ふたりにクギづけ

 

2004年日本公開 監督/ボビー&ピーター・ファレリー

出演/マット・デイモン、グレッグ・キニア

 

先の段階で『リンガー!/替え玉★選手権』を取り上げ、もう少し突き詰めた形でこのファレリー兄弟の、今度は監督作品から話を展開してみたい。

 

明朗活発なプレイボーイのウォルト(グレッグ・キニア)と兄思いの内気だが優しいボブ(マット・デイモン)は結合双生児で、32年もの間人生を共に歩んできている。雪も多く降る島の片田舎のバーガー店でオーナーとして勤めており、グリルでバーガー作りに励む二人のコンビネーションはまさに最高級。息の合った二人にできないものはない、そんな気にさせる二人だが、実は兄ウォルトは俳優志望でハリウッドでのアメリカン・ドリームを目指したがっている。そんな兄の望みを叶えてあげようとボブもその夢に懸ける。二人、一路、ハリウッドへいざ行かん。

 

ハリウッドでアパートを見つけると、先ずはマネージャー、いわゆるエージェントを探さなければならない。そこで偶然アパートで知り合った隣人のモデル、エイプリル(エヴァ・メンデス)がエージェントを一人知っていると言うので、頼みにしてみたら老人ホームの住人だった。それでも一応仕事を見つけてくれはしたものの、笑い者にされてしまい、他の事務所にも問い合わせてみたが結合双生児としては俳優業の仕事はないと断られてしまうこと相次いでいた。落胆するウォルトを弟ボブは支え、そしてまた明くる日に次の仕事に向かう二人は、偶然そこで鉢合わせになったアカデミー賞をも受賞した女優シェール(本人役)に声がかかる。なんとこれだけでテレビドラマの主役、しかもシェールと共演をするというオファーを貰ってしまうのだ。

 

一方、ネットで知り合って3年のメル友、アジア系女性メイ・フォンと初めて会う約束をしていたボブだが、彼女にはまだ兄弟が結合双生児であることを明かしていなかった。何も知らせずにその場で会うとなると、驚かれて逃げられてしまうだろうことを心配しているボブをウォルトは怒りつつもやむを得ずに同伴することにする。左からウォルト、ボブ、そしてメイの順番に車のシートに座らなければ。当分の間、この知られていない状態で逢瀬を重ねならなければならなくなった兄弟。そしてそのメイにも兄の初めてのオファーを報告するのだった。

 

シェールのわがままで企画も難なく通り、ドラマの撮影が始まったのはいいのだが、二人の体がくっついたままでもやはり画面から外れるように配慮しなければならない。しかもボブが結合双生児であることがメイに知れてしまい、連絡が取れなくなる。そんなこんなで二人には多くの困難が伴われたが、そのうち世間にも二人が結合双生児であることが分かってしまい、一時は兄の降板が検討されたが人気が高騰する。しかしスポンサーが撤退してしまったために番組は休止せざるを得なくなる。このままでは兄の仕事もうまく行かなくなるし、一方で弟の恋も成立しなくなる。弟に以前から反対されていたことを兄ウォルトは決意した。

 

いわゆるシャム双生児の障害を扱ってはいるのだが、少なくともこの障害そのものを笑いモノにはさせないように当然配慮されている。むしろシャム双生児、或いは結合双生児の障害はあっても二人なら何でも出来るぞ、という卓越したコンビネーションを完璧にモノにしてスポーツなどを次々とこなさせるあたり、観客としての当事者たち、或いはそれに近い人たちにとってなんと励みになることか、筆者も観ていて安心でき、かつ笑えてなおかつこの裏側の製作過程を調べるにそれなりに解釈してみると、またぞろ色んな考えが浮かぶものだった。またこの作品はエンド・クレジットも最後まで是非ともしっかり観て頂きたいものである。

 

筆者が以前に拝読した「バカの壁(著:養老孟司/新潮新書刊)」によると、「個性」という言葉に疑問を持っているそうで、要するにメディアが存分に発達した社会のお陰で或る事が大衆的に知れ渡ることにより常識が完成される。しかしそこにある他とは違うものが「個性」だとしている。その言葉を使って「個性を伸ばせ」「個性を尊重する」などと言っているのはおかしな話だ、他の多くの人が持っている考えとは違う主張だけを示してばかりいるとそのうち変人呼ばわりされて精神病院送りになるぞ、極論、例えばそういうことで「個性」ばかりを重視しているといい結果は返ってこないかもしれない、といったところだ。

 

そこで筆者が思うのは、これによって更に進むと、およそ大衆的にも統一された規則の下に生きていく中で、多様性に溢れる人間関係を器用にすり抜けられるかどうかは本人のバランス次第ではないか。

 

映画そのものにもある種の大衆的要素が不可欠である。誰もが面白がるものでないと多くの人が来ない。そのように映画は出来ているし、他のメディアや商売でもそうしたニーズを察知しないと売れないものも売れないのと同じことだろう。そもそもこの『ふたりにクギづけ』という作品も日本公開が危ぶまれていたというが、ハンディキャップはユニークな個性であることを教えると共にハートウォーミングな結末になっていることをも併せて宣伝していこうと考えて公開に踏み切ったようである。

 

バカな考え一つでは個性であるはずのハンディキャップをより一層伸ばそうということになるので事態は益々深刻になるというそんな冗談は幾らなんでも有り得ない。しかしユニークとは主に「唯一無二の」という意味なので、あなたにしかない個性にするにはどうするか、活かすも殺すも先ずは当人次第であることは言うまでもないことだが、結局は周囲が受け入れるか否かで大衆性が問われるだけである。その大衆性、換言すれば常識そのものを育成させていくのが、もはや現代にあってはテレビであり、メディアであり、映画なのではないか。

 

実際にファレリー兄弟は試写を繰り返して観客の反応を逐一チェックし、シーン・カットを繰り返しつつ大衆が納得行く、楽しめる、泣ける、心温まる、そんな映画を毎回作り上げてきている。観客の反応次第で大衆性が左右され、自分たちの紡ぎ上げてきた物語に偏重が見られないかを確認していく作業の必要性を一切拒むことがない。この作業はハンディキャッパーの映画でない場合においても、通常においてよく行われる行程だが、こと彼らの場合はより一層重要なプロセスだと思う。

 

筆者の記憶が確かならば、シャムというのはベトナム戦争等を経て草原や田畑地方などに散布された薬品が妊婦や胎児に影響を与えたことに起因するものだったと思う。あまりにも深刻に受け取らざるを得ない背景しか確認できないため、それを知った上でこの映画を観るという行為にスイッチできるかどうか、それも本人次第であり、しかもこれはアメリカ映画だからアメリカ人にもこんなことあるのかという拒否反応が強く濃厚に出てきそうではある。それでも、である。明るく捉えるだけの切換えを観客に切に要求すべきであり、それだけにシナリオに力が入らなくてはいけない。その意味ではこの映画は随分と大胆である。寧ろファレリー兄弟はやっぱり大胆なのであった。

 

ひとつの物事に対して同じ考えを持つ人が10人いたとしても、別の物事に対して同じ考えが10人もいないというのが、昔から在る人間社会である。だから一人一人が同じであるとは必ずしも言い切れるわけではない。クローンじゃあるまいし、全員が同じではどこぞの軍事パレードを歩く軍隊みたいなものだ。逆にバラバラじゃないと人生面白くもない、という発想も出てくるだろう。そのなかでいかにマジョリティなテーマを映画に取り込むか、これが常に問われているのである。

 

更に踏み込んで、例えばこの映画を観た後に出てきた感想などでポジティブに考える人と、そうでない人と大きく分けると当然その二つになる。これは一人一人の性格が違うだけで中にはまあまあという人も出てくるだろうが、賛否両論という言葉が織り成すこの状況、或いはこの結果はいわばそこにバカの壁があるということだ。そしてこの映画を機に自分の考えが変わるという人も世界のどこかにいるはずだ。その人の性格とまでは行かないまでも個性が変わる。人間は個性に変貌を来すことも可能な生きものであるはず。さて読者各位はこの映画を観ていかに考えが変わるものか、是非ともお試しを。