バンデットQ

1983年日本公開 監督/テリー・ギリアム

出演/ショーン・コネリー、イアン・ホルム

 

世界で最も有名な小人俳優といえばケニー・ベイカーだと思う。社会現象ばかりか世界現象にまでなって多大な影響を各方面に及ぼした映画シリーズ『スターウォーズ』(77~83)のあまりにも万能なR2‐D2を知らない人が、それこそ世界にどれだけいるだろうか。まあ、いるかな。

 

1934年にイギリスはバーミンガム生まれ、身長が112㎝のケニーはもともと16歳に入団した小人団の一員で、人気のあったボードビル・エンターティナーだった。映画デビューは『Circus of Horrors』(60、恐らく日本未公開)。そんな彼をプロダクション・デザイナーのジョン・バリー(作曲家と同姓同名である)が見つけ、ジョージ・ルーカスに紹介した。ここでR2‐D2の仕事が決まった。この名前の由来は『アメリカン・グラフィティ』(73)の上映本編プリントの第2巻、台詞2つ目から来ている(Reel number 2 , Dialogue track number 2)とされるという説もある。以来『フラッシュゴードン』(80)、『エレファント・マン』(81)、『アマデウス』(84)などに出演。同じく小人俳優であるジャック・パーヴィスとは親友であったようだ。しかめ面な彼はかつてジャワ原人やイウォーク族の一人としても演じたが、残念ながらジャックは1997年に交通事故死したことが某サイトで確認されている。

 

ケニーの奥方も小人とのことだが、息子たち二人は全く普通に成長しているという。そもそも小人症というのは全くもって原因がつかめない病気のひとつといわれているのだ。

 

その二人が出演した本題の『バンデットQ』。冒険活劇ファンタジーで監督はテリー・ギリアム。モンティ・パイソンのシリーズで一世を風靡したほどのコメディアンのグループの一人だが、筆者はこのシリーズのどれかは観たことは一応ある。何がシュールで何が面白いのかまるでわからなかった時だった。だからその点を除いてとにかくできる限りの考えを展開できたらいいなと思う。ある少年と6人の小人盗賊たちが大活躍する、ある種の巻き込まれムービーである。話は長くなる。

 

ある家庭のテレビで最新鋭技術を誇ったかのような家電製品が紹介されている。コマーシャルではなく、クイズ番組だかなんだかの景品として展示されていた。あるいは老人紳士が宙吊りにされているシーン。そのテレビをパパとママが笑いもせずに見ている。一人息子ケビン(クレイグ・ワーノック)は歴史絵本に夢中になっている。これを話題に親に相手して欲しいところだったが、全くかまってくれず早く寝なさいと言われ、自室のベッドで横になるケビン。消灯…。

 

クローゼットの中から突然馬が蹴破ってきた。そしてケビンのベッドの上を通り過ぎ、ケビンは森林の向こうへ去って行く騎士を見送った。怯えたケビンは毛布に身を隠すが、程なくして起き上がる。いつもの普通の部屋。クローゼットも壊れていなかった。森があったはずの壁。一面に貼ってある写真や切抜きを見つめた。その一枚にはさっき見た森と騎士と騎馬が写っていたのだ。

 

次の夜、ケビンは懐中電灯とポラロイドカメラなどをベッドに用意し、ベッドの上で馬が来るのを待つことにした。なかなか来ないのでついに彼は寝てしまう。そのうちクローゼットの中から今度はケビンよりも小さな小人たちが忍び足で侵入してきた。全部で6人。バーミン(ティニー・ロス)、オグ(マイク・エドモンズ)、ランダル(デビッド・ラパポート)、ウォリー(ジャック・パーヴィス)、ストラッター(マルコム・ディクソン)、フィジット(ケニー・ベイカー)。ケビンはふと起きて懐中電灯を当てたら小人たちは騒ぎ出し、逆にケビンが押さえつけられてしまう。ケビンが出口はどこかと聞かれるが当然何のことだかさっぱりわからない。ケビンを押さえつけた壁が突然ガクンと向こうへ動き出した。そして壁は押せば押すほどどんどん奥へ引っ込んでいく。そこにボスがやってきた。誰ともわからぬでかい顔が、眩しい光と吹き荒ぶ風を一緒くたに伴わせながら、彼らに襲いかかる。地図を返せ! ぎゃー! 逃げろや逃げろ! 小人たちはとにかく壁を押し続ける。そして壁がスポンと抜けた。その先は真っ暗闇。彼らはその闇の中に落ちていく。ケビンもつられて落ちていく。

 

納屋に落ちる一同。ケビンは訳がわからず外に出ると、そこは戦地のど真ん中だった。農民たちは私物を持って避難し、騎馬戦士たちが横行する。聞けばここは1796年のカステリオーニの戦いの最中という。支配者はナポレオン(イアン・ホルム)。素晴らしくいい顔をした名優も名優、この映画ではしかしそう背は大きくはないように見える。

 

夜中、移動していくとそのナポレオンが観劇してケタケタ笑っている。人形劇。そこに人形師が流れ弾に当たってしまった。止められて次の演劇を求めるナポレオンだが、誰もが自身より背の高い演者ばかりで気に入らない。それを察した小人の盗賊たちが舞台に割り込んだ。あまりにも適当な唄を歌いながら登場した小人たちはナポレオンを魅了した。彼らを気に入ったナポレオンは彼らを自分の配下に雇う。

 

クロムウェル、アレクサンダー大王、ルイ14世、アッティラ大王など自分と同じぐらいの背丈(5`1‶、約154㎝)の歴史上の人物を挙げながら、ぼやいて眠りにつく。その隙を突いて小人たちは周辺の金品を盗みながら、脱出を試みる。タイムホールがすぐそこにあることが既に判っているのだ。

 

辛くも逃げおおせた7人の次の到着先は中世のシャーウッドの森。ケビンは地図の存在を初めて知ったが、さらに全てを聞く。全知全能の神がわずか7日間で創造した地球。ところが安普請で穴だらけ。その穴こそがタイムホールであり、そこを通り抜けてあちこちで盗みを働き、金持ちになることを夢見ているという。その穴の位置を示したのがこの地図(正確には惑星系図みたいなもの)なのだ。これを見ればいつどこにタイムホールが出現するかがわかるというスグレモノ。神様の営む組織に長く従事していたにも拘らず報われなかった彼らは、神から地図を盗み出すことを企むのだった。だから神様はでかい顔になって追いかけてきた。ボスとは創造主である神様(ラルフ・リチャードソン)だったのだ。

 

彼らは別の盗賊と出会う。意気投合して連れていってもらった先のボスはロビン・フッド(ジョン・クリーズ)だった。盗賊を率いて盗みを働かせながら、これを貧民のために行うものと言っている。ここがシュール・ギャグと言いたいところなのだろうが(モンティ・パイソンのメンバー、ジョン・クリーズやエリック・アイドルも声優として参加した『シュレック』(01~10)では白雪姫、ピノキオなどがこれまでのキャラクターのイメージを覆すようなシュールを提供している)、日本上映版ではここのシーンはまずカットされており、のちのソフト類ではこれを含めて全て削除されたカットを入れてオリジナル全長版としているという。

 

状況がわからない小人たちはその場を辛うじて抜け出し、風雨の吹き荒ぶ森の奥深くへ。これを覗き込む者たちがいた。悪魔たち。全知全能の神から全てを奪い去り、全世界の支配を目論んでいる悪魔神(デビッド・ワーナー)は彼らを監視し、そして「世界一の宝」のありかを示す道標に彼らを向かわせるよう、小人のひとりの意思を操った。そこにまた例のボスがやってくる。ケビンが先に一人で逃げた矢先にタイムホールが今度はふたつも出てきた。ひとつを選んで入っていったがすぐに閉まってしまい、小人たちとはぐれてしまう。

 

乾ききった砂漠の上で仮面の闘技士と牛の骸骨の仮面の闘技士が一騎打ち。普通の仮面のほうが倒れ、窮地。そこにケビンが空中のホールから落ちてき、彼の窮地を救う。仮面の男は少年を命の恩人と認め、王朝の城に連れて行った。彼はアガメムノン王(ショーン・コネリー)だった。そこはトロイの戦争が終わったばかりだった。王同士の戦いにも決着がつき、行き場のないケビンを王の息子として迎え入れようと祝宴をあげる王様。ところ変わって祝宴の壇上に踊り子たちが踊る。その仮面を脱いだら小人たちだった。そして舞踏でカモフラージュ、手品と見せかけながら観衆から金品を拝借するもそのままドロンと消えていく。ケビンも連れ去られていった。残された王様は茫然自失。

 

今度は沈没寸前のタイタニック号の上。そこで何故かタキシードに着替えて休息を取る一行だが、やっぱり沈む。(空から落ちてきたくせに貰っていないはずの)切符には「氷山に注意」なんて書いてもなかったこと(風刺?)をボヤキながら、板の破片や浮き輪にしがみつく。そこに悪魔が海上に渦を巻き起こした。彼らは「伝説時代」に導かれていったのだ。

 

海面から飛び出し、海面に落ちる。海面が裏返しになったのだ。不思議にも泳げなかった彼らが泳げるようにもなった(『パイレーツ・オブ・カリビアン ワールド・エンド』(07)のデイヴィ・ジョーンズの墓場と同じ、ここはいったいどこなのか)。そしてどこの誰ともわからない船に遭遇。

 

牙と角を生やした鬼が伴侶と共に乗っていたが、鬼の長い髪には白髪が交じり、腰をも痛めていた。鬼は小人たちを海から引き上げたが、というのも彼らを食事にしようとしていたから。ところが逆に鬼が追い出されてしまう。怖い鬼も年取れば役不足とでも言いたいかのように、お伽話をおちょくっているのだ。しかしどの御伽噺の鬼なのか?

 

小人たちは船の上でしばしの休息を味わうが、船が突然異常な揺れを起こし始め、激しく宙に浮き出した。否、浮いたのではなく、その船は実は帽子だった。その帽子を被っていたのは巨人であり、いきなり海から現れだしたのである。

 

それはあたかも海坊主のようであり、鬼も戦い過ぎて年を取り、鬼のように大きな存在になりたくてもそうではない。

 

ケビンが船内倉庫から睡眠薬を見つけ出し、船底から手製ポンプを使って巨人の頭に注入する。やがて巨人が目をこすり、帽子を外して地上に降ろし、そのまま居眠りを始めた。所詮は人間だった。小人たちは隙を見てそこから逃げ出した。

 

地図を見ながら砂漠を歩き続けてきた小人たち。ここだ。でもそこには何もなく、相変わらず砂漠が続いているだけだ。そして見えない壁にぶつかり進めなくなってしまった。訳がわからず進退極まった一団には内輪揉めが起こり、落ちていたシャレコウベがどさくさに紛れて飛んでいく。

 

シャレコウベが空を割った。そのヒビは瞬く間に広がり、破片がジャラジャラと落ちていく。その向こうの世界を小人たちは驚きと共に発見した。そこには暗黒城。そしてそこには間違いなく「世界一の宝」が隠されているはずなのだ。

 

城の中に入り、先を行くと煌く光がただひとつ遠くに見えた。「世界一の宝」だ! よく見ると商品が紹介されている。三種の神器の如き現代人の羨望の的、最先端の技術を誇る家電製品の数々。ケビンには見覚えがあった。紹介しているのはテレビで見た司会者(ジム・ブロードベント)。着飾ったアシスタントの男と女。彼らは飾り立てられたアドバータイズメントにすっかり落ち着いてしまったケビンの両親だった。そういえばあの時の二人はまるで魂抜きのようだった。

 

小人たちは宝につられて一目散に走り出す。ケビンは、これは罠だと言って彼らを止めつつ後を追いかけた。司会者は小人たちに手を差し出す。宝と引き換えにその地図を渡してもらおう。小人は手渡した。ところが司会者たちの正体は悪魔たちだった。伝説時代に君臨する悪魔は、この左団扇的最先端技術に飽和された現世をも含めて世界支配を目論んでいた。さらに最先端技術の先頭を行くコンピューター技術の情報をも体得しようともしていたのだ。そして小人たちは捕まった。地図を取り戻さなければ悪魔に世界を支配されてしまう。彼らは果たして脱出できるのか。少年ケビンよ!

 

…。

 

テリー・ギリアム監督はかつて、サーカスの小人ピエロたちのパフォーマンスを観て気に入っていたということもあり、今作の小人盗賊たちの活躍を描いたプロットを温存していたという。そうして一人の子供を主人公として設置することで小人たちの活躍を違和感なく演出することが可能となった。同時にこの映画は子供のための映画でもある。だから常に子供の目線でカメラ位置の高さを調整し、この映画は常に低い視線から見つめることになる。だから大人たち(普通に大きい人)が映る時は殆ど全身だ。

 

今作を観てもわかるように、撮影は小人たちにとっても多くの物理的な面で相当にハードだったように思われる。テリー・ギリアム監督は語る。

 

「この映画が出てくるまでの間、恐らくこうした小さな人間たちに映画の中のヒーローを演じることができるチャンスはなかったはずだ。もちろん撮影は彼らにとってはなおさらハードだったはずだから、我々も彼らが怪我でもしないようにと常に細心の注意を払っていたよ」

 

見えない壁のシーンがあるが、ここはもともと脚本にもなかった後付けのシーンであった。本来は小人盗賊たちが蜘蛛女に捕まり、そのまま暗黒城へ連れて行かれる設定だったが、予算が尽きてしまい、(巨人が船を下ろしてからすぐ)蜘蛛女と遭遇する海辺から暗黒城へ舞台が移るには見えない壁一枚で充分に予算が浮かせられることがわかったのだった。

 

そもそもこれがどのような映画なのか、むろん基本はファンタジー・アドベンチャー映画である。それでは小人たちがヒーローなのかというと、盗みを働いているから決してそうともいえない。しかしながらケビン少年は悪いことをしている仲間と共に旅をしていかなければならなくなった。そして彼らの魅力に惹かれていくかのように、最後には共に喜びを分かち合うようになるアンチ・ヒーロー軍団なのだった。

 

クライマックスで悪魔と戦う小人盗賊たち。途中で別れて逃げ出した盗賊たちが隙を見て連れ出してきた(カウボーイ、中世騎士などありとあらゆる時代からやってくる)戦士たちでさえ、悪魔が相手では歯が立たない。最後の天誅に創造主が悪を焼け焦げにした。なぜか彼は人間の姿を着て現れた。デカイ顔ではなく、あたかも創造主の存在を現実化するかのようにスーツ姿になって改めて普通に登場して神を作って神を演じた。そもそも宗教論に対しておちょくる姿勢は既に『モンティ・パイソン』シリーズにあることは想像に難くない。

 

創造主は全てを明らかにした。お前たちに盗ませるように仕組んだ。全ては諸悪の根源を排除するためだった。そして役割を終えた盗賊たちは創造主と共に煙にまかれて消えていく。ケビンはひとり取り残された。

 

目が覚めると自分の部屋が火事になっていて、周りは煙で充満していた。ケビンは夢から覚めたようにして現代に戻ったのだ。そこへ消防士が助けにやってきてケビンを救助する。外に連れ出されるや、ケビンは両親が最新家電を家に置いてきた事で揉めているのを見て愕然としている。ケビンを助け出した消防士はどこかで見た顔だ。撮ってあったポラロイドを見たらアガメムノン王とそっくりだった。消防士たちはひと仕事を終えて去って行く。アガメムノンもケビンにウィンクをして消防車に同乗して去って行く。

 

両親が手に持っていたオーブンの中には黒焦げの石が。創造主によって焼き払われ、回収されていったはずの悪魔の黒焦げの石がまだ残っていたのだ。両親はそれに触れようとしたが、ケビンは「それに触っちゃダメ!」と大声で言ったが既に遅く、両親は爆発してしまい、跡形もなく消えていなくなる。ケビンはまたもここでひとりになった。

 

ここで多くの謎が残る。

 

まずは筆者独自の謎だが、所詮は憶測に過ぎず、というのもショーン・コネリー演じるアガメムノンがなぜケビンの住まう現代に来ていたのかという疑問がまず先行する。あるいはなぜアガメムノンと瓜二つの人物でなければならないのか。これは物語としては恐らくアガメムノン自身が偶然、タイムホールを見つけ出したからではないかと考えていいと思う。そして彼がウィンクするのも必然性はあった。そうして謎が明かされるのではないか、のような続編が作られるはずと思われたのだが、1990年にデビッド・ラパポートが拳銃自殺、前述のジャック・パーヴィス事故死と相次いで死去したためにその続編企画も流れざるを得なくなったと推測できる。

 

なぜナポレオン・ボナバルトをおチビのコンプレックスの塊と卑下し、ロビン・フッドの善良性を頼りなきものにし、アガメムノン大王に対する憧れを手品によって失わせたのか。主人公である盗賊こそがヒーローだからであり、現代最新鋭技術を誇る家電製品の表面のデコレーションなんぞ、所詮着飾られた上っ面でしかないものと判断するとなれば即ち、デコレートされたヒーローという銘柄のオブラートに包まれた人間なんぞ実は大して他の人間と変わりがないという表現を試みたのである。だから代々にして英雄として伝えられてきた人物をここに羅列し、貶め、盗賊たちとのバランスを等しくさせる必要があった。ややこしいが、要は前述のアンチ・ヒーローを想定してここに揃えてきたのである。

 

現実面で考えればヒーローは人を救ってくれるが、葛藤し続ける内面での支障となる弊害を常に抱えており、疑いもなく英雄視する子供たちにとってそんなものは考えもしない。外見、行為、勇姿こそが少年たちにとっての憧れであり、自分を強めるためのアイコン(或いはイコンとも取れる)として影響を受けるのだ。ところがケビン少年は英雄視されてきたはずの象徴が完膚なきまでに払拭されてしまい、そうして盗賊たちとの冒険を通して何かを学んでいく、これはリアル・サバイバルである。

 

英雄的象徴を払拭させた人間臭い一面を垣間見ながらケビンは彼らと接触する。国を支配し、王国を築き、生きるために盗み(?)、そうした人物像の数々を見てきた矢先、ケビンの目の前で両親が爆発して消えていった。機械的な現世から離れ、サバイバル精神を養うために、少年はこれから一人で生きていく強さを養わなければならないことを示唆したものなのではないか。成程『千と千尋の神隠し』(01)に近い。

 

豊穣な宝(魂を込めて作った便利な技術に頼った生活用品)に囲まれた現世を否定し、魂を込められた人間の生きる術を創造主はケビンに与えた。そして頼るはアガメムノン、戦うは悪魔の黒焦げの破片、生き残るは自分。この先が続編に続くはずだったのではないかと筆者は勝手ながら思う。

 

そして同時にテリー・ギリアム監督の旧作のいくつかをそのうち観ていくと、風刺と共にヒーロー像を現実に求めているのがよくわかるようになるはずである。ジョージ・ハリスン製作・音楽・主題歌。