テレビを見ると、東名高速道路のアオリ運転の判決のニュースばかりしていた。
もし、高速道路で車を止めた理由が車の故障だったとしたら車を止めようとした男の男性は有罪になっていたのだろうか。
そうなれば車間距離を保って走らなかった後方の車の責任を問われていたのではないかと想像に易い。
何が言いたいかというと、心象で法律の解釈まで変えるのは、どこぞやの国と変わらなくなる。
罰したい感情は重々にわかる、けれど該当する法律がないのであれば罰してはいけないし。その出来事を教訓に法律を整備するべきだと思う。
人間は大切なものを傷つけようとする人間や傷つけた人間に腹をたてるのは至極当たり前の話である。
「なぜアオリ運転をしたか」の根本には、そこに悪意がなかったとしても、
「事故になりそうになった」「命を失うかもしれなかった」
という与えられた人間によって感情が発生するから、アオリ運転に至るわけで、アオリ運転をする時点で車をぶつけて殺したいわけでなく
「誠実な謝罪」 をさせる為だ。
この「誠実な謝罪」があれば、火曜サスペンスでもまた人殺しは生まれないだろう。
テレビで一生懸命に、アオリ運転に対して法律がどうのこうの状況がどうのこうのやるならば
アオリ運転が発生する根本になった、サービスエリアでのやり取りにフォーカスするべきだ。
気にくわないなら殺して良い。悪いやつは死んでも良い。
そうでない人間を殺してしまったら良心が痛む。 この発想はドストエフスキー著書の青年の発想で。
学生時代に成人になって使うことのない勉強に時間を費やすならば、仮に気に食わない相手だったとしても相手に嫌な思いを与えてたとう主観ではない事実を受け入れて
「誠実に謝罪をする」
ということを勉強した方が世の中の為にも、人の成長にも意味のあることだと思う。
少なくともサービスエリアで誠実に謝罪をしていたら親のいない子供が一人存在しなくて済んだの間違いないだろう。
裁判や判決なんてこぞって放送しているのを見ると滑稽に思えてくる。
「私にはその行為に責任が
あるのだろうか?ないのだろうか?」
という疑問が心に浮かんだら、
あなたに責任があるのです。
希望を持たずに生きることは、
死ぬことに等しい。
死ぬことに等しい。
byドストエフスキー