リンガー! 替え玉★選手権

2007年日本公開 監督/バリー・W・ブラウスタイン

出演/ジョニー・ノックスヴィル、ブライアン・コックス

 

題字にある「リンガー(Ringer)」とは俗的表現で「身元や経歴などを偽って出場する選手または馬」と、マイ辞書にはひとつはそういう意味として載ってある。また「瓜二つのもの」ともある。

 

思わぬ借金ができてしまい、頭を悩ませるスティーブ(ジョニー・ノックスヴィル)。そこへ悪賢い叔父ゲイリー(ブライアン・コックス)がとんでもない提案をしてきた。叔父にも借金があり、借り手のチンピラがスペシャル・オリンピックスを痛く気に入っているのを知り、賭けを申し出て借金をチャラにすることを目論む。そのためにはスティーブに知能障害者の振りをさせてスペシャル・オリンピックスに出場させることを思いついてしまう。常識では考えられない、なんと失礼千万な話ではないか。

 

ところがこれがまた面白い。良心的に描かれていることは勿論で、結果、嫌悪感を抱くこともなく観ることができた。劇中には実際の障害者たちも出演しており、彼らが抱えているコンプレックスを赤裸々に告白するなど、それを聞いて不本意にも替え玉になった主人公の失意のこもった複雑な思いが丁寧に表現されている。一方でこうした類の障害者たちは、何も全てとは思わないが時折言いたいことが伝わり難いことが彼らにはある。ところがこれを巧い具合にギャグにしてみせた。ギャグには間が必要な時もあり、ここではアメリカン・ジョークならではの間があちらこちらに用意されており、いかなるけれんもなく笑えるように配慮されてもある、なかなかいい出来のコメディなのだ。

 

この映画を作ろうとプロデューサーとして旗を揚げたのがピーター&ボビー・ファレリー兄弟である。メジャーとして最初にヒットさせたのは『ジム・キャリーはMr.ダマー』(95)で、ここでジム・キャリーと初めて出会い、約5年後には『ふたりの男とひとりの女』(00)で再びタッグを組み、キャリーはこの映画で二重人格の男を演じた。ファレリー作品として他にベン・ステイラーの『メリーに首ったけ』(99)やジャック・ブラックの『愛しのローズマリー』(02)などがあるが、こうして一望してみると例えば比較的表情の動きも豊かで、かつ体も柔らかく、アクティブかつハイテンションな男優が揃っていることがわかる。

 

ファレリー兄弟に関してすでに知られているのは映画の内容が下ネタ、障害者、動物虐待、フェチシズム、と映画界では少なくともビミョーな題材が連続して作られてきていること。しかしながら彼らが物語の根底に常に潜ませているのは「平等」である。このテーマを常に映画の中に内在させ、物語としてもハッピーエンドを最後に目指しているのだ。

 

さて、なぜこの作品を次に持ってきたのか。障害者に対する呼称表現に関して最も分かりやすい作品の一本であると考えたからである。前述の「freak(s)」の場合は五体満足ではない場合を主に対象とした表現だと仮定したが、ここでは知能発達障害者を対象にした場合となるか。本作のDVDには英語字幕もあり、これを参考にしてみると驚いたことにひとつのことを数多のパターンで表現されていることが分かった。簡単なことかもしれないが、日本語では殆どと言っていいぐらいひとつの表現で括られそうなものを、英語では意外な数の表現パターンがあるのだった(逆に正確かつ直接的な一語にまとめた単語があまり聞かれない)。但しこれら全ての表現が正当かつ失礼のないものかどうかはまだ未熟な筆者には判断できかねる。

 

まず主人公スティーブが偽った障害者の症状の内容を咄嗟に決め、看護ボランティアのリン(キャサリン・ヘイグル)には「Highly functioning developmentally disabled(高機能発達障害)」と説明している。またスティーブは教会で懺悔する時に神父には「I've been pretending to be mentally challenged.」と話している。同時に「I fixed to the Special Olympics.」とも話している。叔父のほうからは「moron(知能が8歳~12歳程度の成人)」という表現もあり、また「retard(遅らせる)」という表現も。「moron」に関しては日本語では魯鈍(ろどん)というようである。会話にも出ることがなく馴染まないだけにさすがに一度では覚えられなさそうな。「disabled」は「出来ない」で「ed」と過去分詞に変化させて形容詞化、「mentally challenged」は「精神的に挑戦する」という意味合いでゆくゆくは「いつも出来ない何かに常にトライする」ことを表し、この後に続く「man / people / person」を省略したのだろうと思う。省略しないと例えば「a one-eyed man(片目の人)」など。「fix」は「固定させる」で、要するにスペシャル・オリンピックスに自身を置いて馴染ませる。英語にはそもそも文語体と口語体をはじめとして様々な表現方法が存在するもので、調べるだけでも結構大変なばかりか、寧ろ面白いと思う。

 

ここで開催される「スペシャル・オリンピックス(Special Olympics)」とは、当時配布されていたチラシ宣材によると「知的発達障害のある人たちに日常的なスポーツトレーニングと、その成果の発表の場である競技会をサポートする国際組織である」という。そんな組織がこのモラルアウトラインぎりぎりで完成された映画の製作になんと全面協力を果たしたのである。そして副題が付かない段階で2006年開催の東京国際シネシティフェスティバルでも上映、観客の絶大な支持を得て翌年に本公開に踏み切ったのだった。

 

障害者に対する呼称とは離れるが、主人公が名前を偽る際にファミリー・ネームを「Dahmor(ダマー)」とした。その後に「「ダメー」ではなく(字幕では with an "O")」と付け加えてある。明らかに『ジム・キャリーはMr.ダマー』からファレリー兄弟のルーツを探らせんばかりの配慮に見える。この原題が「Dumb and Dumber」で俗的には「馬鹿者」という意味があり、更によく"Dumb! "と言うアレである。また更に比較級をも付け加えてあるからいかにお馬鹿キャラであるかを強調したタイトルになっている。

 

そこでその「Dahmor with an "O"」だが、なぜ「"O"も一緒に」としたのか。「dumber」には「O」が付いていないが、発音は似ているから「dumber(バカ)」ではないとするために「O」を付け加えて名前であることを強調したややこしいジョークと筆者は勝手に分析している。さて、これをどうカタカナの名前にして日本語字幕に持って行くか。名前はいずれにせよ「ダマー」であり、「バカ」という意味のダジャレをここに持ってこないといけない。そこで「ダメー」だった。素晴らしく解りづらいではないか。このように意味が解らんなと思って英語字幕にしてみると、墓穴を深く掘り下げて英語辞書で調べる必要に駆られてしまうから、言語というものは実に厄介であり、字幕にかかると尚更なのだ。

 

こんな駄洒落も登場する。「What time is it when you have to go to the dentist?(何時に歯医者に行けばいい?)」という問いに対し、答えは「Tooth hurty.」と。「Two thirty(2:30)」をかけたものだが、「hurty」という単語は実は辞書には載っていなかった。古いマイ辞書だから載っていないのも無理はないかもだが、少なくとも意味は充分に伝わる。駄洒落として完成させるためにも時にはこじつけも必要なのだ。結果、主人公たちはドン引き。これが日本語字幕では「6:48(ムシバ)」となっていた。これも字幕作成側の悩みの種だろう。何より分刻みで診察券の裏に予約時間を書く歯医者が存在したら非常に凄い。

 

次に「disabled」に触れるとして、否定的意味を持つ接頭辞「dis」と過去分詞「ed」を外した「able」。これをそのままタイトルにした日本ドキュメンタリー映画がある。2001年、小栗謙一監督作品。ダウン症と自閉症をそれぞれ患う青年ふたりがアメリカに行き、ホームステイを通して周囲の人との交流を深め合うというものである。恥ずかしながら筆者は未見だが、言語も異なる中でお互いが戸惑う、或いは受け入れられないという状況を生み出す溝を如何にして埋めていくのか、それら壁の数々を徐々に静かに砕いていくことを可能(= able)にしていく過程を見つめたものだろうかと考える。そして最後には「何かが出来る」ことを喜び合うものだということも。

 

主演を務めたジョニー・ノックスヴィルはこの作品より先に『ジャッカス・ザ・ムービー』(04)でも出演。あんまりお下劣なので正直オススメできない(『モンティ・パイソン 人生狂想曲』(83・日本未公開)同様に嘔吐保証?)が、常識上、出来もしないことを彼らは見事に次々とやり遂げてしまった。強引かつ無茶苦茶な実験の連続的重ね方だが、人は出来ると思えば何でも出来るが無理である。そしてそれが生きることの目標でもあることを教唆しているかのようにも見えるが無理である。同時にハンデがあろうとなかろうと結局関係なくなるのだが、場合によっては無理である。観たら解ります。

 

再び「スペシャル・オリンピックス(Special Olympics)」について触れておく。ご存知のように「パラリンピック」というのがあるが、これは第二次大戦終戦後に戦火などで半身不随となった者たちなどのリハビリを目的に競技会を開催したのがそもそもの根源とされ、名称も「paraplegic + Olympic」からとられたもの。その後の1962年、一方ではユニス・シュライバーという女性が自宅の庭を開放して35人の知的障害者を集めてデイキャンプを行った。これがやがて組織活動につながり、1968年には第1回スペシャル・オリンピックスと銘打ってシカゴで開催した。暫らくして後に「Olympic」の名称を使う許可も正式に受理、現在では数年おきに開催されている。日本でも開催されているという。「パラリンピック」と平行(parallel)して行われることから「もうひとつのオリンピック」ともいわれるようになった。

 

最後にこの言葉、「special」。この映画では実に深い言葉であると思う。周知の通り「特別」という意味だが、深いだけにさてどう説明したものか。一説では特殊能力者とのこと。幾らなんでも超能力のことではない。

 

本編の中で知的障害者の仲間の一人が「僕達は『特別』なんだ」と言う。その青年は指のジェスチャーも交えている。奇特な意味にとるか、はたまた良心的な意味にとるか、少なくとも前者はないだろうが筆者には「社会に心から歓迎されなければならない」存在として暗に示されているものと考えるべきかとも思う。或いは実際に社会で生きていけなくても最低限出来うる範囲の形で迎え入れられるべきか。幾らなんでも「特別扱い」なんていうのは始末が悪い。宣材にもあるように「Make It Special」というのは「特別なものにしよう」と直訳できる。社会から特別視されざるを得なかった存在の人物たちが、社会に迎え入れられるべくしてこの競技会で観戦して彼らを勇気づける。最後にはエルマー・バーンスタインのアノ名曲と共に喜びを共有する。

 

ユニス・シュライバーは言う。「障害者は出来ないのではない。社会が彼らを出来ないと思って、出来なくさせているのだ」。名言と思う。これは社会には障害者への差別意識が未だ残っているというその証左ともとれる発言と筆者は考えたい。彼女の正式な名前はユニス・メリー・ケネディ・シュライバー、ジョン・F・ケネディの妹だ。

 

そしてこう締め括る。ファレリー兄弟作品の多くの場合、例えば『ふたりの男とひとりの女』ではコメディ仕立てながらもハンディキャッパーに関して「擦れ違い」や或いは「誤解」を巧く見せてくれている事がわかる。所詮人間は人によっては短絡的で早とちり。人間はこれだからやってられん、などと言わしめるほどに相手が誰であろうと誤解は常に起こるし、うまい具合に伝わらないのも当然のようにある。ファレリー兄弟ふたりは、こうした事象というものをしっかりと把握しており、偏見なくストーリー作成に活かしているのだ。正直、彼ら二人の作品群は原則としてオススメである。

 

 

ジム・キャリーはMr.ダマー

 

1995年日本公開 監督/ピーター・ファレリー

出演/ジム・キャリー、ジェフ・ダニエルズ