終戦後のインドネシアで起こった日本兵虐殺 スマラン事件とブカシ事件 かんちゃんのジャカルタ日記よ | ジャカルタでチャレンジし続けるBlog

 

かんちゃんのジャカルタ便り(6号)(最終回)(2018.8.30) 

 

こんにちは。皆さんお変わりありませんか? ジャカルタ便り6号(最終回)をお送りします。 

最終回となったのは、今の会社で働くことができなくなってしまったからなのです。

 書きたいことはたくさんありますが、引っ越し準備等で時間を食われ、今日の夜行便で帰国するというところまで追いつめられてしまいましたので、どうしても帰国前にお伝えしておきたい1話だけに絞りました。ジャカルタからの最後の便りを読んで下さい。

 

「黙とう! 一人での慰霊祭」

 

私は、1984年4月から87年4月までの間、在インドネシア日本国大使館で防衛駐在官(通称“武官”)の仕事をしていました。着任した年の8月16日10時ごろ、突然、一人の男性が私を訪ねてこられました。年の頃は、私の父と同年代の80歳ぐらいに見えました。面談室にご案内し、自己紹介されて、終戦時ジャワ第16軍作戦参謀宮元静雄さんという方だと分かりました。当時の海軍武官前田少将のことは少し知っていましたが、宮元陸軍中佐のことは全く知りませんでした。そして、自分が書いたと言われた「ジャワ終戦処理記」の一部コピーを持参され、私に渡した後、概略次のようなことを話されたと記憶しています。

「私は、スハルト大統領の招きで、独立記念日の式典に出席するため来イした。しかし、もう歳なので、また来ることはないと思う。終戦時、自分は軍作戦参謀をしていたが、今でも心に残っているのは、スマラン・ブル刑務所内での日本人179名の虐殺事件であり、もう一つは、ブカシでの竹下海軍大佐以下86名の虐殺事件が何ら処理しないまま、私が帰国してしまったことなのです。武官、その後どうなっているか調べて貰えないだろうか。」ということであったが、私は、その後何もして上げなかった。帰国後、ブカシで亡くなられた竹下海軍大佐は、陸上自衛隊の第23代化学学校校長を歴任された山里陽介陸将補の奥さんの母方の御祖父であることを知り、奥様のご両親をブカシの遭難現場にご案内するよう当時の久保秀人防衛駐在官に依頼する労を取ったことはあったが、スマラン事件に関しては、宮元参謀の依頼は何もやっていなかった。そのうち行ってみようと思いながら、毎日の教育準備に追われて休みが取れなかったのです。そして、急に帰国することになったことから、授業から外されたお陰で、逆に幸運にも休暇を取れるようになったのです。これは天からの恵みだと思い、意地悪はされていましたが、後任の日本語教師から“Banbang部長は、加藤さん個人をいじめているわけではないようですよ。”と聞いたので、すぐ、旅行の申請をしたら、快くOKをだしてくれました。そして、去る8月8日~10日まで、スマランに飛び、ブカシ事件については、8月20日に休みを貰い、現地調査を行ってきました。大きな成果がありました。と私は心から思っています。もちろん多くのインドネシアの人達の協力を得る事ができたからですが、現在も使用しているこの女子刑務所内に、何ら公的許可証やしかるべき役所の紹介状もなく立ち入る事は難しく、署長の許可が出るまで大変でしたが、私も通訳を頼み必死にお願いしたところ、最後は立ち入りを許してくれました。その詳細は、別途纏めることとしますが、今号では、「スマラン事件」及び「ブカシ事件」の概要を述べた後、現場での、天皇陛下の名代のつもりで行った一人慰霊祭の様子をお伝えいたしたいと思います。

1 スマラン事件(昭和20年10月15日~10月19日)[インドネシアの歴史教科書

では“5日間戦争”と呼ばれている。] 

これは、中部ジャワ州の副知事で共産主義者が指揮を執り、若者を先導して武器を持たない無防備の日本人を大量拉致し、刑務所内の密室で虐殺した事件である。竹槍や銃乱射で急所を撃たれなかった犠牲者の苦しみは、毒ガスによる殺害よりも残酷な仕打ちであったと想像されのです。その無念さを思うとき涙はひとりでに頬を伝っていました。その様子を遠巻きに見ていた女囚たちは、この事件のことを何も知らされていないのでしょう、、怪訝そうな顔で眺めていました。絶命するまで、流れでる自分の血で、「バハギヤ ムルデカ インドネシア、独立、喜び死す。 日本人万才、大君。、、、」まで書いて精魂尽きたのであろうか。 死体の下敷きとなり、重傷で天命を待っていて、後刻救出された高見角次郎氏の言葉によれば、阿部頌二君、山形県鶴岡市湯ノ浜出身、慶応大卒、森永乳業社員、29歳の書と云う。各所から絶命に臨んで、天皇陛下万歳、君ケ代奉唱の声、銃声と錯綜して聞こえた」と。 日本人の虐殺せられた者149名、行方不明30名、白人、混血児は、多数同刑務所に監禁されていたが;殺されたもの零。山の手逮捕者で連行中の者が一部虐殺せられ、また、郊外の製鉄所10名、カリウンで王子製紙職員約50名が虐殺せられた。

今回の訪問で、署長に伺ったところ、監獄の室内は全て改修され、壁は塗り替えられていると答えてくれました。この署長は、「バハギヤ ムルデカ インドネシア、、、、。」のことを話しても、一切知らない振りをしていました。この刑務所の中では、当時の虐殺のことを触れないことになっているように感じました。8月8日は、虐殺された日本人が葬られている2か所、そこには、“カンボジア”という名前の巨木が1本ずつ植えられていましたが、この場所を確認し、10日に私一人で慰霊祭を実施する許可を頂き、この日は刑務所を離れました。次の日の9日は、やはり日本人が虐殺された、マゲラン市、スラカルタ市mジョグジャカルタ特別州にある空軍基地などを見学した後、慰霊祭時に使用するお花や200人女囚たちに1個づつ差し上げるバピアというとても美味しい有名なお菓子を20箱(1箱15個入り)を調達しスマランに戻りました、片道4時間で往復3時間半の長旅でした」、そして、最後の11日、10時からこの構内で、無念の死を遂げられた御霊に衷心より黙祷の礼を捧げました。署長は、食品を勝手に持ち込んではいけないところ、この日は全員体育日課で外にいたせいもあり、喜んで受け取ってくれました。ここではカメラもスマホも入り口で預けなければならないので、撮って貰った写真2枚を添付します。

 

 

 

2 ブカシ事件(昭和20年10月19日)

  スマランにおける日本軍とインドネシア武装グループとの戦いは,約1000人の城戸部隊の猛攻撃で、インドネシア側はスマラン市民を含め、約2000名の死者を出し、ジャカルタ方面に遁走した。そのジャカルタは、日に日に治安が悪化しており、海軍軍需部竹下大佐、海軍第5警備隊副長大谷中佐以下86名は、バンドンへの部隊移転を決定し、10月19日午前11時、予定通りマンガライ駅に向けトラックで出発した。既に、非武装の一行は

、軍服姿は勇ましいが身に寸鉄も帯びず、それぞれリュックを背負い、あるいはトランクを下げて、何かピクニックにでも行くような恰好だ。皆が、うるさい連合軍占領下のジャカルタを離れて、山のキャンプへ向かうのだから心も軽く、手を振り、帽子を振りながら笑顔で別れて行った。

  予定の午後6時、バカデンバル駅へ、チャーチル・キャンプから道案内に出迎えた連絡官から、部隊未到着の電話があり、更に終夜待ちに待ったが遂に到着の報なく、憂慮はしだいに濃くなって行った。途中の各駅に照会しても要領を得ない。どうやらブカシ駅で、スマランから敗走してきた部隊のために、全員引き下ろされたらしいとの情報であった。翌21日、一行の安否を気遣った前田武官は、イ共和国政府に対し「即刻調査救出の方策を講じなければ、武官自ら部隊を率いて救出に急行する」と強硬に申し入れた。

  10月25日午前10時、政府代表として治安部長外1名が部隊本部を訪ねてきた。来意は云わずして明白であった。応接間に通して前田武官と私とは、西島嘱託の通訳で会談し

た。彼は面を伏せたまま、

 「誠に申し上げにくいことであるが、竹下大佐以下86名の海軍部隊は、ブカシに於いて、中に武器を所持しておる者があったため、協定違反を追及され、全員潔く責任を負うて銃殺された。というのであった。予期していたことではあるが、暗然として胸塞がる思いであった。武器などを持っている筈はない。イ側の責任逃れの遁辞に過ぎないのだ。これには憤懣にたえなかったが、今となっては政府当局を責めて見ても、取り返しのつかないことであった。しばらくはことばもなく、万感胸中に錯綜したが、やがて武官は沈痛な面持ちで口を開いた。

 「政府側の武器所有云々は一片の遁辞に過ぎない。当方に於いては既にブカシに於いて、凶暴な群衆によって所持品を掠奪され、全員惨殺されたことが情報によって判明している。しかしながら、今その責任を云々しても得る処はないだろう。これ等の遭難者はインドネシア独立途上における悲しい犠牲者であると思う。この人達の霊を慰める道は一つしか無い。

それは貴国が立派な独立国となることである。

 私はむしろ切に忠告したい。インドネシアの現政府が、かかる無力無統制では独立それ自身が不可能であるということである。ムルデカということを、掠奪と殺人であると思っている無知な民衆の如何に多いことか。この有様では、政府は、対外的ににも信用を失墜し、到底独立国としては認められないであろう。況や恩義ある日本人に対して凶器を執るがごときは、国債間の道義を無視するものであって、道義無き国家は絶対に独立の価値もないことを銘記されたいのである。

 もし貴政府が、この事件に対し責任を感ずるならば、速やかに政府の統制力を強化しして地方の無政府状態を回復し、道義を重んじて反日政策を転換し、真に立派な独立国としての資格を備え、完全独立を成し遂げてほしい。スマランに於いて虐殺されながらも、バハギヤ・インドネシア・ムルデカと鮮血をもって壁に書き残した一日本人の心こそ、実は全日本人の心である。貴国の独立完遂こそ犠牲者に対する何よりの手向けである。」

 言々肺腑より出る熱誠の忠告であった。通訳する西島嘱託も、日頃の流暢さにも似ず、嗚咽んために途切れ勝ちであった。私も亦言葉なく、熱類の頬を伝うるにまかせていた。

治安部長も蒼白の面を伏せたまま、一言もなかった。」

 

 

 以上がブカシ事件の概要であるが、私はこのブカシで殺害されブカシ川に捨てられた無念の英霊に花輪を捧げ敬礼と黙とうを奉げて参りました。

 

 

これを発信して、「かんちゃんのジャカルタ便り」を終了させていただきます。

ありがとうございました。 誤字・脱字ご勘弁の程を!        (完)