発熱がようやくおさまりました。 | 日々の日記

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2026年中学受験予定の息子(現小5)のZ会を中心とした勉強やら諸々と、父親として思ったことや考えたことの記録です
自分の頭の中を整理するために書いています。

こどもの熱は下がり、ようやく回復しました。

お腹に炎症を起こしていたり、食欲がずいぶん落ちてしまったので、少しやせてしまいました。
でも、今は元気で、生意気な口がきけるようになっているので、ちょっぴり一安心です。

 

結局10日ほど学校をお休みし、そのまま夏休みに突入となりました。
夏休みを迎えてから、持ち帰れなかった道具類や夏休みの宿題を妻と一緒に取りにいっていました。

どうも、横浜ではサイコプラズマ肺炎がとても流行っているそうですね。

で、Z会の勉強は、集中力が切れやすいので続けては出来ませんが、学校を休んでいるので、休みながら(ダラダラ感がありましたが)なんとかやるようにして、予定していたスケジュールに近い形で進めることは出来ました。月例テストは若干悪かったですけど、まぁ、集中力がないのでしかたないのでしょう。

夏休みは以前書いた問題集や課題を予定通りに進めるつもりです。
数日たちましたが、まぁ、これで十分そうな感じです。
これにZ会から夏休みの課題みたいなのがきたのでこれを追加しようと思います(ありがたいです)


で、療養中は38度前後と、なんとも微妙な熱でしたので、様子を見ながら色々やってみたわけです。

出来たことの一つに、ハリポタ(1巻)がようやく読み終えた、ということがありました。
随分前からソファーの横に置いていたのですが、全然読まず(涙)
今回は、発熱があって動けない状態なので、読み聞かせ(半分強制)をトータルで3時間ほどやりました。すると、100ページほど読み進んだところで、もう読み聞かせじゃ遅くて我慢ならなかったらしく、一気に読み終えました。
まぁ、ハリーポッターは長編なだけに、前振りが少し長めなのですよね。ただ、この辺りから始まっている伏線や世界観の背景がずーっと続くので、つまらないからといって飛ばしてはいけない部分でもあるのですが。そこを超えたので、読んでくれたのでしょう。
 今のところ、2巻3巻と続いています。夏休み中には全巻読み終わりそうです。

あと、毎年、録画してから半年から1年ほどかけて観るツールドフランスですが、今年は随分観ていました。今年は、ほぼリアルタイムで観れているんじゃないですかね。
 まぁ、楽しそうでなりよりです。

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で、前回考えたことの続きを書いてみようかと思います。

 結局、中学受験の段階で、どの程度子どもが自立できるようになっていなければいけないか、また親がどの程度子どもに関与していいか、すべきかについて考えて気づいたことを書いてみたわけですが、結論としては、自立については子どもの社会の中で最低限の事が出来る程度で十分で、中学生以降になってから準備しても遅くはなさそうだ、ということだろうと思ったのです。さらに、中学受験に関して、出来る範囲で親は関与していい(特に制限や限界はない)だろう、ということで今の僕の中で収まっています。

 結局のところ、親の関与といっても、お金の問題だけでもないですし、スパルタ式に厳しくやらせればいい、という単純な問題でもないでしょう。
 このあたりは、深く考えると、親はどこまででも関与していい、とはいえ、「親の限界が先にくる」のが現実だと思います。
 ですので、言い方を変えると、中学受験に関して「親自身が納得する範囲、出来る範囲、で関与すればいいのだろう」ということが僕が思ったことなのです。

 ただ、自分で生きていく力、自立は今は必要ないと思いますけど、自律は必要なのではないかな、と思っています。結局、こども本人の意識が高いところにないと、勉強しても身につかない、吸収できないと思うのです。
そこまでの、指導力とか導く力とかまで含めて「親の力」、なのだろうと思うのです。

で、そう思ったのには、学校説明会に色々いって気付いたことがあったからです。全体的な感触として、偏差値に比例するように違うことがあると思ったのです。

それは、参加者のマナーが違うことです。特に親のマナーが違っていたように思ったのです。

僕の感触として、偏差値が高い学校ほどマナーがいいと感じます。子どものマナーとか躾みたいなのとはちょっと違って、純粋に親の(親子の)マナーです。
 最初、偏差値の高い学校を目指す親はこんな感じなのかな、と想像していた部分は多少なりともあったのですが、外れました。例えばセレブ感が高いかと思っていたのですが、そうではありませんでした。外見から賢そうとか知的な感じがするとか、そういうのも全然わかりません。身なりがすごくしっかりしている、というわけではありませんでした。子育てを経たママさんだなという感じです。もちろん例外な人はどこにでもいますけど。
 なんというか、外見は、案外地味な感じだったりします。
 一方、マナーというか積極性というか、そういうのが違いました、説明会でも前の方から埋まっていきますし、並び方とか気遣いの仕方とかが、違います。話の聞き方と集中のしかた、態度が違います。はい。
「親が」、です。

 ちょっと余談になるのですが、それに関係するのか、微妙に学校側の接し方や誘導の仕方も違っている気がしました。そういうことなんだろうな、とぼくは思ってます。
(例えば、説明会の席ですけど、自由です、が一番先。前から順に詰めてお座りください、というアナウンスがあるのがその次。それを繰り返し言うのがその次、席を誘導されるのが、その次という感じです。まあ会場の余裕次第という面はあります)

 結局、勉強以前の話、というか、勉強する基盤というか、例えば、学ぶ姿勢はあるか、その勉強をしてちゃんと身に付くかどうかというか、そういうところですよね。なんというか。多分そういう躾というかそいういう基盤があるかどうか、というのが学力差になって現れているのだろうなとは思います。

※僕のことは一旦棚に上げておきます(苦笑)

まあ、そうは言っても、全体的に私立中学の説明会の類は、公立の小学校の行事とかと比べると、平均して親のマナーというか雰囲気的なものは、良いです。全体的に。
 でも学校説明会に参加する人は大半は周りは知らない人、、ですので、素の部分が見え隠れするのは分かりますね。
(逆に小学校は周囲に近所の人や知り合いがいるということもあり、そういう意味での緊張感はあるので、見られているという意識は小学校のほうが高いと思います。)


 じゃぁ、偏差値は親の順番か、というと、そうではないと思っているというか、それ以前に親(家庭)の価値観という、重要な指標はあると思うのです。
ネットでチラと見ただけなのですが、とあるマンガで「子供の成績を通して親の出来を計られているみたい」というセリフがありました。なんかすごく考えさせられました。
 中学受験は実際にそういう側面は大いにあるのだと思います。

 でも、いい偏差値の学校に進むのがすべてではないと思うので、偏差値の順番に親の出来の順に並ぶわけではない、みたいなのは僕の中ではあります。(もちろん最難関に合格させるような親御さんは素晴らしいと思います)
偏差値が相対評価である以上、他人と比べる指標であるので、おかしな競争というか比較みたいなのが出来てしまっているのは、なんだか歪んでいる現実があるんだなぁ、とは思います。

本来、どういう価値観を持つかは、自由であるはずで、ひとつでも上の偏差値の学校、とか、絶対最難関、みたいな価値観でもいいけど、そうでない価値観や競争を意識しない価値観も大いにありだと思うのです。
 これに優劣はないと思うのです。
 さらに言えば学歴を肯定するのも否定するのも自由ですので、そこに優劣はないとおもうのですよね。
(大半の人の人生においては、学歴があることで有利になる事が多い現実を否定するのとは違います。それを身につけるか身につけないかを選ぶかは自由だということです)
 佐藤ママって結構叩かれますけど、批判の中には首を傾げたくなるようなものも多いと思うのです。どういう子に育てたいかは自由なので、そういうところを否定されるのはおかしいなと思う訳です。(ただ、極論も多くて、好きか嫌いかで言うとあまり好きではありませんが・・・苦笑)

 まぁ、うちの場合、通信教育でやっているので、普段の競争をあまり意識しないで進められているので、そんな風に考えられている、というのはあるのかもしれません。


ちなみに地頭論みたいなのは、僕は否定的な考えを持つ人です。
いえ、遺伝による優劣とか、才能とかは否定していません、むしろ肯定しているつもりです。例えば、スポーツの世界で、この、生まれ持っての才能の差のえげつなさはなんというか。数千~数万人に一人くらいがプロなりオリンピック選手になれる、みたいな世界では、もう、この才能がない場合にはその世界に進むには絶望的な感じに思います。ほんと、残酷な世界のように思います。
 それと比べると勉強は、生まれ持ったものでそこまで差はつかない、とおもっています。
 というか、いわゆる受験自体は努力をはかる、という意味合いが強いと思うのです。少なくとも才能をはかったり、そういうのを持っているひとを有利にさせるような試験問題はまずありません。ですから、色々勉強のやりようがあると思うのです。
 才能というよりはその人にあう勉強方法が見つかるか、というのが本当のところ勝負を左右する部分ではないかな、と思ったりします。
 それに、勉強に必要な才能の要素って沢山あると思うのです。脳の使い方によっても記憶力、短期的な記憶力とか、長期的な記憶力とか、論理思考力、言語の色々な能力(読み、書き、とかとか)、計算能力なり、平面や空間認識の能力だったり、数式の認識能力だったり。それこそ、正しい姿勢を保てる能力とか握力なんかも学力に関係しますよね。
 イメージですけど、勉強に関するものってもう、無数のパラメーターがあると思うのです。それの組み合わせや強弱で才能というか能力みたいなのは色々決まると思うのです。そこに、生まれ持ったものだけではなく、幼少期の経験などの後天的なものから、本人の意識ややったことなどのさまざまな要素や要因が加わるわけです。もし、一部分だけ優秀な才能を持っていたとしても、それだけで勉強が出来る、という単純なものではないと思っています。

 無論、極端にでてくるような特性を持った人はいると思います。本当に苦しんでいる人もいるのかもしれませんし、逆にうまくいきすぎる人もいるのかもしれまが、でも勉強に関しては、そういう先天的な要素なのは特例なのだろうな、と思っています。
 多くの人の場合は、勉強の意義を見いだせるかどうか、また、自分にあう勉強方法が見つかるかどうかなんじゃないかなぁ、と思うのです。

まぁ、頭の遺伝子よりも、努力できる遺伝子があるのであれば、それが一番有利なんでしょうね。

なんか、今の頭の中で、こんなことを考えてみました、というお話です。