フリークス 怪物團

1932年日本初公開 監督/トッド・ブラウニング

出演/ウォーレス・フォード、オルガ・バクラノヴァ

※画像は2005年リバイバル上映時のもの

 

さて、初めにどの作品から取り上げたらよいか悩ましいところ。そこで障害者を主人公にした最も古い映画だろうと思ったのでひとまず『怪物團』。チャップリンの『街の灯』(1931)の他に恐らくこれが最古だと思ってよいらしいが、この年代では筆者も当然出生しているはずもない。20年前になってようやくDVDソフトで内容を確認することができたぐらいのもの。実際観てみると、とんでもないほどにスキャンダラスな内容だったことに驚いた。なお、タイトルはいつぞやのリバイバル時に『フリークス/怪物團』と改題され、ビデオソフト等では『フリークス』のみに留めている模様である。

 

出来事の舞台はサーカス団内、タキシードを着ている主人公の外見はまだカワイイ子供のようでいながら、実に大人びた小人である。その主人公は(同じ小人の)恋人と結婚の約束までしている。ところが同じサーカス団員のブランコ女性に恋焦がれ、浮気に走っているのだ。この小さな恋人もまた子供みたいでありながらちゃっかり化粧しており、マスカラもしっかり塗ってある。健常である女性に恋焦がれる主人公を見て嫉妬するところもなんだかいじらしく、まるでお遊戯会に見えてしまうほどのギャップを感じながら全編を通して観ていかなければならないような複雑な思いに陥らざるを得ない、しかるに意外にも泥沼にはまる大人たちの世界がここには描出されているのだ。

 

団員にはごく普通と思われる健常者も多少所属しているが、一方で見世物にされていたハンディ・キャッパーたちも数多く所属。屹語症だったり、下半身がないから両腕だけで移動とか、両手両足がなくてもタバコに火を点けるという器用さというか、シャム双生児とかその他諸々なのだが、比較的小人が団員の多くを占めているようだ。ともあれ映画1本にこれだけ多くのハンディ・キャッパーたちが集まるのも筆者自身見たことがなかったといっても過言ではなかった。とにかく次々と現れてくるのでビックリしてしまった。多分、白黒の映像がより一層彼らをグロテスクに見せてしまっているからだと思う。

 

そうしたサーカス団の人員構成の中、やはり健常者と身障者との差別感覚は存在していた。そして主人公の小人が恋焦がれた女性ダンサーにプロポーズし、彼女との結婚祝宴の時に彼女が酒で悪酔いしたために本性を表したところから展開は変わっていく。主人公の小人男性の遺産が目当ての結婚だったのだ。

 

原題も『FREAKS』だが、そもそもの意味は「奇形」「変種」という意味で現代ではどうやら「変態」という、人間の中身の非常識さをも含めて指すようになったようでもある。

 

freak showという言葉があり、いわゆる見世物小屋のことをいう。巨人と呼ばれるほどの背の高い人、幅広なおデブ、奇形児(と呼ばれる者)、さらに火を飲み込んだり、剣を飲み込んだりするいわゆる大道芸人が現れては見世物をしていく、いわゆるこれもサーカスの原型ではある。そしてこれまた意外にも見世物にされたのは人間だけではなかった。双頭鷲、双頭牛、片目豚などの動物さえも形状が珍しければなんでも見世物にされていったという。そんな動物たちがはたして実際に存在していたのか? 19世紀半ばからこのような数多くのfreak showは全米各地を転々として巡業してきていた。一時期では国内でもテレビのスペシャル番組などに世界「ビックリ人間」などと称し、そんな人たちにタレントたちが訪問してレポートする。どこか出かける度に座れない、歩けない、迷子と間違えられる、びっくりされる、注目される、そんな苦労話も多く聞かれる反面、なかにはギネス記録保持者になる人間も数多く出てきている。こうした形で映画と共に差別意識なく良識的見解に基づくメディア番組など長きに亘って視聴者の彼らに対する考え方は大幅に変わってきたと思われる。実際、筆者も彼らをビックリ人間として見てきたが、所詮それだけのことに過ぎないし、これは愛嬌だと思う。

 

この「ビックリ人間」という呼称は予てからテレビによって産出された俗語的なものだろう。あくまで語呂として馴染み易く、覚え易くした結果と思うが、この前提の上では確かに他に表現しようがない。では英語ではどのように表現されるのか。あちらこちらの映画で散々「freaks」と表現されてきているが、何しろそれ以外の表現が少なくとも現時点でなかなか聞かれるものでもない。しかも英語をはじめとする外国語なので、全てまでは幾らなんでも聞き取れもしなければ、長い歴史の間にこの世に生まれてきた映画の数から言ってもきりがない。筆者にはゆくゆくボキャブラリーの展開にも限界があるのだった。

 

はたして「びっくり人間」が最適な呼称かというと、それはまあ人による。自分のことで話が盛り上がってくれたらそれはそれで嬉しいという人、馬鹿にしてるのかと啖呵を切りそうな人の二種類に大別されよう。

 

本作の監督は元々サーカスの団員でもあったトッド・ブラウニング。この映画が封切られるや否や、観客に多大なショックを与えたために彼には一切仕事が来なくなってしまい、ここで彼の映画の人生が幕切れとなったという。イギリスでは約三十年もの長い間この上映を禁止させた。日本国内では2005年にデジタル・リマスター版が封切られ、話題となった模様。監督の人生の転落にも拘らず、この映画が初めて世界で高く評価されたという。当の監督がこれを聞けば俺の人生返せと言いたくもなる?

 

そしてこの小人たちの持つ症状名は小人症(dwarfism)という。こうした症状を持っているにも拘らず、数十年後の映画ではファンタジーというジャンルにおいて実に多くの活躍の場が与えられているのも事実である。またこの映画をホラーだと言う人もいるかもだが、それ以前に小人症以外の症状ないし外傷による障害者にもホラー映画を中心に活躍の場が与えられていることも事実。喜べ?

 

この『FREAKS』と似たようなタイトルで『ミュータント・フリークス(原題 : FREAKED)』という日本未公開映画がある。東京国際ファンタスティック映画祭’93で上映されたきりであまりに過激な内容なのか、少なくとも国内では劇場公開にまで至らずビデオ化もされなかったらしいが、ノンクレジットでキアヌ・リーブスも出演。人体の融合を研究する科学者がいろんな人を合体(?)させちゃうドタバタモノらしく、キアヌも既に実験体として犬人間として出演しているという。ちなみに彼はミュージシャンでもあり、バンド名は「DOGSTAR」だった。イヌつながりで考えて良いらしい。何故ノンクレジットかというと、『ビルとテッドの大冒険』(89)&『ビルとテッドの地獄旅行』(91)でコンビ共演したアレックス・ウィンターがこの作品の監督だからということでいいと思う。全米のヤング層が熱狂したというこちらの『~大冒険』をついでに簡単に説明すると、ふたりの落ちこぼれ学生が歴史のレポートを完成させる為、偶然そこで出会った電話ボックス型のタイムマシンでナポレオン、ソクラテス、ビリー・ザ・キッド、ジャンヌ・ダルクなど各時代へタイム・スリップしては現代に連れ込んでは集め、レポート発表会で当時の時代の様相を彼らに語ってもらうという、傍から聞けばおよそ荒唐無稽ではあるが、これがまた本編は意外と整った仕上がりで、しっくり来て面白いのであった。二人揃って最高の喜びを表現する時はエレキ・ギターを弾くマネをする(もちろんバックにはエレキ・サウンドが流れる)。ここを執筆する時点で最近流行していたエア・ギターの先駆者は実は彼らかもしれない。

 

話がそれた。とまれ、ホラー映画などではハンディ・キャッパーとしての意識はされないものの、そのなかで現実味を帯びて見てみると社会生活面では身体障害者のような気もしていく(自分で言うのも変だが、これは要するに筆者自身が特別意識していない表れでもあるわけで)。例えばホラー映画の中でそれを前面に押し出してしまうと本来のホラー映画にもならない。しかし罪を犯せば法律の下で公平に裁かれる。例えばアメリカでの場合、元より人は生まれながらにして平等の権利を与えられているのだから、この場合でも同じ人間であることに変わりはないのだ。

 

五体という表現があり、ゆくゆく五体満足という表現も出てくるが、どうやら調べた限りでは四字熟語にはあてはまらないらしい。一般大衆的に無意識のうちに四字熟語の一つに取り込まれている可能性も否定できないのである。

 

それはまあそういうことなのだが、この『フリークス/怪物團』には予想以上の数のハンディ・キャップが寄せ集められている。これは見世物を仕事としている人間たちの織り成すドラマを含有する映画であり、この一冊はこの映画から始まり、それぞれの障害についていよいよここから、やたらに多い蜘蛛の子を散らすが如く広範囲に亘って広げることになるのだ。さあ大変。

ようこそ。

 

 

ビルとテッドの大冒険

1989年日本公開 監督/ステファン・へレク

出演/キアヌ・リーヴス、ジョージ・カーリン