観える世界、感じる世界 第5話|なぜか、行かなければならない氣がした秋分の日 | 「6」 愛の狩人

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君は知っているか?

「和多志」も

「ヨクワワカッテナイ」

けどネ❕(笑

「直観」と「直感」

( ^ω^)・・・           

🌿 観える世界、感じる世界

第5話|なぜか、行かなければならない氣がした

― 秋分の日、頭より先に動いたもの ―

連休最終日。

秋分の日の朝。

いつものように早く起きて、まず瞑想をした。

身体を整え、頭の中に浮かんできたものをメモへ落としていく。

そして、朝のお務め。

ここまでなら、いつもとそれほど変わらない朝だった。

台風は過ぎていた。

けれど空は鉛色で、身体も少し重たい。

今日はゆっくりしていてもいいかな?

そんな氣持ちもあった。

ところが、起き掛けから一つの言葉が、ずっと頭から離れなかった。

産土様

なぜなのかは分からない。

何か特別な出来事があったわけでもない。

誰かに「行きなさい」と言われたわけでもない。

ただ、氣になっている。

そして、そういう時の僕は、面白いほど「行かない理由」を考え始める。

天氣がよくない。

身体が重たい。

今日は別のことをやってもいい。

また今度でもいい。

理由はいくらでも出てくる。

それを一つずつ頭の中に並べてみた。

それでも、

「産土様へ行こう」

という感覚だけが残った。

結局、僕は出かけることにした。


🌿 「行きたい」と「行かなければならない」は少し違う

ここで、少し立ち止まって考えてみる。

僕は、その朝、

「神社へ行きたい」

と思っていたのだろうか❓

少し違うような氣がする。

旅行へ行きたい。

美味しいものを食べたい。

誰かに会いたい。

そういう欲求とは、感触が違う。

むしろ、

「行った方がいい」

という感じに近かった。

けれど、その理由が説明できない。

だから頭は困る。

理由がないものを、僕たちはなかなか採用しにくい。

合理的な説明

目的

成果

時間に対する効果

そうしたものがあると、行動しやすい。

反対に、

「なんとなく氣になる」

だけでは、後回しにしてしまいやすい。

けれど、第3話で考えたように、

僕たちは言葉になる前にも何かを受け取っているのかもしれない。

だとすれば、

理由が言葉になっていないからといって、

そこに何もないとは限らない。

もちろん、

氣になったからといって、

そこに必ず超自然的な意味があるわけでもない。

大切なのは、

「なぜか氣になった」という自分の中の出来事を、まずそのまま認めること。

今日は、それを少し試してみることにした。


⛩️ 産土という言葉

「産土」という言葉には、

自分が生まれた土地とのつながりを感じさせる響きがある。

産土神については、地域や時代によって捉え方にも違いがある。

だから、一つの説明だけで決めつけることはできない。

ただ僕にとっては、

自分という存在が、この土地と無関係ではない

ということを思い出させる言葉でもある。

人は、自分一人で存在しているように思いやすい。

けれど実際には、

生まれた場所がある。

育った場所がある。

水を飲み、

食べ物を食べ、

土地を歩き、

多くの人に支えられて生きてきた。

昨日は、お墓参りから、

自分が過去から続く時間の中にいることを考えた。

今日は、

自分が土地とのつながりの中にも生きている

ということを考えている。

時間のつながりと、

場所のつながり。

僕という存在は、

その交差するところにいるのかもしれない。


🌊 弁財天、鎮守、そして土地を歩くこと

今日は、産土神社だけではなく、

地元の弁財天、

そして鎮守神社にも参拝した。

神社を巡ったからといって、

何か特別な能力を得るわけではない。

願ったことが、必ず叶うわけでもない。

僕が最近氣になっているのは、

むしろもっと地味なところだ。

自分の足で土地を歩くこと

普段通り過ぎている道

昔からそこにある木

水の流れ

坂道

小さな祠

地域の人が守ってきた場所

そうしたものを実際に歩いてみると、

地図や画面から眺めている時とは違うものを感じる。

この連載で何度も書いてきた、

見える世界と見えない世界

土地を歩くという行為には、その二つが一緒にあるように思う。

目に見えるのは、

道や木々や社殿

感じるのは、

空氣や静けさ、

自分の身体の変化、

その場所に立った時に生まれる感覚

それらを混同しない。

けれど、切り離しもしない。

ただ、その両方を受け取ってみる。


🍃 身体は、頭より先に何かを知っているのだろうか❓

朝は身体が重たかった。

鉛色の空を見上げて、

今日は動きたくないようにも感じていた。

それでも出かけた。

そして、道中は驚くほどスムーズだった。

もちろん、

道が空いていたことと、

朝に感じた直感との間に、

何か特別な因果関係があるとは言えない。

それは分けて考える必要がある。

ただ、

僕自身の中では一つの経験として残った。

身体が重たいことと、「行く」という感覚は同時に存在していた。

ここが面白い。

人間の感覚は、

一つの声だけでできているわけではないのかもしれない。

身体は休みたいと言っている。

頭は理由を探している。

けれど、そのさらに奥で、

別の何かが「行く」と言っている。

では、

そのどれが本当の自分なのだろうか❓

おそらく、どれか一つではない。

全部、自分なのだと思う。

疲れている自分もいる。

面倒だと思う自分もいる。

それでも氣になって仕方がない自分もいる。

大切なのは、

一番強い声へ自動的に従うことではなく、

それぞれの声を聞いた上で、自分で選ぶこと。

今日は、僕は「行く」を選んだ。


✨ 直感に従う、という言葉の危うさ

「直感に従う」

という言葉は、少し注意して使いたい。

直感だから正しい。

宇宙からのメッセージだから従う。

そういう話にしてしまえば、

自分で考えることを放棄することにもなりかねない。

僕が今やろうとしているのは、

それとは少し違う。

直感を、

命令ではなく情報の一つとして扱う

何か氣になった。

では、それを記録する。

なぜ氣になったのか考える。

現実に危険はないか確認する。

行動してみても問題ない範囲なのかを考える。

そして、自分で選ぶ。

その結果をまた観測する。

この繰り返しだ。

ニュース天氣図で、

一つのニュースだけを見て結論を出さないのと似ている。

一つの感覚だけで、

世界の真実を決めない。

感じることもまた、観測対象なのだ。

そう考えれば、

見えない世界を扱うことが、

少し現実的になる。


🌏 信仰と、確認できることの間

神社へ参拝すると、

僕たちは自然と手を合わせる。

目には見えないものへ向かって、

祈ったり、感謝したりする。

そこに神がいることを、

科学的な方法で証明できるのか?

僕には分からない。

けれど、

そこで自分が立ち止まり、

普段とは違う時間を持つことはできる。

感謝を言葉にすることもできる。

自分の生き方を振り返ることもできる。

そう考えると、

「神が存在するかどうか?」

という問いだけで、

神社という場所の意味を全部測る必要はないのかもしれない。

何百年、あるいはそれ以上の時間をかけて、

人々がそこへ足を運び、

祈り、

祭りを続け、

土地との関係を結んできた。

それもまた、目に見える歴史だ。

そして、その場所に立った人が何を感じたのか❓

それは一人ひとりの内側にある。

事実と感覚

どちらかを消すのではなく、

両方を置いてみる。

ここでも、すり合わせが始まる。


🕊️ 秋分の日という「間」

今日は秋分の日

昼と夜の長さが近くなり、

季節が大きく移っていく頃でもある。

夏から秋へ。

明るい時間と、

暗い時間。

片方から片方へ、

少しずつ移っていく。

こうした季節の境目を、

昔の人たちはどのように感じていたのだろう❓

現代の僕たちは、

時計やカレンダーによって時間を知る。

けれど、その前から人は、

日の長さ、

風、

草木、

空、

生き物の変化から、

季節を受け取ってきた。

昨日書いた「間」という言葉が、

ここでも浮かんでくる。

春でも夏でもない。

昼でも夜でもない。

一方からもう一方へ移っていく、

その途中。

境目には、何かを感じ取りやすくなる時間があるのだろうか❓

まだ僕には分からない。

けれど、

秋分の日に産土様が氣になり、

実際に土地を歩いてきたことは、

今日の僕の記録として残しておこうと思う。


🌱 感じる力は、行動して初めて育つのかもしれない

ここまで四話、

僕は「感じる」ということについて考えてきた。

神話

未知の世界

日本語脳

祖先とのつながり

けれど、

感じるだけでは、

自分の感覚の精度は分からない。

氣になったことを、

安全な範囲で実際に確かめてみる。

人に会う

本を読む

土地を歩く

調べる

記録する

そして、

自分が最初に感じたことと照らし合わせる。

そうして初めて、

「あの時の感覚は何だったのだろう❓」

と振り返ることができる。

当たっていたか?、

外れていたか?だけではない。

どんな時に自分は思い込みやすいのか❓

どんな時には、後から考えても重要な違和感だったのか❓

それを少しずつ知っていく。

これが、

僕がこれからやろうとしている

「感じる力の鍛錬」

なのだと思う。


🌅 五日間の終わりに

シルバーウィーク最終日。

この連休の間に、

思いがけず五つの文章を書くことになった。

最初から、

五話を書くつもりだったわけではない。

一つ書いたら、

次の問いが出てきた。

その問いを追ったら、

また次のものが氣になった。

そうして歩いているうちに、

今日ここまで来た。

第1話では、

神話と『オデュッセイア』から、

人間とは何なのかを考えた。

第2話では、

未知のものとどう向き合うのかを考えた。

第3話では、

日本語脳と言葉になる前の感覚。

第4話では、

祖先から何を受け継いでいるのか❓

そして今日は、

感じたものを、どう現実の行動とすり合わせるのか❓

少しずつ、

この連載でやりたいことが見えてきたように思う。

見える世界を「観る」。

見えない世界を「感じる」。

どちらか一方を信じ切るのではなく、

その間を何度も往復する。

感じる

動く

観る

確かめる

そして、また感じる。

その繰り返しの中で、

自分なりの精度を上げていく。

今日、産土神社から帰る道はスムーズだった。

けれど、

それ以上に僕の中に残ったのは、

「行く」と決めて、実際に自分の足で歩いた

ということだった。

見えない世界とのすり合わせは、

頭の中だけでするものではないのかもしれない。

身体を使い、

この現実の世界を歩きながら、

少しずつ確かめていく。

そんなことを思っている。

見える世界を「観る」

見えない世界を「感じる」

二つの世界をすり合わせ、一つにしていく。

連休は今日で終わる。

けれど、

この旅は、ここから続いていく。


 

《観える世界、感じる世界》

― 見えるものと見えないものを、すり合わせながら生きる ―

 

 

 

 

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