個からチームへ 競泳日本代表を革新した男。 | 水戸~サラリーマン奮闘記~

個からチームへ 競泳日本代表を革新した男。

以下、(雑誌)Number745号記事より引用。’10.1.18頃の記事。


いつだったか、記者会見で聞いた言葉が印象的だった。

「我々はチームとして戦わなければならないんです」

競泳日本代表の会見の席のことだ。個人競技であるにもかかわらず、なぜチームでなければならないのか。

競泳日本代表は、2000年のシドニー五輪で銀2、銅2の計4個、’04年のアテネでは金3、銀1、銅4の計8個、’08年の北京でも金2、銅3の計5個のメダルを獲得した。

その間に行なわれる世界選手権でも常に一定数のメダルを獲得し、競泳大国といわれるアメリカやオーストラリアに次ぐ地位を確保している。

日本競泳は、第二次世界大戦後から’72年のミュンヘン五輪までは多くの大会で複数のメダルを獲得する活躍を見せていたが、その後はメダルを獲れない、あるいは獲れても1つがやっとだった。

それと照らしあわせても、躍進を遂げた10年となった。


アトランタで惨敗したのは選手の力量不足が原因ではない。


この10年が光なら、影と言えるのが’96年のアトランタ五輪である。「史上最強」とうたわれながらメダルなしに終わったのだ。

大会前の期待とあまりにも対照的な結果に、「惨敗」と評されるほどだった。史上最強とは、メディアの先走りに過ぎなかったのか。

「そうではない」と言う人物がいる。

「もし、現在の体制のもとにあの選手たちがいれば、アテネ以上にメダルを獲れていたんじゃないでしょうか」

競泳日本代表監督を務める上野広治である。

アトランタの翌年に日本代表ヘッドコーチに就任し、’05年からは監督として再建を担ってきた人物だ。

ヘッドコーチに就任した上野が目指したのは、「代表チームを本当の意味でチームにすること」であった。上野はアトランタ五輪には参加していない。

のちの調査で、失敗の理由をこのように分析した。

「選手、コーチが個々にレースに臨んで毎日はね返された大会だった。コーチとコーチ、選手とコーチ、選手同士、いろいろな面でまとまりを欠いた」

そこからさまざまな弊害が生じた。


コーチと選手の間の溝、選手間の対立がもたらす悪影響。


「競泳は一人のコーチが長年にわたり同じ選手を指導する競技です。優秀なコーチであっても、見すぎているために、選手のちょっとした泳ぎの変化を見落とすことがあります。かえってほかのコーチが気づいたりする。でも、自分の教えている選手じゃないから、と見て見ぬふりをしていた。

情報を共有するという考えがなく、オープンマインドでもなかったんですね。

コーチと選手の間の溝も深かった。

学校の保健室ではないけど、トレーナーの部屋に来ては、選手がコーチに対する不満をこぼしていたのです。

コーチとの間のコミュニケーションが取れなかったからです。それではどんな指示を出しても選手には伝わらない」

以前、アトランタ五輪の期間中の様子について、ある選手がこんな話をした。コーチが「メダルを獲れ」と強調するあまり、選手が反発し、手を携え戦うべき両者に対立関係が生じた。選手間でも、仲の良し悪しによってグループが形成され、極端に言えば、レースに臨む前に代表内で戦っている状態であったと言う。

それは精神面にも影響を及ぼした。再び上野が語る。

「過度の緊張のせいで、レース前にもかかわらず泳いだかのような筋肉のはりのある選手もいたようです。それくらい独特の雰囲気を持つのがオリンピックなんです。なのに、支えてくれる存在がないから選手は一人で重圧を受け止めてしまうことになった」


学校同士の対抗試合をヒントに、代表のチーム化を。


反省を経て打ち出したのが、代表をチームにすることであった。

「ヒントは、学校同士の対抗試合にありました。各学校のクラブが一丸となることで選手もいい泳ぎをする。オリンピックも同じなんじゃないかと思ったのです」

実はヘッドコーチ就任の前、上野はジュニアの選手をつれて国際大会に参加した経験はあったが、ナショナルチームとのかかわりは皆無であった。高校で保健体育を教え、水泳部を指導する教員にすぎなかった。自身もヘッドコーチ就任を「抜擢」と表現する。

一方で、こうも語った。

「自分が選ばれたのは、学校の先生をしていたからだろう、とも思いました」

上野は、日本代表のチーム化に着手する。

まずは、スイミングクラブ間の垣根を取り払うことに努めた。代表には、異なるスイミングクラブからコーチと選手が集う。クラブ間の対抗意識は強い。自分たちのクラブの好成績を何よりも願い、張り合うことも珍しくなかった。一つのチームの中に、いくつものチームがあるような状態だった。

その作業は決してたやすくなかった。長年に渡ってしのぎを削ってきたライバルである。日本を支えてきた自負も強い。クラブをまわって話し合いを重ね、頭を下げたこともあると聞く。

上野自身は、「過ぎ去ったことですから」と笑って多くを語らない。


「感謝の念もない選手は強くもなれない」


大会や合宿に臨む際は、コーチ、選手全員そろって、あるいはコーチだけを集めてミーティングを繰り返した。何のために代表は存在するのか、どのようにして国際舞台で戦うべきか、目標の共有を図るとともに、一緒に戦う仲間である意識を根付かせるためだった。さらに、宿舎のコーチの部屋のドアを開けっ放しにすることにした。いつでも選手が訪ねてこられるように、との意図だった。

選手には、マナーも教えた。上野には、今も忘れられない言葉がある。'98年のことだ。アジア大会の事前視察のために、各競技団体とともにタイのバンコクに向かった。その地で他の団体のスタッフから言われた。

「アトランタのときの競泳の選手たちは遊びに来たのかと思うくらい態度が悪かったね」

大きな衝撃だった、と上野は言う。

「アトランタのメンバーは、中高生が多かった。悪気がなくても、あの年代の子たちは声も高いし、騒いでいるように見えた面もあったかもしれない。ただ、そのように周囲に映っていたのは事実だし、僕がヘッドコーチになってみると、挨拶すらできない選手もいたのはたしかです。戦う準備は一人でできるわけじゃない。裏で支えるスタッフの人々がいるからこそです。感謝の念もない選手は周囲の人々から応援されることもないし、強くもなれないと僕は思います。だから、挨拶から教えました」


代表のチーム化が形になり初めて手にした栄冠。


地道に立て直しのための作業を続け、初めて手ごたえを得たのは、’98年世界選手権だった。ある日、自由形の源純夏が、次のレースで泳ぐ個人メドレーの田島寧子にアドバイスを送った。

「スタート台が熱いから気をつけて」

真夏の、屋外の大会である。知らずに台に乗っていれば、動揺していてもおかしくない。事前に情報を得ていた田島はスタート台に水をかけてから上がり、銅メダルを獲得した。小さなことかもしれない。だが上野にとっては大きな変化だった。

チーム化の手段は、これらにとどまらない。五輪代表選考のあり方にも手をつけた。

「戦う意識のある選手がそろわなければ、オリンピックでは戦えないと思っていました。日本人の習性かもしれませんが、集団が向いている方向で個々も変化する。例えば、’99年の短水路世界選手権では5人だけに絞って連れて行きました。すると、全員メダルを獲得し、2種目で世界新を出したのです。意識の高い選手がそろえば集団自体の意識も高くなると実感した大会です」


「結果を出すためには、戦えない選手はいらない」


その方針は、ヘッドコーチ就任後、初めてのオリンピックとなる’00年のシドニー五輪の代表選考で実行された。日本オリンピック委員会によって認められていた派遣枠30人に対し、21名のみを代表に選出したのだ。突然の方針変更は混乱も呼んだ。それまでなら選ばれていたであろう選手の一人、千葉すずはスポーツ仲裁裁判所に提訴する。結局代表入りは認められなかったが、上野はこの一件を振り返って言う。

「基準をはっきり定めてオープンにしなければいけないと痛感したのは、千葉すずさんの残した功績と言えるのではないでしょうか」

以後、選考基準は明快なものになった。代表選考会で1位か2位になった上で、日本水泳連盟が設定したタイムをクリアすること。それは国際水泳連盟の定めるタイムを大きく上回る。「世界でもっとも厳しい」と言われるほど高いハードルだ。

「現場のコーチからすれば、オリンピックを経験させるために何人か若手は連れて行ったほうがいいんじゃないかという考えも当然あります。でも結果を出すためには、戦えない選手はいらない。成果から見ても、選考基準の信憑性はあると思っています」


シドニーで4つ、アテネで8つのメダルとして結実した。


チーム化が進んだ競泳日本代表は、シドニーで4つのメダルを獲得すると、アテネでは8個ものメダルを手にする。最初のメダルは、北島康介の100mでの金メダルだった。レースの夜、北島のコーチである平井伯昌が、どのような戦略を授けたのかを語り、他のコーチが耳を傾ける姿が宿舎にあった。

「そのおかげでコーチが戦略を修正し、獲れたメダルが2つあります」

上野はアテネ五輪で印象に残った出来事をさらにあげた。大会を前に、宿舎に1枚の白い模造紙が貼られた。トレーナーのアイデアだった。北島の金メダルの夜、祝福のメッセージが多数書き込まれた。宿舎に戻った北島はお礼と、次の日に出場する選手への激励を書き込んだ。模造紙を介してのキャッチボールは、最終日まで続いた。この慣習は、北京五輪にも受け継がれることになった。

「北京では、ともに戦う意識が根付き、情報も共有し、目指していたチームになってきたなと思いました。北島が初出場の選手たちに、『俺も1回目は何をやっているかわからなかったんだよ』みたいな、初めて出たときの話をしたのを覚えています。そんな話もレースに臨むための準備に生きてくるんです」


「オリンピックに魔物はいません」


今日では、所属クラブの異なる選手に対しコーチがアドバイスすることは珍しくない。選手が他のクラブのコーチにアドバイスを求めることも当然のようになった。選手たちが自らミーティングを開くこともある。

上野は、あらためてチームの意義を語る。

「競泳は、スタート台に立てばコーチの指示も届かない個人の競技です。だからこそ、事前に戦う用意ができているかどうかが重要であり、それはみんなの力を合わせて築くべきなんです。オリンピックに魔物がいる、とよく言われますが、魔物はいません。ロンドン五輪に向けては、すでに拠点も決まりましたし、準備は今まで以上に進んでいます」

視線は、すでに2年後へと向いている。


2年半前の記事です。

確実に実ってますね。

競泳日本代表陣はやってくれるでしょう。

緊張してきた^^;


wave attackうお座