エレファント・マン

 

1981年日本公開 監督/デヴィッド・リンチ

出演/ジョン・ハート、アンソニー・ホプキンス

 

現実問題としてハンディ・キャップを抱えることになる原因には様々なものがある。少なくとも筆者がこれまで見てきた限りでは、例えば戦時下などにおける被爆による後遺症だとか同様に負傷だとか、はたまた農薬が原因だとかただ単に交通事故だとか、全てひっくるめてヒトが生み出した科学技術によって起因する、ゆくゆくはいわゆる皮肉なものばかりに起因してきているように見えてくる。だが、この映画の場合はそうではない。不運が生み出したものに起因している。

 

あくまで設定上だが、主人公である実在のジョン・メリック(ジョン・ハート)のハンディ・キャップの原因として、胎児であるうちに妊娠中の母親が象にぶつけられてしまったと映画では説明されている。まさしくヒトの手によらぬ自然そのものの衝突、ここに起因するものだった。

 

本名はジョセフ・ケアリー・メリック(Joseph Carey Merrick)、1862年王朝時代だった当時のイングランド生まれだが、僅か27歳という時にベッドの上で静かに息を引き取ったという。生後21ヶ月の頃には身体に変化が訪れ、一部を除き皮膚、骨格、頭部などの表面が婉曲、肥大、膨張、変形などの症状が表れるようになり、社会でやっていく為にはかなり多くの部分でうまくいかないまでになってしまった。更に悪いことにはまだ幼いうちに母親と死に別れ、継母も彼の面倒をみるのがイヤになって彼を手離す。やがて彼は手に職をと思って見世物小屋へ仕事を見つけに行く。驚いたことに実際の彼は、その職場ではイヤな思いをしたことが一切なかったという。そのうち世間では見世物興行への取締り、或いは排斥が意識的に高揚されるようになり、そのうちに彼にも仕事がなくなる、金は騙し取られるなどの憂き目に遭う。そうするうちにロンドンで外科医フレデリック・トリーヴス(映画ではアンソニー・ホプキンスが演じる)に拾われ、彼が勤める病院に保護される。そこをメリックの棲家にするには寄付が必要なので新聞に投稿した。その反響は大きいものとなり、社会的にも話題になってアレグザンドラ皇太子妃も彼のところへ訪問に来るほどだった。こうしたメリックの人生を最後まで見届けたフレデリックは自身の手記に留め、やがて舞台や映画の原作となり、舞台では後々デビッド・ボウイやマーク・ハミルらが演じるところとなる。またほぼ同時に制作会社を立ち上げたばかりのメル・ブルックスが『イレイザー・ヘッド』(76米、81年日本初公開)を観て気に入り、デヴィッド・リンチを今作の監督に起用した。本編中でメル・ブルックスはノン・クレジットだと思うが、それというのも彼の名前を頭に出すとそれまで色んなハンディ・キャッパーをコケにした(筆者にはうまく汲み取れない?)ギャグを映画に盛り込みすぎてきたので、この映画ではさすがに名前は出せなかったようである。なお、「作品生誕25周年記念ニュープリント版」(04)では彼の名は改めてクレジットされていたと思う。

 

こうした見世物興行は事実上、1840年代から1940年代まで行われてきており、アメリカの全国各地を多くの団体が回ってきていた。何が見世物にされてきたかは既に前述したとして、しかしこの時期の終焉にもなると、科学も技術も社会も発展し、ゆくゆくはこの進化のためにこうした類の障害者たちの発病の原因が皮肉にも我々の技術等に起因することなども自覚されるようになっていき、従来から充分に周知されていた呼び名でもあった「freak show」は次第に意味を持たなくなっていった。これはアメリカのみならず本作の舞台であるイギリスでも次第に考えられていったことだった。

 

筆者にとっては驚いたことに、この映画にはなんら感想が微塵も浮かび上がってこなかった。さすがにこれは失言だが、悲しさを引き起こす自伝的な要素と現実逃避が可能な夢想的な要素とが、全編に亘って巧く相容れていない感があったからだと思う。冒頭で象が暴れだし、一人の女性が寝たままの姿勢で首を振って、ただひたすらに喚きに喚く。喚き声は大幅に歪ませた状態の音域にまで持っていかれ、そんなシーンがのっけから説明もないまま暫らくの間見せつけられるので、冒頭で一体何があったのか、観る人はまずそこに悩まされるだろう。その説明は後に道芸師(ジェフリー・ジョーンズ)の呼び込みで明らかにされるが、同様のシーンは後半にもあり、メリックが正装し、舞台の観客として招待席に迎え入れられ、初めて舞台をその眼で通して鑑賞するところである。そこには初めて夢想化されたメリックの想像する世界が、スクリーン枠隅々まで広げられていくことを表現していると筆者は当然解釈している。舞台俳優達の衣装、大道具、小道具全てがファンタジーの世界へとメリックを導き、彼自身がかねてから求めていた世界がそこにあることを確認し、彼は夢見心地になる。

 

デヴィッド・リンチ監督は夢を操る映画人としての第一歩をここで踏みしめたのではと筆者は考える。もっともそうとは限らず、前作の『イレイザー・ヘッド』で既に重苦しいノイズを全編に這わせた奇怪な世界を表現している。しかし残念ながら、筆者にはこの先がまるでさっぱり分からない。理解するには筆者の理解度をあまりにも大きく越えており、至難の業であると判断しているので、この監督作品については敢えて得意分野とはしないことにしたいほどである。それでも一応は観ているけれども、そのうち彼の監督作品を観ていくと次第に奇形(畸形)からは遠ざかり、一方で音と夢からは断固として離れることがなく、観る者にとっては迷宮入りにさせられる映画が多くなってきている印象が強くなっていく。この頃のリンチ監督はいつも語っていた。「解釈は自由だ」。

 

なんの感想も出てこないというよりは、正確には耳鳴りを呼び起こしそうな音に翻弄されたからこそ余計にわからなくなったということではないかと自身思うのだが、例えばガコンガコンとずっと鳴り響く工場内の音は19世紀に実際あったロンドン産業革命そのものの表れではあるが、どうにもドラマとリンクしない。そもそも幼少時のリンチは、古い木の根っこの穴の奥で疼くようにゴワゴワと蠢く蟲の群れに魅了されたという。その穴の奥の先はもちろん闇であり、それは人間の潜在意識にも通じていた。両耳を両の手で塞いだ時のような鬱陶しいまでに低いノイズが脳内を駆け巡るのを映画館で実現させたということになる。脳内を包む音響に安堵感…。やがて音を意識した映像は少なくなっていき、寧ろ映像の中にある矛盾から夢の世界を描いていくようになる。その夢の迷宮の入口は耳の穴であったり(『ブルー・ベルベット』(86))、暗闇の中の道路(『ロスト・ハイウェイ』(97)や『マルホランド・ドライブ』(01))であったり、はて、『インランド・エンパイア』(07)ではどんなだったろう。こうして観ていくと、あたかも『不思議の国のアリス』(’53年日本初公開)にも底通するものが恐らくあることが見えてくる。

 

そんなリンチ監督だが、『砂の惑星』(84)以来、奇形を登場させるという映画をどうやら作らなくなっているようであり、それというのもこの『砂の惑星』で失敗したからだと言われている。フランク・ハーバート原作によるビッグ・バジェット・ムービーだが、リンチ監督はこの原作には感情移入が出来なかったそうだ。登場人物の奇形なる容貌にのみ心血を注ぎ、ストーリーは粗筋を立てるのみに留めてしまい、ドラマ的要素が欠如したものになり、実際にSFとしての見応えは充分あるのだが、なんだか物語が端折られがちで所々で物語に追いつかせてくれない映画だった。それ以前にこの『エレファント・マン』では、リンチ監督(脳内で何を組み合わせたか不明なままの反応だと思う)にとっての音や奇形に対する魅力とは裏腹に人間の尊厳を訴えた壮大な感動叙事詩として祭り上げられ、アカデミー賞候補にまでなったから、彼にとっては恐らくまあまあ有難いけど、いい意味でお門違いな賞賛だったことだろう。

 

こうして二つの要素(解放的現実の世界と独歩的夢想の世界)にスパッと(筆者が勝手に)区切ることの出来る映画ではあるが、ドラマの素材としては実話であるだけあって粗末に扱うわけにもいかないだろうし、実際、リンチ監督はこのメリックという青年の生涯がいかに凄惨たるものだったかを忠実に描こうとしているのかは充分に把握できるもの。彼がいかなる誹謗中傷を受けてきたか、想像すらできもしないと院長(ジョン・ギールグッド)も嘆いている。見世物とは何か、それで生活は(結果的に)可能だが、今でいう格差社会とはあらゆる面で要素は異にするけども、大衆の中での迫害観念が常に自身につきまとわれ、人混みの中で立ち居振る舞いが堂々とできないのも、そもそもそのときに限って見世物としての立場にいないからである。そこに見世物小屋がない。ただそれだけのことで、大衆ないし野次馬の目線が違うのも不思議な話だと思ったものだった。

 

ジョニー・デップのファンだったらご存知と思うが、エレファント・マンと呼ばれたジョン・メリックは他の映画でも出ており、然しながら一応脇役であり、それは背景を示すひとつの要素でしかない。『フロム・ヘル』(02)であり、デップ、へザー・グレアム、監督はヒューズ兄弟の作品であり、デップはアヘン中毒の警部を演じた。舞台はロンドン、時は1888年のまさに産業革命下にあった。その時に連続して起こっていた猟奇的殺人事件の犯人探しをすることになる。その犯人が有名な「切り裂きジャック(Jack the Lipper)」である。娼婦ばかりを狙い、股間を抉るというあまりに見るも無残な死体が続出し、鋭利な刃物によるものと判る傷痕の数々などから犯人は医者繋がりと踏む警部。その捜査先に外科医師陣によるメリックの発表会が行われ、この時メリックは本作同様に裸体を披露させられる。この同時性が双方の作品の面白さを益々深めている気もする。

 

実際に犯人は明らかにならなかったそうだが、一説ではメリックの面倒を見ていた外科医師トリーヴスこそが切り裂きジャックなのではという推測もあるというのだからここまでくると興味なしでは観られないだろう。

 

ラスト(ネタバレ)になると、メリックは自分の死に際を自分で決めた。その方法も知っていた。至福の時がひとたび過ぎれば熱さを忘れ、またぞろ迫害観念ないし被害者意識に苛まれ続けなければならない。どんなに右から左へ受け流せようとも、メリックにはそれがはっきりと目に見えていた。彼はこれを既に現実として自覚しているのであり、彼に至福の時がもう二度と訪れてこないだろうことを予測している上では当然の選択だった。そして母親の元へ還ることを選ぶ。同時に彼は微塵も親を恨んでいなかった。それは彼が常に母親の写真をいつも持ち歩いていたから。

 

最後に、この映画のように先天的な形でハンディ・キャップを背負う人間が見世物にされる時代もかねてから存在していたが、いまやそういう傾向は無きにも等しく、例えば小人症を患った人たちはそれでも見世物のファンタジックなキャラクターを売りにして方々を巡っている。これをはじめとして善良的な解釈を伴って認識されていく流れがある状況は継続されるに相応しい。

 

 

イレイザーヘッド

 

1981年日本公開 監督/デビッド・リンチ

出演/ジョン・ナンス、シャーロット・スチュワート

 

 

フロム・ヘル

 

2002年日本公開 監督/ザ・ヒューズ・ブラザーズ

出演/ジョニー・デップ、ヘザー・グレアム