「東京ラブストーリー」が面白かったので長年着目していた脚本家であった。なのになかなか映画に触れないなあと思ってたので今回やっときたと思った。フィルモグラフィーは全部で5本ぐらい。最近では『花束みたいな恋をした』。

 

今回のこの映画ではいろんな出来事が起きている。だからこの映画のあらすじを書くには、どこから書いていいかわからないような印象であった。かといって決して複雑になっているわけではない。

 

ある町で、ある少年が様子が変だということで母親がいろいろ聞きだし、母親はその少年が通う小学校の校長(孫を事故で失ったばかりで落ち込んでいる)をはじめとする教師陣に事情を訴える。担任教師も呼び出され、彼もしどろもどろになって謝罪してきた。母親はそう言われても納得がいかない。これは体罰ではないか、これは虐待ではないかと確認する姿勢をあくまでも見せる母親であった。

 

ここを起点に、現実に起きている物語として観客に見せつけるわけだが、現実に起きている物語とは母親の視点を主軸に置いた物語だ。ことの始まりは、母親による息子の変容についての発見である。ここで母親が息子に対して様子がおかしいと気づき、同時に観客による同様の気づきを発生させることになる。いったい息子である少年に何が起きたのか。

 

視点は担任教師のものにシフトする。体罰を訴えられた担任教師の表情が、事象は前後するが、担任教師の本性は実は朗らかであることを驚くほどに実感させられる。そんな彼がいざ訴えられると、事の予想外の大きさに怯えている風でもあった。しかし最後には嵐の白昼、彼は意外なことに気づかされる。それはいったいなんだろうか。何とかして少年を救い出さなければと考える。

 

最後の視点は少年のものにまで行き着く。いよいよ真相がわかる。しかし彼の意外な秘密に観客は翻弄される。ここまで来たら観客は何を思うだろうか。しかも真相がわからないではないか。

 

なんとなくだが、これは人を不安にさせ、絶望させ、落ち込ませ、それでも自分は幸せであるということを自覚してやまない「怪物」ではないかという気がする。しかし少年はこの連鎖関係に気づかないのか、純真無垢である。この自己中心的ともいえる純真無垢を抱えたまま、草原をひた走る。しかも二人で。この純粋さが不幸を招くというこの現象というのが筆者にとっての一つの解釈であるに過ぎず、というのも、登場人物それぞれの性格がそれぞれに相手を失望させる、適合という意味でも互いをうまくいかなくさせる個性を孕んでいるために物語は余計に大変なのである。登場人物すべての心理をここでつぶさに取り上げているときりがない。

 

真相はあくまでもわからない結末であった。しかしこれで少年二人を除く登場人物の彼らにはまるで牢獄に閉じ込められたイメージがいやでもこびりつく。母親は少年を失いかける。担任教師は雑誌をみてニヤつく。校長は雨の中を佇む。しかし少年たちはまるでわかっていない。

 

この少年たちはまだ個性が完成されているわけではない。以上のような事情を未然に防ぐための教育がまだ始まっていないのだ。いやむしろ行き届かない教育だ。「怪物」にさせない教育。そしてもう一つは「生まれ変わり」という言葉が出てくるが、少年たちがこの言葉の意味に気づくのはいったい幾つぐらいの時になるだろうか、果たして後悔はしないだろうか、それが大問題なのであると、筆者は考える次第であった。この映画は下手をすると自殺を予期させる人物たちを描いた物語でもあるなとも考える。この記事を書くにあたって、実に奥深いと実感させられながら書いていくのであった。

 

 

 

↓YouTubeでは映画音楽の名曲(?)をアップロードしています。

 

最近アップロードしました。

 

『砂の惑星』(1984)OST #10 DUNE (Desert Theme)

『ALI アリ』 OST-II #01 ”Set Me Free”

 

『ALI アリ』ウィル・スミス主演でした。

マイケル・マン監督でした。