない。感情の振れ幅が大きい。このような大人げもないような性格づけに対して様々な賛否両論が渦巻いたが、ジョージ・ルーカスはこれでいいという。これでなければダース・ベイダーは成り立たないということだろうか。

 

ジェダイ騎士のひとりクワイ・ガン・ジン(リーアム・ニーソン)に見初められた幼少時のアナキン(ジェイク・ロイド)は評議会に呼ばれる。母親に会えなくなることが怖いかと。それは転じて不安となる。不安は自分を窮地に追い込ませてしまい、誰もが信用できなくなる。信じるのは自分だけであり、同時に自分の才能だけになる。オビ・ワン・ケノービ(ユアン・マクレガー)の下で修行を積んで十年、パドメの警護を務める青年期のアナキン(ヘイデン・クリステンセン)は故郷、砂漠の惑星タトーウィンに戻って母親のシミ(ペルニラ・アウグスト)に再会しようとするも蛮族タスケン・レイダーズに命を奪われてしまう。最愛の母の命を奪われたゆえの憎しみ。その憎しみは倍増して怒りへと変貌を遂げ、無残にもタスケン・レイダーズの女子供の命までをも奪い去る。

 

ジョージ・ルーカスはこれをアナキンの贖罪の物語という。やがて成長したアナキンは自分の才能があまりにも秀でているために傲慢になり、出世欲をも露わにやる気盛んだったその折になかなか評議会から認められずにイライラ、とにかく若い、駄々っ子過ぎ、そこを陰謀を企てていた皇帝パルパティーン(イアン・マクダーミット)に付け込まれ、ジェダイの騎士特有の正夢をも利用された。予知夢である。

 

再会以来、アナキンの救いとなったのがパドメ・アミダラ(ナタリー・ポートマン)の存在であった。砂漠での母親の愛をも奪われたとあっては、自分が包容されるべき愛と呼ばれる拠り所はどこにもなくなる矢先であった。皇帝がべた褒めをかまして信用を得、そして味方に回し、アナキンは純粋な愛の喪失という正夢から逃れるための術を得ることをほしいままにしたかった挙句の果て。自己喪失に気づかぬまま闇の底に叩き落されようとしている。一方で皇帝はクローン大軍を用意した(ここで筆者は全てが見えたのだった)。こうして本作『3』へと駒が進められる。最後にはアナキンは奪われたくない全てを完膚なきまでに奪われた。そしてその所有欲の新たな矛先は銀河へと完全に向けられてしまう。

 

筆者はこの最後の作品となる『3』を何回観たか忘れたが、少なくとも5回以上は劇場に足を運んだ。そして毎回最後には目頭が熱くなる。いずれは飽きるはずなのだが、これがなかなか止まない。個人的な話、これは非常に珍しい。そりゃあ観る側の性格にもよるが、これほどノスタルジーに溢れ、かねてからヒロイズムが培われてきた作品群の同時代性ゆえに抱かれる親近度の高さの向こうにかようなペシミズムが我々を待っていようとは全く予想だにしないことだった。そのひとつは即ち反乱軍の敗北感であり、そしてオビ・ワン・ケノービがベン・ケノービと名前を変えて惑星タトーウィンに鳴りを潜める理由とも言い換えられる。そして再会する17歳の少年が『新たなる希望』と呼ばれる理由もそこにある。そうして次の世代へと舞台は移り変わっていき、滅亡をみたジェダイ騎士団の新たなる希望は惑星オルデランと惑星タトーウィンに託された訳である。

 

さて、ここでは何がハンディ・キャッパーかというとダース・ベイダーとルーク・スカイウォーカーの親子共々隻手(せきしゅ)であることで、二人とも義手を使用している。親子揃って大変ツイていない状況ではないか。クラシックの時点でダース・ベイダーの右手首の切断面からコードが初めて沢山現れるのを我々は目撃するが、この偶然性はかねてから父親が息子に突きつけていた運命を一にする先見性と言い換えられ、しかしルークには不安を生み出すものでしかない。師匠ヨーダの口からも発していたようにこの親子二代に亘る運命の輪廻をほのめかしつつ、ルークはこれに逆らうように自分の運命は父親を救うことにあると頑なにした。

 

この義手には進化が見られている気もする。アナキンの義手には痛みが感じられるようにできるのかは分からないが、『帝国の逆襲』のルークの右手の義手(ロボット・アームという呼称は将来にも通じよう)はメディック・ドロイド2B-1によって取り付けられる。ルークの指先を針でつついて、ルークにアウチと言わしめる。痛感覚がある。せめて痛いところは避けたいところだが備えあれば憂いなし、あるに越したことはないばかりかかなり凄いグリップに違いない。

 

『2』のラストで初めてアナキンは義手を取り付け、パドメ・アミダラとの二人で神父の前で契りを交わす際にそこに見える義手が実に悲しく見える。その義手の外観は何しろ内部の骨格も剥き出しでおよそターミネーターにも似なくもない。この技術の精巧さがどれほどのものかは瞬時には映画の中からでは察しもつかないが、将来的にもイタい感覚神経ともリンクさせることが可能な義肢が開発されることが望ましいことは誰しも思うところだろう(いやかな?)。何しろ親子二人とも右利きで、右手でライト・セーバー、そのグリップで怯むことなく剣を交える一方で義手も外れる心配がないほどの強度なのでもある。義手がまた斬られたらまた痛いのか。ましてや『3』を最後まで観てみよう。ダース・ベイダーの障害重度は残酷にも半端なものではなかったのだ。これは益々高度の義肢技術が要求されることだったろう。全神経が痛い。そしてそれが適ったからこそ常にダース・ベイダーであり続けたのだが、さすがにこちらは痛くないほうがいい。瞬間だけ痛いのか、それともずっと痛いのか。

 

しかし考えてもみると、ダース・ベイダーを演じる、否、全6作を通して完成されたダース・ベイダーというキャラクターはジェイク、ヘイデン、セバスチャン・ショー、そして声を担当した名優ジェームズ・アール・ジョーンズ、コスチュームを着て演技していたデイビッド・プラウズの5人もの人間によるものであり、ひとつの役柄に対してのこの大人数はそうはない気がする。ちなみにジャバ・ザ・ハットも裏では大人数だが、確か8人のスタッフが裏で巨大な人形を操るという大仕事だった。

 

時系列という表現を使えば、二通りの意味合いをここでは使う事になる。製作年度の順通りに見るのは自分の観た順番ということになるので、ノスタルジーが脳内で機能すると共に思い入れは格段に異なるだろう。ましてやダース・ベイダーのキャラクターは畏怖感を周囲に与えつつもその存在感はどこか機械的で、向ってくるもの全てを弾き返すだけのイメージがあるから、それを払拭できるだけの効果が後半で待たれていた。逆に設定上の時系列で物語を追いかけると、これはアナキン・スカイウォーカーとルーク・スカイウォーカーの父子物語であるとのっけから解釈させられるが、これはこれでまた違った感慨を覚えることだろう。

 

最後に実際の印象での所見をここで締め括ることになるが、この最後の作品を観て初めて、この宇宙で展開されてきた全ての戦争、出来事、ドラマを全て自分なりに掌握することによって『スター・ウォーズ』というヴィジョンがくっきりと見えてくるのであった。映画一本一本それぞれにおいてしか解釈し得なかったものが全てつながり、三部作映画よりもさらに深く感慨深く、あまつさえ自身でさえ幼少時から観てきている作品群であり、その年53年であるから(?)なお一層思い入れもひとしおである。筆者は世代にギリギリ間に合って良かったと今でも思っている。78年で7歳、83年で12歳。ああ。