― 言葉になる前に、僕たちは何を受け取っているのか❓ ―
連休三日目台風の朝。
いつものように外へ出ると、昨日とは少し違う空氣を感じた。
風の温度
木々の揺れ方
鳥の声
遠くから聞こえてくる、誰かの暮らしの音
特別なことが起きているわけではない
けれど、何となく昨日とは違う
僕は、こうした感覚が以前から氣になっている。
同じ道を歩いていても、同じ景色を見ていても、毎日まったく同じものを受け取っているわけではない。
そこには、言葉で説明できることもあれば、説明しようとすると何かが抜け落ちてしまうこともある。
僕たちは、言葉にする前に、いったい何を受け取っているのだろうか❓
今日は、そんなところから考えてみたい。
🌿 言葉にしなくても、伝わるもの
誰かと話している時。
相手が「大丈夫」と言ったとしても、何となく大丈夫ではないように感じることがある。
声の調子なのか?
表情なのか??
言葉を発するまでの、ほんの少しの間なのか???
理由を尋ねられても、すぐには説明できない。
反対に、何も話していないのに、一緒にいるだけで落ち着く人もいる。
僕たちは普段、言葉そのものだけで会話をしているわけではないのだろう。
声
表情
間合い
沈黙
その場にいる人たちの関係
そうしたものを受け取りながら、次に何を言うのか❓、あるいは何も言わないのか❓を選んでいる。
日本語には、「間」という言葉がある。
人と人との間
音と音との間
時間の間
何かと何かの間にあるもの。
そこには、単なる空白とは違う意味があるように感じる。
何もないように見えるところにも、「何か」を感じ取っている。
僕が氣になっているのは、その働きなのだ。
📖 「日本語脳」という問い
以前から氣になっていた人物に、角田忠信氏がいる。
日本語と脳の働きについて研究し、「日本語脳」という考え方を世に問いかけた人物だ。
角田氏の研究には、日本語を使う人と他の言語を使う人では、ある種の音の処理に違いがあるのではないか、という議論がある。
ただし、その理論のすべてが現代の脳科学で確立されたわけではない。
僕自身も、そこを混同するつもりはない。
研究で確認されたこと
研究者が提示した仮説
そして、自分が日々の生活の中で感じていること。
それぞれは、分けて考える必要がある。
それでも、角田氏の研究を知ってから、僕の中には一つの問いが残っている。
普段使っている言葉は、世界の感じ方にどこまで関わっているのだろうか❓
日本語を覚えるということは、単に単語や文法を覚えることなのだろうか?
それとも、その言葉が使われてきた土地や暮らし、人々との関係の中で、何か別の感覚も育まれていくのだろうか?
僕が「日本語脳」という言葉で考えているのは、そうしたことも含めた、もう少し広い問いなのである。
🌏 この島国は、何を受け取ってきたのだろう❓
日本という島国には、長い時間をかけて、さまざまな人や文化が入ってきた。
人だけではない。
技術
言葉
宗教
食べ物
暮らしの仕組み
外から入ってきたものが、そのまま残ることもあれば、この土地の暮らしの中で形を変えていったものもある。
僕は最近、このことが妙に氣になっている。
日本文化とは、最初から完成された一つのものだったのだろうか?
むしろ、異なるものが入り、出会い、時には衝突しながら、長い時間をかけて育ってきたものなのではないか❓
そうだとすれば、これからの時代にも、そこから学べることがあるかもしれない。
外から来たものを、何でも受け入れるわけではない。
反対に、外から来たという理由だけで拒むわけでもない。
互いに何を大切にしているのかを知る。
一緒に暮らすための約束を作る。
問題が起きたら、話し合い、必要なら仕組みを直していく。
簡単なことではないだろう。
それでも、違いを持った人々が同じ場所で暮らすためには、そうした積み重ねが必要なのだと思う。
そして、その積み重ねの中で、言葉もまた変わり、人の感じ方も変わっていくのかもしれない。
🍃 人間だけではない、もう一つの関係
ここで、僕の関心は人間同士の会話から少し離れていく。
山
川
木々
石
水
風
そして、土の中にいる小さな生命
こうしたものを、僕たちは普段、どのように受け取っているのだろうか?
木を見て、木材としての価値を考えることがある。
川を見て、水資源としての利用を考えることもある。
それは、それで大切な見方だ。
けれど、木は木材である前に、そこで生きている一本の木でもある。
川は、人間が利用する水だけではなく、魚や植物、土や海ともつながっている。
自然を理解するには、科学的な観測が必要だ。
同時に、自然の中に身を置いて、自分が何を感じるのか❓を知ることにも、別の意味があると思っている。
森の中で風の音を聞く
木陰で足を止める
水の流れを眺める
それだけで、何か大きな真実が分かるわけではない。
けれど、自分がその場所と無関係な存在ではないことを、ふと感じる瞬間がある。
僕は、日本の神話や八百万の神という考え方にも、こうした自然との向き合い方を考える手がかりがあるのではないか?と思っている。
ただし、古い日本の人々が皆、同じ自然観を持っていたと決めつけるつもりはない。
神話も、歴史も、地域の暮らしも、それぞれに違いがある。
その違いも含めて、これから知っていきたい。
✨ 感じることは、正しさを証明することではない
ここまで考えていると、もう一つ、大切なことに氣づく。
自分が何かを感じたとしても、それが外の世界の事実を正確に表しているとは限らない。
ある人に違和感を覚えた
ある場所で、何となく落ち着かなかった
ある出来事が、妙に氣になった
そうした感覚は、自分の中で起きたこととして大切にしたい。
けれど、それだけで相手の意図を決めつけたり、見えない何かの存在を断定したりすることはできない。
だからこそ、僕は「すり合わせ」という言葉を使っている。
感じたことを記録する。
何を見て、何を聞き、その時に何を感じたのか❓
できるだけ分けて書き残す。
そして、時間が経ってから、もう一度眺めてみる。
最初に感じたことと、後から分かったことが重なる場合もあるだろう。
まったく違っていたと氣づく場合もあるだろう。
それでいい。
自分の感覚を大切にすることと、自分の感覚を疑ってみること。
この二つは、矛盾しないのだと思う。
むしろ、両方あるからこそ、感じる力を少しずつ鍛えていけるのかもしれない。
🕊️ 大調和は、同じになることではない
僕は以前から、「大調和」という言葉について考えている。
それは、すべての人が同じ考えを持つことではない。
すべての文化が一つに統一されることでもない。
それぞれが違いを持ちながら、互いの存在を認め、必要な関係を結んでいくこと。
人間同士だけではなく、動物や植物、自然環境との関係も含めて。
もちろん、現実には利害の対立もある。
自然界にも競争がある。
だから、調和とは、衝突がまったく起きない状態ではないのだろう。
違いがあることを前提に、壊してはいけないものを知り、必要な時には関係を結び直していく。
そんな営みなのかもしれない。
ここで、日本語や日本文化の中に残っている感覚を、もう一度考えてみたい。
相手との間合いを読むこと
場の変化に氣づくこと
言葉にならないものへ注意を向けること
自然との関係を感じること
こうしたものの中に、次の時代にも役立つ知恵があるのではないか?
それは日本人だけに備わった特別な能力だと考える必要はない。
異なる文化の中にも、自然との関係を大切にする知恵や、他者と調和するための方法はあるだろう。
それらを互いに学び合うことも、これからの時代には必要なのかもしれない。
違うものが、違うまま存在しながら、互いを壊さずに生きていくこと。
僕は、その可能性を探していきたい。
🌅 言葉になる前の世界へ
連休三日目。
今日もまた、世界のどこかで新しい出来事が起きている。
ニュース天氣図では、これまで通り、見える世界を観測していく。
国家
金融
資源
技術
人の動き
そこに何が起きているのか?を、粛々と観ていく。
そして、もう一方では、自分の中に生まれた感覚を拾っていく。
鳥の声を聞いて、何を感じたのか?
人の言葉に触れて、何が氣になったのか??
なぜ、ある出来事だけが、心に残ったのか???
その感覚を、すぐに答えへ変える必要はない。
まずは、受け取る
書き留める
そして、現実と照らし合わせる
見える世界を「観る」
見えない世界を「感じる」
二つの世界をすり合わせ、一つにしていく。
言葉になる前の世界には、まだ僕が氣づいていないものが、たくさんあるのかもしれない。
そんなことを思いながら、今日もまた、いつもの道を歩いている。
昨日と同じように見える景色の中で、昨日とは少し違う風を感じながら。
《観える世界、感じる世界》
― 見えるものと見えないものを、すり合わせながら生きる ―
All Green Project 🌿
ai-kusunoki &「6」
構造で読む力を、暮らしの中心に
