ダーティハリー

 

1972年日本公開 監督/ドン・シーゲル

出演/クリント・イーストウッド

 

映画ファンの間では有名なエピソードばかりが続くが、まず本作の物語は1960年代後半から実際に頻発していたカップルなどを狙った無差別殺人事件がモチーフとなっている。いわゆる快楽殺人が目的で、その実行犯は自らをゾディアックと名乗って告発状を新聞社に送りつけてくる。これからも人を殺していくという予告をも兼ねていた。『ダーティハリー』の真犯人であるスコルピオ(アンディ・ロビンソン)はこのゾディアック・キラーがモデルである。

 

それらをほぼストレートにモチーフにした映画がデビッド・フィンチャー監督による『ゾディアック』(07)であった。同作には『ダーティハリー』のみならず『大統領の陰謀』(76)が持つ陰影を深く投影させることを意識していると思わせる風格をも併せ持つ、貴重な事件史資料となりえるだろうか。実際に撮影に際して行われた徹底的なリサーチのうちに発見された新たな証拠を警察に届けもしたという話もあったがはてどっちだっけ。つまりこの一連の殺人事件はいまだ未解決だったのであり、もちろん『ダーティハリー』の撮影中においても真犯人はそのアメリカのどこかに必ずいたことになる、身の毛もよだつというのはまさにこのことなのだ。

 

この作品と後述する『ガントレット』のニ本を併せて個人的に特筆したい点がいくつかある。前者はクルマ映画ではないが、ついでに。

 

この映画を皮切りに刑事像は大幅に刷新されたと言われており、オーストリア出身であるあのアーノルド・シュワルツェネッガーも俳優を志すきっかけを与えてくれたと明言するほどの影響が既に示されている。この映画を輩出した映画会社ワーナー・ブラザースではそれまでギャング映画がヒット看板のメインであり、同作を起点に刑事もの映画が流行し始めたといっても過言ではなさそうだ。本作と同じ1972年に日本で公開されたのが例えば『フレンチ・コネクション』、『夜の大捜査線/霧のストレンジャー』などがある。ついでに『黒いジャガー』は私立探偵が主人公である。『夜の~』は既に第3作目なので脇に置いておくとして、『フレンチ・~』と『ダーティハリー』とではどう違うかというと、あくまで印象論に過ぎないが、基本的にはアンチリベラルだがそもそも映画の中の雰囲気作りが全く異なる。ニューヨークの空気に至るまでリアリティを追求した雰囲気作りが徹底されているのに対し、サンフランシスコが舞台となる『ダーティハリー』では背景や音楽など映像が提供してくる空気全てがクリント・イーストウッド演ずる刑事ハリー・キャラハンという人物像に注がれていき、それが新たな刑事像を生み出したのではないかという気にさせられるのだ。かたやクリント・イーストウッドはこの映画のために人間的要素、音楽など様々なことを学び取って、そこから続く監督業に取り込んでいくようになったのかと思わせるほどに影響が色濃いことがよくわかる。

 

クリント・イーストウッドは人間が元来持つ心理に興味を持っているようだ。その人間的好奇心に基づいて気に入った脚本を見つけてきては、見つけた脚本を活かすためにじっくりと時間をかけてイメージを完成させていくなどを試みた結果アカデミー賞受賞に至った経緯もある。そうした人間性を育てるのもアメリカ合衆国という舞台であり、その舞台では法律、人種など歴史によって生み出された様々な感情の坩堝が渦巻いている。そのなかで見つけてきた救いのない人間関係の話をも見つけてきたりする。それが『ミスティック・リバー』(04)を監督することになったりする。

 

ここでのハリーは、白昼堂々と快楽殺人を犯す人間などに権利はない、そんな者はさっさとぶち殺せばいいのだ、と言って憚らないキャラクターである。しかし現実は犯罪者にも権利が与えられるのが常であり、ここでもようやくスコルピオの身柄を確保したにもかかわらず、黙秘権や弁護士を雇う権利があるなど権利宣告をしなかったためにすぐに釈放されてしまう。それに対する、激昂にも近い感情を長身の体内に沸々と煮えたぎらせながら映画は闇の中を淡々と静かに歩いていく。

 

時代性として当時はアメリカ警察側の汚職が横行しており、アメリカ国民として信用を失っていた傾向が強かったこともすでに書いた。現在はそれほどひどい傾向を示すものは皆無だが、こうした類の映画をこうして振り返れば振り返るほど語り草として多くの所で語られ続け、歴史の一環として認識されていき、アメリカを知ることとなる。

 

法律を作ったのも人間であるにもかかわらず、警察への信用の低さと相まって、法律の隙間を埋められない無力さに失望するアメリカ。そこにアウトロー刑事が登場する。この登場は混沌の渦中における全ての軋轢を払拭したかのような存在にまで至らしめたことだろう。

 

また神話性が非常に強いこともこの映画の特色のひとつである。漆黒の闇に包まれた夜の空間に聳え立つビル屋上看板が『神が救い給う』と告げている。その回転板のふもとでハリーの相棒になったチコ(レニ・サントーニ)がこれから闇の中を潜伏してくるだろうスコルピオを狙い撃つ。これはあたかもハリーが神の送った刺客であるかの如くを示しており、こうした暗示は幾つも続き、それはまるで『バニシング・ポイント』(71)の模倣性も感じられるものであった。

 

神が人間であるか否かによってまず宗派が異なる宗教観、しかしながらキリスト教原理主義とする国民が大半を占めるアメリカ合衆国においてこのモチーフは実に効力が大きく、映画に取り込むケースも少なくない。だいぶ後に『クラッシュ』(06)が製作され、はたしてこれらの影響が見られたかどうか明言は個人的にも確認はできてはいないのだが、そうしたイズムはいまだに国民に根強く植わっている。クリント・イーストウッド自身、最後の俳優業と明言したという『グラン・トリノ』(09)でハリー・キャラハンのパロディを披露していたが、こうした神話性も併せてシンクロしていたのももはや偶然とは思えない。そしてクリント自身が探していた答えはこの当時に初めて気がついて以来のことなのかもしれないのだ。そうしてクリントは現場で、または映画で学んできたこと、即ち人間は、神が創ったバベルの塔の如きカオスの渦中に神が送ったそれぞれの役割を持つ刺客に過ぎないことを映画に表現しようと試みたかったのか。或いはそれは神の鉄槌なのだろうかとも思う。とにかくアメリカ人はカミサマ、カミサマ、なのである。もちろん、なかにはそれほどでもないアメリカ映画人もあるが、そうした世相を踏まえて映画を作る例も少なくないのだ。

 

イエス・キリストは全ての人の罪を背負って野次馬が見守るなかをズルズルと十字架を引きずり、鞭打たれながらゴルゴタの丘まで運ばされ、磔にされた。その受難の有様は何千発にも及んだ弾数を受けたバスにも似る気がすると語られる。そんなことは微塵も考えなかったが、この『ガントレット』の原題もそのまま " THE GAUNTLET " であり、なんでもマイ英和辞典によればこれは「笞刑(ちけい)」という意味であり、昔軍隊で行われた処刑方法のようなものだというのだ。いわゆる「二列の人々の間を歩かせて両側から鞭打つ刑」とのことで " GANTLET " とも綴られる。

 

フェニックス市警。酔っ払ってばかりの警官ベン・ショックリー(クリント)が上司に呼び出され、管轄の異なるラスベガスからの証人護送の指令を受ける。来てみればその重要参考人はガス・マリー(ソンドラ・ロック)という女性だった。身柄を引き渡され、移動を始めてみると次々とマフィアに銃撃されては車を乗り換えさせられる羽目になる。道中、一度宿泊所に泊まって休憩しながらフェニックス市警の上司に応援を依頼するも予定以上のパトカーが到着、ただならぬ様相に気づく二人はまた逃げおおせる。家屋は一斉に射撃を浴びてはついにバタバタと倒壊させられていく。公衆電話などで市警の同僚と連絡を取るうちに例の上司にとっては非常に都合の悪い陰謀であるという匂いを嗅ぎ取るベン。自分達が同業の警官やマフィア達に襲われる原因は重要参考人であるガスにあり、その証言はその上司の地位や人生を左右させるほどのものだった。バイカーからやむをえない職権濫用(?)でバイクを奪い取り、上司の行いにブチ切れたベンはガスを後ろに乗せたまま市警ヘリコプターに砂漠じゅうを追跡される。あわや捕らわれの身となるところをヘリは墜落、難を逃れる二人。今度はバスをジャックし、目的地のフェニックス市警へ。ベンはわざと自分の通るルートを上司に告げ、その襲撃に備えて鋼板をバスの運転席周辺に溶接、装甲板代わりに仕上げた。運転席をガチガチに固め、いざ市警へ。自分を使い捨てにまで追い込もうとした上司の鼻を果たしてあかしてやる事ができるのか。

 

コトの顛末はまあこんな感じだが、これが当時のどれだけ多くのアクション映画の中で取り込まれてきたか否かは全て観てみないと分からないし、それが流行の証拠となるかどうかも決して定かではない。この連弾砲火による一点集中攻撃手法(?)の起源は映画界においてはさほど重要でもないと思う。前述したが、かつて存在したギャング・マフィアがTV映画となり、映画ともなり、ハンフリー・ボガートやジェームズ・ギャグニーなどはじめとする出演映画をワーナーが中心に作られ続けてきた由緒があるためでもある。その映画史の流れを変えたのもそのワーナーの『俺たちに明日はない』(68)、銀行を襲い続けた実在のギャングが描かれた。ラストの襲撃シーンもマシンガンによる蜂の巣攻撃である。奇しくも本作『ガントレット』もワーナー作品であり、クラシック時代からぶっ放されてきたマシンガン銃もまた相変わらず唸りをあげていた名物だ。実際マシンガンの行列ではないと思うが、効果音はまさに同じに聞こえる。もっともワーナーに限られたことではないが、威力は負けてはいないのだ。それにしてもバスのタイヤがパンクしないのは不思議だというのは観た人誰もが抱く非常に有名な疑問である。しかしながら面白い後味が残ることは間違いがない。しかもヘリ墜落に何台のカメラを使ったのかこれまた興味深いところであり、大きな見せ場として相当に意識していたことだろう。

 

同時に前者『ダーティハリー』と同様に、明示暗示問わず警察に対する不信を根本的なモチーフとしてあることは言うまでもない。アメリカン・ニュー・シネマとして機能しているかどうかと言えば前者は当たらずとも遠からず、後者は既にその純粋な流行が終焉を迎え終えた印象である。アメリカン・ニュー・シネマというのはすなわち「ブチ切れ」たジャンルに近しい気がしてくるのだ。人間が人間で構成した警察組織、人間が人間のために作った法律、にもかかわらず全ての国民が納得の行く機能性を果たしてくれておらず、なんだかんだ失望する。偽りだらけのお飾りも要らないはずのハリウッド。全てが信用を裏切る秩序を破壊させ、新たな生きる希望を探し出そう、と踏ん張るのがアメリカン・ニュー・シネマ。そして70年代半ばにもなるとストレートな映画はそれほど多くもなくなり、むしろ先に述べたモチーフをベースにしながら濃厚なアクションを次々とサンドしていく映画も多くなっていく。この『ガントレット』もそんな一種だろう。

 

西部劇も忘れてはならない。お約束の西部劇としてジョン・ウェイン主演、ジョン・フォード監督の『駅馬車』(39)に影響された映画人は五万とおり、それぞれの作品の中でオマージュ(感謝の意も)を捧げられてきてもいる、いわゆる常套手段には違いない。この『ダーティハリー』ではやはりジャックされたスクールバスにハリーが飛び移るシーンがそうだ。『ガントレット』では飛び乗ってくれなかったけれど、とにもかくにもそうして西部劇映画として数々の名作が出現、そのなかで生み出されてきたアウトローなガンマン偶像の一人としてクリント・イーストウッドが現れる。

 

アメリカ合衆国における法律に対する不信をモチーフにしている点でアメリカン・ニュー・シネマとして機能しうる一方で、クリント・イーストウッドという西部劇映画から派生してきたようなアウトロー刑事の出現は多くの観客に嫉妬させ、憧れをも抱かせた。むしろこちらの機能性のほうが濃厚であり、結果的にアメリカン・ニュー・シネマというのはなんだか他人事のような気にさせられる、そんなジャンルを忘れさせてしまうほどの刑事としての偶像を観客に強く植えつけたのかもしれない。フランク・シナトラも出れなかった、ジョン・ウェインも出れなかった、そして次に白羽の矢が立ったクリント・イーストウッド、又は『ダーティハリー』はアメリカ映画史年表の一行に相当する存在といえまいか。

 

 

ガントレット

 

1977年日本公開

監督・出演/クリント・イーストウッド