《暮らしの土台が揺れるとき》
第4話 島民はどのように體を使ってきたのか❓
前回、
この島の「食べる」という営みを、
江戸末期から、
明治維新、
そして戦後まで遡ってみました。
昔の食を理想化するのではなく、
何を得て、何を失ったのか❓
そこを観てみたかったからです。
そして食を追っていくうちに、
どうしても次のものが見えてきました。
體です
何を食べるか❓
そして、
その體をどう使うか❓
この二つは、
本来それほど離れた話ではなかったのかもしれません。
昔の農民の写真を見て感じること
昔の農民や漁師、
人力車夫などの写真を見ると、
時々驚くことがあります。
現代のようなスポーツジムも、
筋力トレーニングの理論もない。
プロテインもない。
けれども、
身体に厚みがあり、
立ち姿そのものに力がある。
もちろん、
昔の人が全員筋骨隆々だった、
という話ではありません。
栄養状態も、
生活環境も、
個人差もあります。
それでも、
当時の写真に写る農民や人力車夫の姿勢について、
大地を踏みしめるような「自然体」が見られる、
と論じた身体文化研究もあります。
🔗参考資料
仙台白百合女子大学紀要
幕末〜明治初期の日本人の身体・自然体について
では、
彼らは何をしていたのでしょう。
答えは、
とても単純です。
暮らしていました。
暮らすことそのものが、運動だった
歩く
しゃがむ
立つ
担ぐ
引く
押す
捻る
運ぶ
畑を耕す
水を汲む
山へ入る
船を漕ぐ
今なら、
一つひとつが「トレーニングメニュー」になりそうな動きを、
昔の人たちは生活の中で繰り返していました。
しかも、
一日に一時間だけ運動して、
残りを椅子に座って過ごす、
という生活ではありません。
身体を使うこと自体が、
生活の中に組み込まれていた。
そう考えると、
昔の人の身体は、
運動によって作られたというより、暮らしによって作られた
と言った方が近いのかもしれません。
今日、畑を耕していて改めて感じたこと
私自身、
自宅の小さな庭で、
ここ数年、
種を播きながら土を観ています。
今日は耕運もしていました。
機械を使う時にも感じますが、
鍬で土を耕すと、
もっと直接的に分かることがあります。
同じ鍬
同じ自分
同じ畑
なのに、
刃が
「サクッ」
と入る時と、
「ガチャッ」
と止まる時があります。
もちろん、
石がある
根がある
土が硬い
水分量が違う
そういう物理的な条件もあります。
けれども、
それだけではない感覚があります。
力を入れれば、入るわけではない
鍬を強く振り下ろせば、
必ず深く入る。
そんな単純なものでもありません。
むしろ、
力んで振った時ほど、
土に弾かれることがあります。
逆に、
身体の位置、
鍬の角度、
重心、
振る方向、
土の状態が合った時には、
それほど強く振っていないのに、
スッと入る。
この時、
腕だけで鍬を使っている感覚ではありません。
足
腰
背中
肩
腕
そして鍬
さらに、
その先に土がある。
全部が一本につながったような瞬間があります。
私はこれを、
自然との同調
と感じています。
「力を出す」と「力を通す」
ここで一つ、
違いがあるように思います。
力を出す
ことと、
力を通す
ことです。
筋肉を強く収縮させる。
大きな力を出す。
これは、
とても分かりやすい。
けれども、
大きな力を出していても、
身体の途中でその力が逃げていたらどうでしょうか?
肩で止まる
腰で止まる
足元が崩れる
手首だけで受ける
そうすれば、
使った力の割に、
道具へ届く力は小さくなります。
逆に、
足元から、
腰、
体幹、
肩、
腕、
手、
道具へと、
力が途切れず通れば、
それほど大きな筋力を使わなくても、
大きな仕事ができる。
鍬が「サクッ」と入る時、
私は、
そういうことが起きているのではないか❓と感じます。
それは農作業だけなのだろうか❓
昔の大工
漁師
職人
武術家
荷物を運ぶ人
人力車夫
こうした人たちは、
現代のような筋力測定装置も、
スポーツ科学もありませんでした。
では、
どうやって効率的な動きを身につけたのでしょう?
おそらく、
何度も身体を使いながら覚えた
のでしょう。
無理な使い方をすれば疲れる
身体を痛める
仕事が続かない
逆に、
無駄な力が抜け、
道具と身体が合えば、
長く続けられる。
毎日の労働そのものが、
身体から身体へ伝える教師だった。
そう考えることもできます。
そして現代の大リーグで、よく似た話が出てきた
ここで、
一見まったく違う世界へ移ります。
米国大リーグ
ロサンゼルス・ドジャース
山本由伸選手です。
🔗参考資料
Number Web「山本由伸『おっきい理想をこっそりと』
Number Web「山本由伸が語った緊張との向き合い方」3ページ目
山本選手のトレーニングは、
以前から野球界では少し変わったものとして知られていました。
やり投げのような器具
ブリッジ
倒立
そして、
外から見てもよく分からない、
地味な身体調整。
山本選手が高校卒業後に出会ったのが、
矢田修先生でした。
当時の山本選手は、
肩や肘に違和感を抱えており、
何人もの専門家の話を聞いた中で、
矢田先生の説明に「ピンと来た」と振り返っています。
「正しく立つ」ところから始まる
矢田先生の指導で興味深いのは、
いきなり投球技術へ入らないことです。
Numberの取材では、
トレーニングは、
正しく立つこと
から始まると紹介されています。
山本選手自身も、
身体を部分ごとに使うというより、
「体全部で1つ」
という感覚を語っています。
これは、
先ほどの鍬の話と、
妙に重なって見えます。
腕を強くする
肩を強くする
腰を強くする
ではなく、
全部がつながった時に、結果として大きな力が出る。
力を入れずに、強い球を投げる
矢田先生と出会った当時、
山本選手が目指していたのは、
単に筋力をつけることではありませんでした。
Numberの記事には、
矢田先生から、
「今の投げ方の延長では理想には届かない」
と伝えられ、
山本選手が身体の使い方そのものを作り直した経緯が紹介されています。
その後、
山本選手自身が、
以前は「いっぱいいっぱい」で投げていた球を、
より楽に投げられるようになったと振り返っています。
ここが、
私はとても氣になります。
能力が上がるというと、
普通は、
もっと力を出せるようになる
と考えます。
けれども、
別の方向もある。
同じ仕事を、少ない無駄でできるようになる。
という方向です。
身体の中の「抵抗」を減らす
仮に、
100の仕事をするのに、
身体の中で余計な緊張や、
動きの衝突が起きていたら、
120や130のエネルギーを使うかもしれません。
ところが、
全身がうまく連動すれば、
100に近いエネルギーで、
同じ仕事ができる。
もちろん、
これは説明のための例えです。
山本選手の疲労や故障リスクを、
この一つだけで説明することはできません。
投球数
球速
睡眠
栄養
回復
個人差
様々な要因があります。
それでも、
無駄な力を減らす
という視点は、
非常に興味深いものです。
その考え方が、他の選手へ広がり始めている
2026年には、
ドジャースのムーキー・ベッツ選手も、
矢田先生のトレーニングを本格的に取り入れ始めました。
🔗参考資料
Full-Count「ベッツ『全部やってみたい』 矢田先生が明かす真髄」
ベッツ選手は以前から、
山本選手の小柄な身体から生まれる大きな出力に関心を持ち、
矢田先生の指導を部分的に試した後、
「全部やってみたい」という形へ進んだと報じられています。
矢田先生は、
競技が違っても、
人間が地球上で身体を使って目的を達成する基本は同じで、
違うのは表現の形だ、
という趣旨の説明をしています。
これも、
農作業とスポーツをつなげて考える時、
非常に興味深い言葉です。
「鍬」と「投球」は違う。でも身体は同じ
もちろん、
鍬を振ることと、
160km近い速球を投げることは、
同じではありません。
目的も違います。
技術も違います。
要求される能力も違います。
けれども、
使っているのは、
同じ人間の身体です。
地面を踏む
重心を動かす
力を伝える
呼吸する
必要なところだけ力を入れる。
余計なところは抜く。
そして、
一つの動作としてまとめる。
その根っこには、
何か共通するものがあるのかもしれません。
「鍛える」という言葉だけでよいのだろうか❓
現代では、
身体能力を高めると聞くと、
すぐに
鍛える
という言葉が出てきます。
筋肉を大きくする
負荷を増やす
限界を超える
もちろん、
それによって得られるものも大きい。
現代のトレーニング科学そのものを否定する必要はありません。
けれども、
もう一つ、
使えるようにする
という方向もあるのではないでしょうか❓
もともと身体が持っているものを、
邪魔しない
つなげる
感じる
整える
そして、
必要な時に使う。
身体そのものが教師になる
ここで、
昔の農民の生活へ戻ってみます。
農作業では、
身体の使い方が悪ければ、
すぐに答えが返ってきます。
疲れる
腰が痛い
鍬が入らない
仕事が進まない
逆に、
身体と道具と土が合えば、
仕事が進む。
つまり、
自然そのものが、
身体の使い方を教えてくれる。
昔の人たちは、
理論を学ぶ前に、
このフィードバックを、
毎日の生活の中で受け続けていたのではないでしょうか❓
そう考えると、
彼らが身につけていたものは、
筋力だけではありません。
身体感覚
だったのかもしれません。
「感じる」ということ
ここで、
この連載の中に、
少しだけ別の言葉が入ってきます。
感じる
土の硬さを感じる
鍬の重さを感じる
自分の力みを感じる
呼吸を感じる
重心を感じる
身体のどこかに無理が出ていないかを感じる。
これは、
数値ではありません。
けれども、
身体を使う上では、
とても重要な情報です。
そして、
山本選手も、
矢田先生とのトレーニングを通して、
自分の身体と対話を重ねてきた、
と紹介されています。
昔へ戻るのではない
今回も、
昔へ戻ろうという話ではありません。
昔には、
医学も、
リハビリも、
スポーツ科学も、
現在ほどありませんでした。
身体を壊しても、
治せなかった人も多かったでしょう。
現代には、
現代だからこそ得られたものがあります。
ただ、
科学が進んだからといって、
自分の身体を自分で感じる必要までなくなったわけではない。
むしろ、
測定できるものが増えた今だからこそ、
数値だけでは拾えない感覚を、
もう一度思い出す意味があるのかもしれません。
食べることと、動くこと
第3話では、
この島の食生活を観ました。
今回は、
體の使い方を観ました。
こうして並べると、
昔は、
この二つを別々に考えていなかったのではないか❓
という氣がしてきます。
土地で採れたものを食べる。
その身体で、
また土地を耕す。
育ったものを収穫する。
食べる。
また働く。
土地
→ 食
→ 身体
→ 労働
→ 土地
一つの循環です。
現代では、
これらが別々の専門分野になりました。
農業
栄養学
医学
スポーツ科学
流通
それぞれが進歩した。
けれども、
もともとは一つにつながっていたものです。
では、自分の足元では何ができるのか❓
ここまで、
世界の農民抗議から始まり、
日本の米、
氣候、
食文化、
そして身体まで降りてきました。
次は、
もう世界の話をする必要はありません。
もっと小さな場所へ降ります。
自分の足元です
私はここ数年、
自宅の小さな庭で、
種を播くだけのような、
簡単な自然農の実験を続けてきました。
いろいろ試しました。
その中で、
なぜかニンジンだけが、
自分で世代をつなぐようになりました。
昨年秋からは、
芝だった場所へ米ぬかを撒き、
防草シートを掛け、
土がどう変わるのかを観ています。
今年は、
小さな耕運機も手に入れました。
そして、
今日もその土を耕していました。
世界の食料問題を観ながら、
自宅では、
ほんの数平方メートルの土を観る。
一見、
まったく違う話に見えます。
でも、
ここまで来ると、
どうも同じ問いのように思えるのです。
次回、
《自分の足元へ戻る》
世界を変える前に、
自分が立っている場所には、
何があるのか❓
何が育つのか❓
何が育たないのか❓
人間は、
どこまで手を入れればよいのか❓
そして、
暮らしの土台が揺れる時、
私たちは何を自分の手元へ戻しておけばよいのか❓
この連載の最後に、
もう一度、
土へ戻ってみたいと思います。
All Green Project 🌿
ai-kusunoki &「6」
構造で読む力を、暮らしの中心に。

