バットマン リターンズ

 

1992年日本公開 監督/ティム・バートン

出演/マイケル・キートン、ダニー・デヴィート

 

筆者がこれらのような映画に出ている俳優たちをこのような形で紹介するには少々あこぎな気もする。例えば先の『スター・ウォーズ』(78)のケニー・ベイカーなどを小人症としても紹介しているが、こと小人症に至ってはかなりの活躍が見込まれたこともおよそ当然ではあった。ここに更に挙げるならばシリーズ第三作『マッドマックス/サンダードーム』(85)も然り、アンジェロ・ロシェットという俳優は小人症ながらマスター(或いはブレイン)という役名で知的障害の大男とコンビを組んで二人で一人分の仕事をするという役柄を務めている。この俳優はアメリカ小人協会の初期メンバーの一人として堂々と紹介されており、冒頭で紹介した『フリークス/怪物團』(32)にも出演した大ベテランなのであった。ちなみにこの『マッドマックス』第3作目、ネバーランドを意識した物語の運びになっているのが大きな特徴であり、変な言い方をすればお子様向けに作られたような印象だが、更に良くない言い方をすればメル・ギブソン自身もこの第3作にはあまり乗り気ではなかったらしい。しかしあっという間の短い尺のシーンではあったがウエスタン大列車強盗的バギー・チェイスも相当の見ものであることは確かであった。

 

こうして全般的に観ていくと、小人俳優は様々なSF映画やファンタジー映画での活路を見出しているし、それも全てクリエイターの発想如何による。トム・ホランド監督の『チャイルド・プレイ』(89)やジョージ・ルーカス製作総指揮の『ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀』(86)などで影役者として務め、空想世界の可能性を増幅させたエド・ゲイル、『砂の惑星』(85)からはリンダ・ハント、シリーズ『オースティン・パワーズ』(98~02)のミニ・ミー(ヴァーン・トロイア)もある意味SFなんだけどある意味現実味があるので笑えるところは笑わせてくれる。

 

さて、そんな数多くのファンタジー映画の中で活躍するキャラクター達があちらこちらで混在する中で、それでも小人症だのと断定されたような公表が恐らくされていない俳優もある。ダニー・デヴィート。身長147㎝。正確にはお悩みはフェアバンク病(多発性骨端骨異形成症というらしい)。ここでは映画上ではあくまでも奇形児として生まれたと設定されているペンギンを紹介しよう。『バットマン リターンズ』。

 

もちろんご存知のように彼は『エリン・ブロコビッチ』(00)などハリウッドでも屈指の名プロデューサーの一人でもあり、『カッコーの巣の上で』(76)、『ビッグ・フィッシュ』(04)などの名優の一人でもあり、『ローズ家の戦争』(90)や『ホッファ』(93)など名監督の一人でもある小さな巨人のひとりだ。同時にアメコミというファンタジーの世界の中にも人間的な差別に基づくドラマがあったことになる。本来ならば最も魅力的なのは恐らくバットモービルに話題が集中し、まあ割と多くのところで語り継がれているだろうし、もう存分に話題になったはずだから視点を敢えて変えてみよう。ティム・バートン監督作品としてもダニー・エルフマン作曲のスコアとしてもファンタジー映画と呼ぶに相応しい誠に隅々まで幅を利かせた壮大感を観る者に与えてくれる、そして見事にハンディキャッパーとしての患いを煩いとして扱う人間ドラマでもある、バットマン・シリーズの中では最もわかりやすく深く秀逸な一本だと思う。役者も揃っている。

 

出生時にその幼児の容姿を見て驚愕した夫妻は乳母車に乗せたまま雪にまみれた川に流してしまう。ドンブラコ、ドンブラコと流れる川を伝うそのユリカゴは流れて先へ進み、地下下水道が流れる漆黒の闇に包まれたトンネルの中に入っていき、行き着いたその先には何故かペンギンがウジャウジャ。生命力に恵まれたのかその下水道の空きスペースで子供は生き抜いていく。

 

何十年も後、ゴッサム・シティでは雪の降る季節、冬を迎えており、間もなく市長選挙も控えていた。実業家のマックス・シュレック(クリストファー・ウォーケン)も演説で人気を博し、年に一度のクリスマス・イルミネーションの着飾られたツリーが聳えた広場には聴衆で埋め尽くされていた。しかしそこに、かねてから流れていた噂の怪物ペンギン(ダニー・デヴィート)が率いるサーカス団が広場の市民たちに襲いかかってきた。そこに助けを呼ばれたバットマン(マイケル・キートン)参上、そこに居合わせたマックスの秘書、セリーナ・カイル(ミシェル・ファイファー)もバットマンに命を救われる。そんな騒動の中、マックスはいつの間にかペンギンの一味にさらわれの身となり下水道のアジトに連れて行かれた。そして怪物ペンギンの存在を知ったマックスはペンギンの不幸を知り、そして彼の要望を受け入れたのだった。

 

社に戻ったマックスは残業していたセリーナを、先のスピーチ原稿を手渡さなかったのを理由に、高層に位置する窓から突き落としてしまう。そして死にゆくもandしかし、その落ちた地点で彼女は徐々に猫の増えていく群れに覆われていく。そして突如として目覚める。恐ろしくも甦ったのだ。ミシェル・ファイファーの瞼を見てみよ。これも女優か。

 

マックスたちが立ち会う遊説中に幼い子供がさらわれ、その先でペンギンが子供を抱えて戻ってきた。彼は程なく英雄視されるも生い立ちを広められ、やがて自分の親を知るために歴史博物館を借りて調べることになる。自分の親を探し当て、彼の本名はオズワルド・コブルポッドと判明した。父はタッカー、母はエスター、既に死んでいた二人の墓標に献花を手向け、やがて彼は時の人となる。このニュースを見て彼を知ったブルース・ウェイン(マイケル・キートン)は彼の生い立ちとどこか自分に似ていることも同時に知り、彼を見守ってはいたがどこか胡散臭いところも嗅ぎ取っていた。

 

実業家ブルースはマックスを訪ねてオズワルドを支援する理由に疑問を呈した。その折に死んだはずのセリーナが登場し、マックスは驚きを隠せなかったがブルースは彼女とここで初めて出会うことになる。マックスはこの時点で生い立ちに同情票が集まるオズワルドを新市長に迎え入れることで、ゴッサム・シティのイメージアップに利用しようと画策していた。一方でペンギンもこのイスで自身の富と名声を盾にしてゴッサム・シティを乗っ取ることまで考えるようになっていく。

 

しかし真夜中のゴッサム・シティにテロ活動は相変わらず続き、バットマンもその救済に馳せ参じる。そこで初めてペンギンとも出会い、更にキャットウーマンとも出会う。バットマンとキャットウーマンは痛々しいまでに格闘した末に、どこか惹かれ合うものを感じていた。バットマンの脇下に刺さったままの彼女の鉤爪には馨しいまでのエロティックな痛さが込められていたのだった。

 

街中でたまさか再会したブルースとセリーナはブルースの邸宅で食事を取る。二人の考えは妙に馬が合い、息と体とが重なりそうな時に誘拐報道が流れる。この事件はペンギンとキャットウーマンが手を組んで、バットマンを二人で倒す為に企んでいたものだったのだ。そして格闘している隙にバットモービルに手を入れられてしまう。遠隔操作をされてしまうバットモービルだったがアンテナを取り外して惨事を辛うじて避けたバットマンだった。

 

計画通りにいかなかったペンギンは次の街頭遊説で更にまた一杯食わされる。自身が吐いていた暴言をバットモービルに録音されてしまい、これを演説中に市内に流されてしまう。これまで掻き集めた同情票が水泡に帰してしまい、寧ろ市民の反抗に晒されてしまうペンギンはゴッサム・シティへの積年の恨みを込めた報復を何としても果たそうと最後の手段に出たのだった。

 

元々バットマンというのはいわゆる自警主義に基づいた活動家めいたものであり、街にはびこる犯罪撲滅を自分の手で行う、いわゆる勧善懲悪の方法は幾らでも自由であり、そこに復讐観念がどれだけ込められても不思議ではない。クリストファー・ノーラン監督が新たなシリーズを始めた『バットマン ビギンズ』(05)では、クリスチャン・ベイルが演じたブルース・ウェインは自身のコスチュームをコウモリに見立て、相手が恐怖を感じるように畏怖の対象として見せつけられる工夫を施す。そもそもこの犯罪撲滅という意思決定に辿り着く経緯は、父親であるドクター・トーマス・ウェインを誘拐されたことから始まる。仮装パーティを開いていた最中、不審な男たちが押し寄せてき、コウモリのコスチュームを着て仮装していた父は男たちに銃を突きつけられて連れ去られた。その男は指名手配中の札付きで、また何かやらかしてはトーマスに弾の摘出手術をやらせるなどしていた。その隙をついてトーマスは逃亡を図り、警察通報にこぎつける。捕まった男は十年の刑を言い渡された。その服役終了の十年後に再びブルース・ウェインの両親の前にその男が現れ、両親を殺していったというのが本当のところである。果たしてブルースが犯人の顔を見ていたかどうか、そこに居合わせていたのかどうか、本人の記憶は何かのショックで真っ暗に塞がれてしまったかのようだ。そんな事実も知らないままなのか、彼は成長してある日に屋根裏部屋で父の持っていた8ミリビデオと古い日記が見つかった。そこに仮装パーティの時の様子と、捕まってからの様子が淡々と綴られており、ブルースは父の誘拐の真相を突き止めた。そしてその犯人は見つかるも記憶喪失で自分の両親を殺したことすら覚えていないのだった。ところが既にバットマンになって両親の仇を取ろうと暗躍していたブルースはその犯人が自身を見て怯えていることに気づく。パーティ当時に着ていたコウモリの格好が、父が生き返ったと思ってしまっていたのだ。これを機にブルースは自分の外見がコウモリである意味に確信を抱き、全ての犯罪への両親のための復讐心と犯罪撲滅への人生の再設定を自分の人生と結論づけたのであった。

 

しかしバットマンでなければ復讐心も何もかも果たすことができない。バットマンスーツを着て初めて自分の人生謳歌が始まり、自分をこれでもかと曝け出すオープニング・マインドが夜中を方々まで駆け巡り、街角にこびりつく犯罪を隅々まで浄化させていく。片や日中では実業家としての、富も名声もある家系の寵児として活躍する紳士であるし、どこからもハンディキャップを抱いているようには見えかねる。自分を押し隠すまでの分裂的二重人格障害などといった類の精神障害を患っていることはあまりにも有名な話で、この人間味溢れたキャラクターが活躍するアメリカン・コミックとしても1930年代から続く大人気になったその理由のひとつとも言われている。

 

その深い悩みを分かち合えそうな人間がひとり出てきており、しかも女性であった。この秘書のセリーナも決して社会に適合した佇まいを見せているわけではなく、寧ろ上司の圧力に耐えかねては帰っても親からの留守電でうるさがる。あまりパッとはしないOLみたいなもので現実の部分でも多くの女性が共感しそうな生活環境だが、映画ならではのシチュエーションがここで始まるわけだ。9回も甦ることもできる人体になり、人格もすっかり変わった人間として生まれ変わってしまったキャットウーマンだ。

 

はたから見ると蘇生して既に人格は変貌をきたしたからこれ以上変わりようがないのだが、これも二重人格とするとどうもそうとは言いがたい。少なくとも映画で観る限りでは日中は大人しく外を歩けばいいだけなのだが、しかしブルースと恋に落ちてからはどう自分と向き合った上でブルースと正面から向き合えるのか、はたまた正体をお互いが知った時にどう考えたら良いのか、パニック障害にもなりかねない、実に判断が難しいところである。しかし彼女の根本的な目的はマックスへの復讐であり、これを全うすることで心の棘は抜け去られ、あとはバットマンとは心の通わぬことを悟って消え去るのみだったのだ。

 

そしてミシェル・ファイファーやマイケル・キートンともスター同格をなすもうひとり、ダニー・デヴィートが演ずるはペンギン、またはオズワルド・コブルポッド。奇形児(実際はそうでもないとほんとは云うべき)は時として非現実世界の再現において必要な要素とした。ティム・バートン監督もこうした類の人たちはとても象徴的だと言っている。本人も幼少時から既に疎外感を感じながら育ってきたというし、その気持ちを損なわずにファンタジーを心から敬愛し、ディズニーに関わりを持つようになった。2012年に3Dリメイクをも果たした短編『フランケンウィニー』(84年、94年『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』と限定同時上映されたこともある)、子供向け名キャラ、ピーウィー・ハーマン(ポール・ルーベンス)の『ピーウィーの大冒険』(85)(日本では未公開でも、このキャラクターは意外と日本でも名物で多くの日本国民の記憶にもかすかでも記憶にあったことだろう。この時ポールは監督ティム・バートンを呼び、作曲家ダニー・エルフマンもこの日本未公開作品で初めて参加、チームを結成した様子である。しかし自ら脱退するかのようにポールはチームから去っていく)などで口火を切る。

 

水かきのような手をして身体全体もどこかペンギンな男だが、誰もがやはり彼に同情を示して人生再起に協力を惜しまない。その大衆的心理操作が進みながら自分の悪欲の限りを尽くそうとばかりに影でサーカス団を操って破壊行為を益々派手にしていくのだが、基本的には何も考えていないただの我がまま坊主だ。ゴッサム・シティを我が物にするどころか破壊行為を繰り返させて自分と同じ不幸を味わってもらおうと考えていたのが、市長選挙に絡む富と名声に魅了されて取り敢えず忘れていただけだった。そしていつしか平等にかつ同等に見られていた立場は自分の悪欲が社会に馴染まないことをバットマンから諭されることで脆くも崩れ、やはり軽蔑の対象にすべき人間からペンギンに自分の即断で一気に戻り、かつて自身の持っていた理想に立ち返る。ゴッサム・シティにいる長男坊やを一人残らず殺してしまえと「出エジプト記」にある神の怒りに触れた「10の災い」の話にも似た指令を出す。そこから長男だろうが次男だろうが関係なくなっていき、更に男女差別の関係もなくなっていく。このくだりで男女平等を意識した何某をも感じるし、それ以前の差別意識をやはり強調していたことは記すまでもない。法律、組織、秩序に全ては順番がある。彼自身はこれに当てはまらず、そして破壊行為に出たのだ。逆襲だったのである。

 

それにしても最後のペンギンの葬列は涙ぐましい。ペンギンが群れを成すどころか行列しているのである。そこに彼らの意思がある。本物のペンギンの意思がある。

 

ダニーの見事な演技と醜い形相を巧みに形成したスタン・ウィンストンのメーキャップでここまで完璧に再現された悲運なキャラクターもそうはおらず、そこにまた人気の秘密が隠されているのだろう。半永久的に下水道水域で過ごして完成された人格形成をどう表現したものか、この映画ではダニーの演技をフィルタリングして確実に示した見事な良作だ。