ユーズド・カー

1980年日本公開 監督/ロバート・ゼメキス

出演/カート・ラッセル、ジャック・ウォーデン

 

日本の自動車メーカーの海外進出が著しく発展した時期の影響が多くの映画に反映されてきている。この映画も同様の主張性が見て取れるが、そこはそれとしてただ単純に観ていくだけでも面白い。そして今作はかなりコアなファンが時折点在しようもある作品だ。実際DVDソフトもあまり見かけない現状だと思う。

 

中古車販売のお店は「ニュー・ディール中古車販売」。店主はルーク・ヒュークス(ジャック・ウォーデン)だが心臓病を患っているからあまり無理はできない。メーターを戻したり、外れかけのリヤバンパーをガムでくっつけてインチキな補修をしたりとあまりにも在庫車管理が杜撰な販売員、ルディ・ルソー(カート・ラッセル)。ルディには上院議員になる夢があるが、選挙候補になるためにはどうしてもお金が要るし、このポンコツ中古車だけの販売店で一生を終えるのは御免だった。同じく従業員のジェフは迷信深く、赤い車は縁起が悪いと言って絶対に乗ろうともしなければ『13日の金曜日』(80)の影響で(らしいが)梯子の下は危険だと信じて絶対にくぐらない(それともジェイコブズ・ラダーか?)。ガレージでガスバーナーや塗料スプレーを点けたまま居眠りする整備士ジム。そもそもこの販売店は消費者保護機関から保護観察を受けており、あまりの杜撰な商売のために問題視されていた。要するに経営逼迫ゆえの詐欺商法だったのである。

 

この窮地転落を心待ちにしているライバル中古車ディーラーが道路を挟んだ向かいに、店主はとにかく商売にうるさいルークの双子の弟、ロイ(ジャック・ウォーデンが二役を演じているが、これがまたお見事)。心臓病で兄が死んでしまえばその店舗の敷地を相続でき、全米一の中古車ディーラーになれることを待ち望んでいた。そこでロイはルークの店に刺客を送り込む。その新入りの解体屋は他のセールスマンたちの隙を見てロイに試乗に同行させた。しかし解体屋は乱暴運転でルークの心臓を麻痺させてしまい、苦しんで戻ってきたルークの最期をルディは見送ったのだった。

 

ルークの手に持っていたのはロイの店名が入っているワッペン。一方でロイは双眼鏡でルークの店の様子を窺いながら彼の死を察知し、翌朝に弁護士と一緒に訪問しようとしていた。ルディ、ジム、ジェフたちはルークの死体を愛車エドセルに乗せたまま地中に埋葬した。彼の死を知られてはいけないのでマイアミに釣りに出かけたと口裏を合わせる。そして彼らには次の仕事、電波ジャックがあった。

 

アメフトのライブ中継で最も視聴率が集まりやすい決勝タッチダウンが放送されるタイミングを狙って映像を割り込ませ、ライブ映像で自店のCMを流して来客を促すのだ。ハプニングで放送禁止用語は出るわ、女性のドレスがはだけて丸い胸がモロ写りになるわ、翌日になってみたら大盛況に(この日の飼い犬トビーの演技がまた素晴らしい)。

 

これに対抗してロイたちは店舗敷地内にサーカスのイベントを用意して来客を促す。幾らなんでもちょいと派手じゃないかと周りは諭すが、「競争の自由だ」といって一向に聞かない。ところがまたルディたちは今度は店舗にイルミネーションをふんだんに飾りつけ、トップレスの女性ダンサーたちを車の上で踊らせるという豪華なディスコを用意してくる。「インフレを剥ぎ取れ!」とセールストークをぶちまけるルディ。トップレスに目を奪われたドライバーたちは次々と追突事故を起こす。この状況を写しながらロイはこの店を侮辱し、そのままCMに流そうとしていたのだ。

 

ルディ達の今度の目論みは衛星放送を利用し、大統領演説の放送にまたCMを割り込ませるというものだ。そこにルークの娘バーバラが赤いトヨタ車に乗ってやってくる。彼女は父ルークとは疎遠になっていて10年も会っていなかった。マイアミに釣りに行っていることになっていた話のままで父の死をどうしても伝えることがうまくできない。同時に父の店がここまで大変なことになっているのをCMで知られたくないために、テレビから彼女を遠ざけなければならない。そのため彼女を食事に誘うが、テレビを見させない結果がルディとバーバラの恋の契約締結となる。ジャック電波はおよそ高級とも呼べる中古車を高いといってライフルを放つシーンを映す。さらにダイナマイトまで仕掛けられ、大爆発も起こる。これを見ていたロイは大憤慨。敵地に乗り込んでジェフと乱闘。そこでロイはルークの死体のありかを察知する。

 

ルディの家でひと時を過ごしたルディとバーバラ。整備士ジムから電話で知らせを受けたルディは現地へ急行。残ったバーバラはその通話記録を聞いて初めて事実を知った。翌朝、ロイは警察を呼んで死体の入った車を掘り起こすのを手伝わせようとした。しかしルディたちはすでに先回り、ルークの車を衝突事故に見せかけた。このあまりにもひどい状況に娘は怒り、ルディたち三人をクビにし、この店舗の跡継ぎとなった。しかしバーバラのCMに犯罪となる誇大広告を仕組ませたロイ。バーバラの店舗には全長1.6㎞のクルマが在庫してあるというムチャクチャな解釈を伴う広告が結局裁判沙汰となる。ルディもその裁判沙汰を聞いて法廷へ向かうが、バーバラは追い込まれていた。ルディは彼女を救い出すためにどんな対抗策を講じるのか。

 

筆者にはこれが最も解釈が厄介な映画だったかもしれない。大団円で何台ものクルマが大草原を走破しようと群がる最中にカート・ラッセルが車輌から車輌へと飛び移り、かつてジョン・フォード監督の『駅馬車』(40)で伝説のスタントマン、ヤキマ・カヌートが見せた名アクションを再現しているのは至極有名な話。

 

舞台は恐らくデトロイトだったと思うが、中古車販売店が集中している地域での中古車販売競争だから先ずは自動車生産が最も盛んに栄えていたデトロイトが思いつかれるところ。看板が「ニュー・ディール中古車販売」とあることから大統領がフランクリン・ルーズベルトの時を知っているといいらしい。1930年代の政府が経済市場に介入することがないとする自由主義経済から逆の社会民主主義経済へのシフトをもって世界恐慌による不況時代の克服を目指した。結果は賛否両論あるが、この方針に影響されたシナリオ作りになったようである。何しろ中古車が次々と爆破するのもそのデトロイトはあちらこちらが元々第二次世界大戦が始まる前までは枢軸国に対する民主主義の兵器庫として政府が使わせていたというのだ。

 

規制がある程度制限されることでは独占禁止法もニュー・ディール政策も変わらない印象だが、具体的にはともかく自由競争を益々激戦に陥れたことに変わりはなく、ましてやオイルショックを経た後の日本車の襲来によってその激戦は更に大きな火花を散らせ、しまいには労働力の確保すら難しくなったのだった。そうした経緯を見てきた映画人も少なくないのが当時の傾向だったのではないか。

 

更に言えば、この販売合戦はある意味においてパロディみたいなものだと思う。テレビや映画で特別見かけたものではないが、誰もがどこでも見かける販売呼び込みのシーンの数々をこうして再現したようなものと思うし、更に中古車セールスマンを極端な方向へとパロディ化したというようにも筆者は解釈している。モノは言いようとはよく言うが、全長1.6㎞の車なのか、並ぶのか、どっちでもいいような極端な解釈の是非を法廷で突きつけるに至る誇大広告もしくは詐欺行為、賄賂などあらぬ行動をパロディ化して自動車業界を茶化し、電波ジャックを大統領演説放送中に行ったりするなどと政府サイドの活動を皮肉るよう全てをひっくるめて茶化す。ゼメキス監督としては大人チックなシーンもあるなど、そこまでして販売したいのか、競争に打ち勝ちたいのか、と皮肉っている。

 

なんだかんだ言ってややこしい国だが堂々と茶化すことができる点でもアメリカ合衆国は相当に自由な国のような印象を与える。日本じゃこんなものは到底作れないと思うのだが何かあったかな。そしてこの作品はソシアル・パロディとも指摘されている。ソシアル・パロディとはこういうものをいうのだなと思った。かつてそれまでの映画には表現されえない社会での出来事をパロディにしているという、チョイスしようと思うとかなり難しい取捨選択が迫られそうな作業が映画人を待っている気がする。よほど日本人がいい加減じゃないといけない気がするなんていうと怒られる。

 

ああ、そうか、現実に起きた話をパロディにしているのか。

 

 

 

さらば青春の光

 

1979年日本公開 監督/フランク・ロダム

出演/フィル・ダニエルズ、スティング

 

本作に入る前に一本だけ触れておいたほうが良いだろうと思った映画がある。1979年に日本でも封切られたモッズ映画『さらば青春の光』、イギリス映画だ。よっぽどの映画ファンの人は言うまでもなくこの映画を、恐らくよくよく理解しているかもしれない。一方、筆者には洋楽面はそれほど分からない。知識に乏しいので筆者なりに調べてみた。昼間は働き、夜や週末はドラッグの酔いに任せてディスコに繰り出す。軍用ジャケットコートを羽織り、時には細めのスーツや細めのネクタイで身を包み、ベスパなどスクーターバイクを乗り回し、駐車場などでわらわらたむろして女の子とダンスしたりして遊ぶ。そんな彼らをモッズと呼ぶ。「moderns」を縮めたもの(「MODS」)という。いっぽうこの若者集団に対立的に集合していたのがロッカーズと呼ばれた若者たちだった。皮ジャン、皮ズボン、リーゼントの装いで実は秘かにバタフライナイフを懐に潜ませ、バイクエンジンをうわんうわん鳴らす。この二つが対立してイギリスのブライトンというところで大暴動が事実起こったらしい。これが元になったという映画。ミュージシャンのスティングもこれで映画デビュー。ダンスのシーンの彼は見事に周りとは違う存在感をアピールしている。このロッカーズの衣装スタイルはかつての初期ビートルズのスタイルでもあり、これを観て聴いて影響を受けたひとりに矢沢永吉が挙げられる。その後ミッキー・カーチス(『ロボジー』(12)にはクレジット名を五十嵐信次郎にして出演した)のプロデュースのもと、ジョニー大倉らとCAROLを結成、川崎駅での出会いから始まった史上最初とされるロッカーズは1970年前半に瞬く間に大きな話題を呼んだ。ATGのドキュメンタリー映画『CAROL』(74)は元はテレビ番組の下地から始まったものである。NHK放送局の番組としてNHK報道局を経て就任していた教養部プロデューサーが彼らを追ったドキュメンタリー番組制作を試みるもNHK放送局の方針に逆らう内容だったために却下、当時の音楽番組に部分的に取り込んで編集も短縮させて済ませるも合点が行かず、再度単独の番組として提案を続けても同時に参画していた当時社員だった小野耕世とともにNHKから休職解雇処分を受けるなどして徒労に終わっていた。そこにアート・シアター・ギルドが参入、約2時間のドキュメンタリー映画として完成にこぎつける。このプロデューサーの一人が龍村仁、紫綬褒章受章者である織物店の創業者を祖父に持つ家柄の出身だった。皇族とも縁のある家柄が緑茶を嗜む最中にロックンロールに目覚めたようなもので、まるで落語家みたいな小噺だ。

 

しかしCAROL結成するもわずか2年半或いは3年、その解散コンサートには黒のサングラスに黒のジャンパー、黒のズボン(それこそ『狂い咲きサンダーロード』(80)や「不良少女と呼ばれて」(84年TBS))が丁度よく並んで6人、バイクチーム「クールス」もCAROLの親衛隊として参加、メジャーデビュー前のような舘ひろしと岩城滉一もメンバーだった。ローリング・ストーンズとヘルズ・エンジェルスのそれの走りのようなものだという。なぜこのように短期間の活動だったのか、矢沢永吉の判断はいつも早いほうではないかとその風貌から感じ取れるのだが、或いは明石家さんまとそう変わらない逸材である気もするのだが。

 

くだんの大暴動に至るまでの間の、ひとりの青年が主人公。仲間といるのは楽しい、家庭内はつまらない、仕事場はくだらない、考えてみたら後は自分自身が益々わからない、こんな境遇の中で彼は過ごしているという感じだ。週末のパーティで目当ての女の子に徐々に近づこうとする。ドラッグも当たり前のように嗜む。とにかく仲間で、派手に飾られたベスパを乗り回しながら、あちこちを彷徨うのが楽しくて仕方がない。しかし家に帰れば親に遅いと叱られる。仕事で疲れた親の姿を見て何がまともなのかが見えてこない。この時点で既に恐らく、彼は完全に自分を見失っていたのだろうか。

 

これぞ青春と思えた機会を実感できたことが比較的極小だったり、楽しかったと思えた時がひとつもないとは言い切れなくても、それを遙かに上回るだけのショックが大きかったせいなのか、それが連続して勃発し、ひいては自分という存在が否定されてしまったのかもわからなかったり。ゆくゆく自分にとっての青春をしっかりと確かめられないまま、自分で思春期の線を引くには実に曖昧すぎて、気がつけば既に終わってしまっていた、なんてことが読者の中にもいるだろうか。その答えは敢えて待つことはわざわざしないけれど。

 

なかには主人公に感情移入する人もいると思うし、筆者は元よりそうでもないし、それ以前に自分を消してまで感情移入する人は余程の人間カメレオンだ。自分を消さずに観る人が多ければ多い程その映画は支持され得るのであって、この映画の場合は非常に多くの若者たちの共感を得る結果になったと考えて差し支えない。

 

ラストの字幕で生きるのもうんざり、死ぬのもうんざり、そんな類の歌詞が流れており、その点は分からないではなかった。それまでの間、青年のベスパが走り出すと花壇を踏み倒してそのまま道路に出て行く際に車に轢かれそうになるわ、中盤でバックしてくるブルドーザーが通り過ぎた直前に発車するわ、この無謀さもあったゆえに一層分からないではなかった。しかし最後には仲間に裏切られ、全てに見放されたかのように茫然自失となる。何でも出来たような気にさせてくれたブライトンに戻ってみても、そこはまるで嵐が過ぎ去った後のように静まり返っていた。彼には益々何もやることがなくなった。挙句の果てに崖の上でベスパを飛ばす。最後に空中にも飛ばす。しかし崖下にはグシャリとひしゃげたベスパだけ。彼は果たして死体になってしまったのだろうかと思いきや、実は彼は生きていた、とする説がある。その続きは冒頭にあった。これはさすがに分からなかった。その後の彼は2000年に上映された『スティル・クレイジー』の中でホテルマンとして働いているともいう。筆者は未見だが、なんでも役名がニール・ゲイドンといって本作とは異なるという。それなのに俳優は同じフィル・ダニエルズなのである。

 

主人公の名前はジミー。彼はずっと不安の渦中にある。青春に浸っていつまでもそこにしがみついていたいという願望があった。自分の目の前にある現実から逃れたくない。自分が置かれている現実から逃避したくない。しかし目当ての女の子も彼の元から離れ、周りからの憧れが集中していたエース(スティング)がホテルマンとして働くのを見て愕然とし、自分が欲していた対象が一人々々、自分が佇むことを欲していた世界から抜け出し去り、ジミーはただただ呆然と嫌でも見送るしかない。気づいてみたら彼の周りには後には何も誰も彼もなくなった。包んでくれるはずの愛が微塵もなくなった。彼にとって拠り所が見つかると思っていた世界が消失していき、残るのはただ孤独だけ。それでも彼は死ぬでもなく社会を結局選ぶしかなかった。渇いた家族、感情のない会社、思いが食い違った仲間、そして個性を失った自分のままであっても。そしてそこにはもともと愛がなかったとしても。

 

本題としてここに挙げる『再会の街で』のチャーリー(アダム・サンドラー)は妻と子供たちを9・11事件で失った。もとルームメイトのアラン(ドン・チードル)は久々に声をかけるがチャーリーは彼を覚えていなかった。チャーリーはアランを自宅に誘った。プレステで少女を助けるためひとり巨大怪物に立ち向かうゲーム「ワンダと巨像」に没頭する2人。チャーリーは気でも狂ったようにキッチンのリフォームを何度も繰り返している。政府弔慰金と生命保険があったために金には困らなかった。アランが連れ立ってバーに行けば、チャーリーは精神科医に頼まれたのかと「ふざけるな!」とばかりの怒号を撒き散らしながら被害妄想を露わにする。誰にも触れられたくない核心が彼にはあった。そして次第にその核心を誰かに触れてもらうようになる。その核心を自ら吐き出すまでのヒューマン・ドラマである。

 

この『再会の街で』の監督を務めたマイク・バインダーはシナリオを書いている最中は、70~80年代の洋楽を流し続けていた。若者たちに最も多くの影響を与え続けた時代の曲の数々。そのうちの一曲がザ・フーの「Love, Reign O'er Me」だった。『さらば青春の光』のバックで散々流れていた曲だ。歌詞自体は恐らく映画用に作られたものと思う。形状は違うがスクーターで街中を滑走しながら風の囁きに向けて身体を解放する。社会には復帰することもなく、はたから見れば自由気ままではある。それはかつての青春時代に戻ったかのようで先のジミーにも重なる。

 

そして『再会の街で』の原題は「Reign Over Me」である。ザ・フーの曲から「Love」が取れている。「Love」が奪われている。チャーリーはその時までにあった「Love」を奪われてしまった。だから外の世界に置かれた時の彼は常に何も起こらなかった時代に逆行している。寧ろその実現を熱望しているのである。サントラの中で使われている曲の多くは、恋人に逢いたいという趣旨の歌詞というから、これだけでも一応の納得はいくだろう。メル・ブルックスの『サイレント・ムービー』(76)のワンシーンも出てくる。シャワールームの中でバート・レイノルズが叫ぶ「HELP!」と字幕が出てくるが、チャーリーの心の叫びを示している。

 

巻き込まれる羽目になる女性患者の行為による問題、また常に声をかけていた女性カウンセラー(リヴ・タイラー)に指摘された精神状態、彼の家庭内における息苦しさ、女性患者のバックグラウンド、女性カウンセラーの受け皿的存在、亡くしてしまったチャーリーの妻の両親の動きなど、様々な感情の動きがささやかに渦巻く群像劇ではあるが、原題に込められた意味を察するにこれはチャーリーを中心に据えた物語を、「Love」という抽象的群像によって覆い被さるようにするのが結果的に望まれている。

 

マイク・バインダーは多くの遺族にインタビューを重ね、今回のストーリーに反映させていった。然しながら筆者にはそれがどうにもキャラクターの寄せ集めにしか見えず、キャラクターの肉付けに矛盾が見えてならなかったのが残念であった。そもそもが感情的に難しい題材だから観客層における共通認識を得るには難しいということの裏づけにはなる。

 

はたから見ればチャーリーは記憶喪失症状を患っているかのように思われた前段階だったが、実はそうではなく精神錯乱だった。それとも自律神経失調症なのか。筆者は専門医ではないのでそこまでの判定は出来ないが、社会に馴染めなくなってしまったチャーリーにとっては周りの存在がとにかく邪魔くさい。現実逃避すなわち過去に戻れる存在のみが必要とされ、そこで選ばれたのがかつてのルームメイト、アランだった。その彼の助言によりチャーリーは女性カウンセラーにかかることになる。カウンセラーというのは決して論議を持ち出さず、最後まで相手の話を聞く姿勢を貫き通すようである。そこを受け皿と表現したわけだが、極論すればどんなに叫ばれてもそこを返さない。最後まで聞き、結局実際に出てきた答えは話せる相手を探すことだった。また、過去に戻してくれる存在はひとりしかいなかった。この時までのチャーリーは自殺願望も密かに強くなっており、弾の入っていない拳銃を持って街中を奔走したりもする。ゲームに没頭したり、DIYを繰り返したり、彼のとる行動に目的要素もなければ臨機応変といった柔軟性もなくなっている。彼の頭の中は最早ごちゃごちゃだ。筆者にも益々手に負えなくなる。

 

すなわち、失言かも分からないが『アイ・アム・サム』とは似て非なるものあれど、このチャーリーに対してのように主観に置き換えて考えることは周りにとってそもそも不可能なことなのだ。だから吐き出させるしかなく、そして安堵させる。この映画ではその鍵となるのが、マイク・バインダー本人演じる会計士の説明だった。そこで彼と共に過去に戻るきっかけを与えられたアランは、自身のスタンスを大幅にずらしてチャーリーと等しくした。だからまず客観的に彼を見据えていかないと彼を理解するという行為はどだい無理なことなのであり、二人揃ってタイムマシンに乗ってでもして過去に戻らなければならなかったのだろうと筆者は思う。

 

主人公達は過去に戻る。過去に戻りながらこの映画を作る。本作ではそのターニング・ポイントに喪失の大きい米国同時多発テロを持ち込んできた。時事的には大変な試みであると思うし、そして人間は過去を愛しながら今を虚しく生きるということに対して奨励しているようにも見えた。

 

 

再会の街で

 

2007年日本公開 監督/マイク・バインダー

出演/アダム・サンドラー、ドン・チードル

 

 

マッドマックス

 

1979年日本公開 監督/ジョージ・ミラー

出演/メル・ギブソン、ジョアンヌ・サミュエル

 

かつての石油業界も、或いは他の企業群もおそらく、この早くもこの1970年代初頭に石油が枯渇することを予測していたかもしれない。そんな先を見越したプロットを練り込み、舞台は荒涼とした砂漠が奥の奥まで広がっていくオーストラリアにおかれた。そして実際にも起こった1973年以降のオイルショックと例の予測論とが入り混じったコンセプトとして最終的にこの映画のシナリオは完成された。

 

ようやく1977年に撮影が開始された。その直前のオーディション当日、その俳優はまだ顔の腫れが引いていなかった。10日前に複数のバイク野郎にバーで絡まれてしまい、ケンカして散々殴られてきたというのである。この役名はマックス・ロカタンスキー、人呼んでマッドマックス、そして本名がメル・コラムキル・ジェラルド・ギブソン、俳優名はメル・ギブソンだ。

 

話は少し未来に進み、世界は殆ど荒廃しきった様相を呈している。砂漠は砂漠でも本当に水平線の彼方の彼方まで砂漠である。そこに一本の舗装道路が大地を突き抜けるように敷かれており、その上を一台のカスタム・カーが一直線に突っ走る。明らかにスピード違反だ。そのクルマを追跡するよう無線が飛び込んでくる。

 

黄色のパトカーが一台追いかけてくる。呼びかけがあっても違反車はまだ止まろうとしない。更にもう一台のパトカーが合流してきた。白バイも合流してもなおチェイスは続き、傍らのキャンピング・カーも巻き込まれてお釈迦になってしまう。最後に追いついてきたパトカー、乗っているのは警官マックス。風塵の如く駆け抜けるスピード格闘のすえ、その違反車はクラッシュを起こして炎上。その時マックスはそのナイトライダーと自称していたドライバーを救出しようもなかった。

 

その男たちが事故で死んだことを聞いたバイク野郎たちがその町に繰り出してきた。その素行の悪さはあまりにも度が過ぎている男たち、人数は15人から20人はいる。そのうちリーダー格はトッカーター(ヒュー・キース・バーン)。やがてクラッシュなどによる事件はここ数日の間に続々と起こり、その犯人は明らかにナイトライダーの仲間、トッカーター率いる暴走族たちだと警察側も分かっていた。そしてその目標はマックスにあったことも。

 

うち一件では何故かそこに留まった暴走族の一人が身柄を確保されたのだが、何故か裏からの法的な力が働いたのか弁護士がやってきて、訳も分からぬままにその仲間は釈放されてしまい、マックスの同僚は憤慨する。その同僚がバイクのパトロール中に誤って転倒、近くの知り合いからトラックを借りて故障したバイクを載せ、署に戻ろうとした矢先に暴走族に襲われる。横転して身動きが取れなくなった同僚は車ごと炎の餌食になってしまう。そしてマックスは警官を辞めることを決意する。

 

田舎に遊びに行くことにしたマックス一家は、その旅先でかの暴走族に追われる身にいつしかなっていた。そして以前から署のメカニックに頼んでいた暴走族追跡用の改造車「インターセプター」を本格的に使う時がきたのだった。

 

 

マッドマックス2

 

1981年日本公開 監督/ジョージ・ミラー

出演/メル・ギブソン、バーン・ウェルズ

 

あれから何年も経ち、例の暴走族は既に壊滅、なのに警察は所在すら分からず、水平線の彼方が果てしないばかりか、どこか空気が重苦しいような広がりが相変わらず続く砂漠である。

 

マックスが運転する改造車インターセプターが大砂塵を駆け抜けていく。同乗者はいつどこで拾ってきたのか、マックスに従順な犬が一匹。石油がいよいよ枯渇し始めており、既に世界大国は石油掘削を巡って世界大戦にまで発展していた。いまそこにいるマックスの砂漠にもやはりガソリンの見つけられるところ(ガソリンスタンドを探す発想が全くなく、だから強奪するという手段が優先されるのだ)はなく、放置されたトラックの燃料タンクからポンプで引き出すしか脚がないのだ。そこにジャイロ・キャプテン(ブルース・スペンス)と合流し、崖を上ればそこには砂漠のど真ん中にポツンと、しかしドカンと大規模な敷地でバリケードが張られてあるコミュニティのアジトがあり、そこでは石油の精製も可能な場所だったのだ。しかしそこから遠く離れたエリアまで移動して援助を受けるにはかなり遠すぎ、しかもその途上には前回の暴走族とは全く容貌の異なった暴走族が何台ものバイク、カマロなどの改造車、バギーで待ち構えていた。皮のコスチュームにパンク・ロックにモヒカン、トランス・ジェンダー、ホッケー・マスク、とにかく多くの暴走族が精製工場からの生き残りたちが出て来るのを待っているのだ。

 

崖上から傍観していたマックスは、出て行って暴走族に怪我を負わされた生き残りをひとり助け出し、精製所の中に入れてもらう。生き残り達と暴走族の対立がそこから始まり、生き残り全員がそこから出て行けば命は助けると暴走族は話を持ちかけてきた。しかし逃亡手段が満足になく困っていた生き残り達に、放置されていたトラックの場所を知っているとマックスが言い出す。彼らには助け舟、移動のためのガソリンと軽油を貰って翌朝に出かけて行く。

 

置いてけぼりにしていたジャイロ・キャプテンと再び合流、トラック拾いを手伝わせる。しかし途中には暴走族たちがかなり向うまで見渡せる位置に留まっており、そのトラックもひと目で捕まえる対象と判断、即彼らは動き出す。トラックが精製所に入ると暴走族もドサクサ紛れに所内に乱入、大乱闘が起こる。しかしようやく鎮火する。

 

ひと仕事終わってマックスはここを出て行くと決め、出て行った。しかし途中で暴走族の逆襲に遭い、高速V8エンジンが自慢のインターセプターもろとも大破。そこにジャイロ・キャプテンの助け。マックスは多少の傷の回復を待ち、生き残りの人間たちはここ精製所を生きて出て行くための装甲装備の準備作業に余念がない。そして時は来た。精製所を明け渡すと同時に生き残りたちは一斉にクルマで脱走する。そしてマッドマックスの活躍は伝説としても語り継がれていく。『マッドマックス2』(81)である。

 

また時は過ぎ、今度のマックスは物々交換所として成り立っている砂漠上のコミュニティ、バーター・タウンに辿り着く。その上に立つはアウンティ・ティティ(ティナ・ターナー)、その見世物として鉄格子で覆われた巨大ドームでのデスマッチにひょんなことからやらされる羽目になるマックスだが、掟を破った為に追放されてしまう。マックスが命がらがら逃げた先は子供たちだけの、将来の夢が溢れた独立国だった。『マッドマックス/サンダードーム』(85)である。

 

 

マッドマックス サンダードーム

 

1985年日本公開 監督/ジョージ・ミラー

出演/メル・ギブソン、ティナ・ターナー

 

第3作目には小人症と巨体ながら知的障害を持ってしまっている男との合わせ技一本の武器が登場する。一方でしかしひとつ思うのは、マックスを演じたメル・ギブソンの心身に消極性があったと言われている事であり、この様子は一作ずつ辿ってみると、益々ブラッシュ・アップしてくるアクションにもそれほどのそつはないのだが、まあ何となくは動きが少なくなっていっているようには見えてくる。一方でその独立国はまるでネバーランドとでも言いたげだ。

 

第1作から第2作までの間に日本未公開作は二本続いたが、当然この第1作はアメリカでも大ヒットを叩き出した。これで第2作へのステップ・アップとして予算も上がることになり第2作製作準備が忙しくなる。同時期に撮られたエジプトでのロケも大きな特徴の『誓い』(82)、それ以降、スカルノ絡みだがやはりオーストラリア絡みの『危険な年』(84)、暑いロケ地がより一層のイライラがメルギブも含めて撮影隊を覆っていたという実に大変な当時5度目のリメイク『バウンティ/愛と反乱の航海』(85)、初のアメリカ映画出演となる『ザ・リバー』(86)などに立て続けに出演したが、少なくともシリーズ第3作目にあたる『サンダードーム』に入るまでの間は全てアクションからは程遠い印象が強い大河的ドラマが中心である。同時に演技に備える準備が必要なものばかりでもある。もちろんメルもそれぞれの場において相応の準備をしてきた。こうしてアクションではなくドラマでの演技活動を中心に行っていくことで、仕事をする側として『サンダードーム』製作に対する意味合いがあまりにも浅薄に見えたらしい。それまでのハイレベルな演技理論を経験、踏襲してきたという確信を得たであろう彼自身にとって、このシリーズに関しては全く意味を成さないものになっていったのである。言い換えれば第3作目までは少なくとも必要はなかったかもしれない。ただし一方では共演のティナ・ターナーにとっては自身の低迷期からの脱出手段のひとつとしてあったという。『サンダードーム』は全米でも日本でも大ヒットを博す。

 

しかしメル・ギブソンは自分がそのうち飽きられるという予測を理由に「あと2年で僕の活躍は終わりだ」と1984年末のインタビューで堂々と答え、大々的にニュースになっていた。そこに一冊のシナリオが彼の元へ届く。『リーサル・ウェポン』(87)だった。

 

メル・ギブソンはこの面白さに溢れたキャラクターの刑事役にはまり、監督はリチャード・ドナー、コンビを組むのはダニー・グローバー、この2人に早速会いに行き、出演を決めた。これが瞬く間に大ヒットとなり、ドル箱スター・コンビの誕生につながった。カー・アクションも刑事アクションも豊富、更に刑事役としてはどうにも危なっかしい役だからまたそこが面白く、演技のしがいもあって、ダニーとの相性も良く、メル自身現場が楽しかったとも言っている。まるで人間が変わった、というより人生が変わったみたいな大仰な反応を見せている印象が筆者にはあった。

 

確かにマックス・ロカタンスキーは役柄が偏屈で暗いし、アウトローというかアウトサイダーというか、あの環境ではさすがに早死にしそうなキャラクターだから定年までは絶対命が持たないような気がした。実際にメルギブは『リーサル・ウェポン』以降数々の記者会見などで聞かれる様々な質問に対してこう述べている時もあった。「常に自分にくっついていたマックスのイメージはこの刑事マーティン・リッグス役でようやく払拭されるだろう」、「マッドマックスは余命幾許もない」、「マッドマックス4は本当にもうないだろう」と。一方で『リーサル・ウェポン4』まで続いたのであった。

 

クルマ紹介するの忘れてた。

黄色のパトカーを「インターセプタ―」などと呼ぶのもあれば、黒のエンジンむき出しのスーパーチャージャーを持つクルマは「ブラックパスートスペシャル」などと呼ぶものもあり、これが最も人気があるらしい。フォード ファルコンが車体ベースとなっているという。

 

 

リーサル・ウェポン

 

1987年日本公開 監督/リチャード・ドナー

出演/メル・ギブソン、ダニー・クローバー

 

 

ボーイズ・ドント・クライ

 

2000年日本公開 監督:キンバリー・ピアース

出演:ヒラリー・スワンク、クロエ・セヴィニー

 

2004年7月16日、日本では『性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律(性同一性障害者特例法)』が施行された。これは性同一性障害(一部では性別違和症候群とも)を患う当事者の持つ戸籍の性別変更を特例的に認める法律であり、アメリカ合衆国で認められてから約40年も経っている。これが認められるには下記の条件を満たしていなければならないとしている。現に性別適合手術(性転換手術)を受けていることが対応されるのは④・⑤と解釈される。

 

① 20歳以上であること

② 現に婚姻をしていないこと

③ 現に未成年の子がいないこと

④ 生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること

⑤ その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること

 

この法律が施行される前の2000年頃から戸籍の性別変更を求める運動が行われてきており、この先頭に立った一人が作家、虎井まさ衛であった。女性だが男性としての性自認を抱いている作家であり、性同一性障害の当事者、研究者、支援者らを対象としたミニコミ誌『FTM日本』の創刊を果たしたこともある。

 

その虎井をモデルにしたといわれるのがシリーズ『3年B組金八先生』(第6シーズン、2001年10月~2002年3月、TBS系列放送)で当時16歳だった上戸彩がボーイッシュに演じた鶴本直という中学生であった。またこのドラマには他にも同性愛(単純にレズビアン)など生徒にとっての「性的指向(或いは嗜好ともいうべきか)」、父親が服役中であることから重要視される生徒の「報道と人権」など、それまでのシリーズよりも一層根深く深刻なテーマ要素を含有しているのも併せて話題となった。

 

この映画の製作が始まる数年前の1998年10月12日、ワイオミング州ララミーでひとりの男子学生が殺害された。6日に連れ出され、虐待されてフェンスにも縛り付けられたまま放置され、翌7日に発見されて病院へ搬送されるも5日後に死亡した。マシュー・シェパード、21歳、ゲイだった。被告の2人は翌年99年の裁判で終身刑を言い渡される。巷ではこの経緯が本作のストーリーとほぼ合致しているとの指摘があった。この事件はいわゆる「ヘイトクライム(差別に起因する暴力・虐待犯罪)」として全米の注目を集め、連邦議会側でもこれを禁じた法律を成立させようと何度か試みられてきたものの(2009年の執筆当時では)いまだ成立していなかった。

 

もちろん本作のストーリーも実話に基づいている。マシュー・シェパードのケースよりも5年前に遡るが、1993年12月31日に起きたレイプ殺害事件がそれである。インディペンデント系作品、低予算で製作された本作は公開時、口コミによってヒットを記録。ネブラスカ州リンカーンが舞台だが実際にはテキサス州で撮影されている。またこのリンカーンはヒラリー・スワンクの出身地でもあり、かつ幼少時の彼女もこの映画同様に(『ミリオンダラー・ベイビー』(05)も同様だったりする)トレーラー・ハウスに住んでいたことがあったのも何かしら映画的運命を感じさせる。

 

そもそも差別とはおよそ平均的とも言える基準にはおよそ適わぬ対象にあてはめてしまうものであり、従って普通ならまずは外観から始まるものである。例えばコイツはココが変だとか、そんな感じで一般とはどこか相違あるポイントを探すのである。或いは探すまでもなく外見的にやはり明らかなところとか。

 

ところがこの映画の主人公であるブランドン・ティーナ(ヒラリー・スワンク)は、チェック柄のシャツやジーンズ、そして刈り上げた短髪という外観で既に男と判断されており、そうは言ってもあくまで細身で華奢な身なりにならざるを得ない。冒頭のバーでの乱闘騒ぎでどさくさに紛れて「オカマ」と罵られるシーンからもお分かりのように、あくまでも体型を基準にした差別がここで始まっているのである。しかしブランドンにとって本当の差別はその後で、その服装という隠れ蓑の内側に彼(女)の不安はあったのだ。

 

刑務所行きを経験したアウトサイダーのジョン(ピーター・サースガード)、トム(ブレンダン・セクストン3世)とキャンディス(アリシア・ゴランソン)と合流、リンカーンを離れて更に田舎のフォールズ・シティへ。そこで美女ラナ(クロエ・セヴィニー)と出会い、恋に落ちるブレンダン。性行為の果てにラナはブレンダンを抱き寄せるその時既に彼女はブレンダンの秘密を知っていた。これがいつしか周囲に漏れていき、どこまでわかっているのかわかっていないのか曖昧なままに、家庭内の空気は一瞬にしてガラリと変わる。そしてブレンダンに非難の集中砲火が浴びせられる。

 

正確な経緯はともかく、要するにところどころで辻褄が合っていない気がするけど細かいところは面倒なので敢えて表記しないということなのだが、ひとつの交わり次第で人生が変わり、自分の進むべき方向が一転する。一転しては喧騒が起こり、差別心で家庭内の一見ささくれたような絆は更に益々刺々しく荒ぶれていく。駆け落ちを決意したラナはしかし、ゆくゆくはブランドンを無念にも守りきることができないのだった。

 

この映画にあるのは差別だけではなく、女性とわかったブランドンにレイプ行為を行う男達2人に母親から差し向けられる軽蔑心も表されている。こうして見ていくと法律によって制限された行為が多数あり、この法律基準から平均的常識が大衆の中に生まれ、安定する。制限された行為を行えば即ち非常識と判断され、やがてそこから軽蔑心が生まれ、不思議なことにそれは差別と同じにも聞こえてくる。

 

ここでいう平均とは2つあることになる。外見と法律。ひとつは人間生来のものであり、多数派という表現がわかりやすい。もうひとつは人間が意図的に作り出したものであり、同じ考えがひとつにまとまって完成されたものである。そしてそれぞれにおいてバランスを保たせるように努めるべきなのはやはり同じ人間なのだ。言い換えれば協調性と協調性との対立関係が出来上がることのように筆者には見えてくる。

 

内田英治監督『ミッドナイトスワン』(20)では所謂(性同一性障害から呼称が変更され、精神疾患という扱いから解放された)トランスジェンダーを扱っており、これを草彅剛が演じた。

 

新宿の片隅で女装している青年凪沙(草彅剛)のもとに広島からの親戚の少女一果(服部樹咲)が預けられた。一果はずっと黙りこくったままだった。下校中にふとバレエ教室を覗き込む。体験学習から始まったその練習からは、可能性の片鱗が次第に出てくるとわかる講師(真飛聖)。ひょんなことからおかまバーで踊る一果を見て凪沙はその美しさに驚く。凪沙は一果に対する思い入れが益々強くなる。なくてもお金を工面し始める凪沙は変わっていった。いつも行くその暗い細い道に優しさに溢れた光が一筋。そこには新たに現れた白鳥への愛が込められていた。それはひと目見て可能性を直感する凪沙の人生の転換期と成り替わったのだ。ここが驚きに値する瞬間で、親心が初めて体現された草彅の表情。人生とはかくも驚くほどに変わるものだ。

 

 

 

監督/マイケル・マン

出演/アダム・ドライバー、ペネロペ・クルス

 

映画『フェラーリ』公式サイト|7月5日(金)全国公開 (ferrari-movie.jp)

 

PG12指定作品。

 

世界の名車フェラーリの創始者エンツォ・フェラーリ。

フェラーリ社が設立されたのが1947年、車の販売アピール力を上げるためにも自動車公道レース、ミッレミリアにも参戦、連戦連勝など目立った功績の数々をも残している。

 

ミッレミリアは日本でも行われているようで、クラシックカーで参加するタイムトライアル形式のようで、日本のタレント(堺正章や近藤真彦など)たちもこぞって参加していたあれである。ニュースでも毎年流れている。

 

このミッレミリアというレースはイタリアで1927年に初回を迎え、1957年に最後の幕を閉じる。30年しか続いていない。このイタリアで開催されていたレースも相当な盛り上がりを見せたはずだが、わずか30年という短い年数しか行われなかったのかという、まずは第一印象であっていかにも不自然な幕切れ、なんでだろうと思ったがそれ以上は調べなかった。いかにどうあれ、当時のレースチームらにとって最後の年と知ってか、事前に最後のレースと知らされてレースに取り組んだものと筆者は思っていた。しかしそうではなかった。この映画を観る者も、この当時の当事者たちも予測のつかない出来事が起きたのが、この映画の結末だったのである。

 

フェラーリ社創立してから10年後が舞台であった。

1957年、エンツォ(アダム・ドライバー)には妻ラウラ(ペネロペ・クルス)と早速険悪な雰囲気になる。しまいには銃口をも向けられる。それまでにはエンツォは他の女性と会っていたのだった。

 

フェラーリ夫妻でともにフェラーリ社を設立。そんな二人で経営していたのが、赤字逼迫。経営を立て直すにも、男女関係がこじれているようでは会社経営も上手く行くはずがないなと思って観ていた。

 

さらにラウラとの息子は既に他界、一方で別の女性との間には幼い息子がひとりいる。離婚しては再婚し、この生きている息子にフェラーリ姓を名乗らせるか、判断をも迫られる。あんまりな1957年だが、その葛藤の局面の数々をアダム・ドライバーが再現する。

 

原作は1991年に発表されたブロック・イェーツ『エンツォ・フェラーリ 跳ね馬の肖像』。「ブロック・イェーツ」と当ブログ内を検索して頂ければ、別のカテゴリ「車登場編」で『激走! 5000キロ』や『キャノンボール』が検索ヒット、ブロック氏のかつての活躍に触れているので、時間があればご一読を。映画業界でもかなり以前から関わっていた人物だったのだ。

 

原作が発表されてから30余年。マイケル・マン監督はこの企画をずっと温め続けて来たのだろうかと筆者は驚く。脚本を務めたトロイ・ケネディ・マーティンも既に他界していたことは以前に承知なれど、既に亡きシドニー・ポラック監督も関わっていたとは露も知らず。はて、どんな映画になっていたことやら。本編エンドクレジットには献辞が表示されていた。

 

アダム・ドライバーが初老の男を演じる。髪型がオールバック。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』で初めて彼を見て「ああ、こりゃいいわ」と思っていた俳優。そんな彼もマイケル・マン監督の陰のある男気ある人物像を演じる。これも楽しみの一つだった。

 

また音響面では『栄光のル・マン』を彷彿とさせた。轟音轟くエンジン走行音の連続。CG描写がまるで無いんでないかというリアリティー感溢れるフェラーリ・カーのなんと煌びやかな質感だこと。まるで体験できなかった映画館での『栄光のル・マン』をいま漸く追体験できたかのような感覚だった。『フォード vs フェラーリ』でもなかなか体験できなかった感覚だった。この映画はクルマ自体が本物志向であった。このリアリティ実現に大変なおカネをかけたこの付加価値に鑑賞料金が高すぎるとは言わせない、その心意気。