受講して三年目になる故宮文物初級の学びは「青銅器」から今年はスタートでした。はじめて参加された方は難しかったと感想を述べられていました。

青銅器は、起源ははっきりしていませんが人類が最初に作った金属器とされています。

現在のイラクの位置にあったチグリスユーフラテス川流域の人類初の文明とされるメソポタミアやエジプト、インダス、エーゲ文明などの多くの古代文明で用いられていました。短刀などが残っています。紀元前3000年頃にメソポタミア南部でシュメール人による国家が生まれ、軍事制度が作られ、戦士は青銅の武器を使って戦ったそうです。

中国では、中国文明発祥の地とされる黄河中流から下流域の「中原」といわれる一帯地域が青銅文明において代表する地域と見られていました。

時代は夏、殷(商)、周時代です。


本当に実在したのかとされていた

夏王朝は紀元前1600年ごろより前

殷(商)は紀元前1600年ごろ〜紀元前1046年 とされ

周(西周、春秋戦国時代)は

紀元前1046年ごろ〜紀元前256年 


私もまだ時代や人物名などを聞くと、頭がハテナ???になりますし、青銅器の種類も普段は使わない漢字だから難しい気持ちがよくわかります。

先生が、歴史などを面白く教えてくれるので

文物の鑑賞が以前より楽しくなってきています。

学び始める前にも

2回ほど台北の国立故宮博物院に行っていましたが

青銅器の部屋は早歩きか、飛ばすか、なんなら金属の塊くらいにしか思ってなかったんです…


確か、すごく古い時代のもの…だよね…

というくらいで、紀元前というとなんとなく現実味を感じなくて全然興味を持つことができていませんでした。

(ごめんね!青銅器!)

明代清代というとなんとなく身近に感じたりして…


でも、待って!

(ここにあるものは故宮文物だよ?全部お宝だよ?しかも、青銅器コーナーって、とても充実してるし、歴代皇帝コレクションでしょ!…)

だけど…わからない、塊にしかみえないー!

というのが、私の学ぶ前の感想でした。

オンラインで学びながら、許す限り実際に博物院に足を運び台北故宮に7回、嘉義県にある南院に2回行き実物を鑑賞してきました。


香港故宮に、行った際には

青銅器に対する印象がガラッと変わる経験をしました。

四川省で新たに発見された三星堆(さんせいたい)の特別展があり、その際は前知識もなく奇怪な遺物に出会ってしまったので、ただただ見たこともない青銅偶像の数々に圧倒されました。

宇宙人が作ったといわれていたそうですが、私もそんなふうに感じました。

のちに、三星堆について学ぶ機会が訪れて、四川と東西南北の世界との繋がりや融合が感じられ、面白くなりました。

(三星堆については、また次回へ)


メソポタミアから世界へ広がっていった青銅器ですが

中国では、祭祀に使う祭器(酒器や食器)や楽器など

芸術品として発展していきます。

こちらは、有名な国宝、西周晩期の

毛公鼎/もうこうてい」国立台北故宮博物院所属


ズンズン歩き出しそう!

後ろの足見えませんが、 は3つの足があります。

内側に500字の銘文が刻まれていますが、世界の青銅器の中で最も文字数が多いとされています。

銘文は

「王若曰」から始まり、周宣王が即位した頃に叔父の毛公に豊かな褒美を与えた

ということが書かれています。


台北故宮博物院所属の青銅器は状態が良いものが多いです。古代はさらにピッカピカだったそうで、それはそれは神々しいものだったのでしょうね!!


こちらは西周晩期「散盤/さんばん

散氏盤(さんしばん)とも呼ばれています。


実際に水を入れ礼器として

使用されていた器ではなく

二つの小国が土地をめぐり紛争した史実の証で

こちらも清代末の四大国宝とされます。

最初は頤和園にあった後、養心殿に移されました。


約350字ほどの銘文(金文)が刻まれていて

その内容は、国(ぜこく)の散国への侵略が失敗し、両国で講和した際に、国が二つの土地を賠償すると約束し、割譲した土地を地図に描き二度と侵犯しないと誓った、ということが詳細に記録されています。


双国が友好的な頃は婚姻関係を結ぶほどでしたが、散国は国の侵略を阻止し、賠償も得たので功績を記録して子々孫々に伝えるために製作しました。

散盤に事の経過を詳細に記録し、両国の協定の証拠としました。銘文の字体も見どころです。


文献の記載によると、この散盤は清代に出土して多くの人に収蔵された後に、嘉慶帝の50歳の誕生祝いとして献上されたそうです。


丸いお皿に獣面文の装飾された高い圏足(けんそく)、両側には耳、外側の表面には夔龍文(きりゅうもん)、その間に獣の頭が3つ浮き彫りされています。


西周早期

 祖乙尊 ↓

尊(そん)は古代において祭祀の際に酒を盛る器でした。

祖乙尊」は、紀元前11世紀に流行した口がラッパ型に大きく開いた筒状の器で、全体に装飾が施されています。

腹部が少し突き出ていて巨大な獣面紋が目に飛び込んできます。大きな目や隆起した鼻、大きく突き出た角、耳やキバなどがわかります。 

上部には、殷周時代の青銅器に多く見られる龍に似た神話の動物が施されています。身体が蛇のように長く1本足の動物です。

下部の丈の高い円形の高台にも獣面紋があります。


底部の内側には銘文があり、この器の製作者が「乙」という祖父を祀る為に、作ったという内容が記録されています。


↓漢

尚方博局紋鏡

丸いこの形は、西漢末期から東漢にかけて流行していたのだそうです。

丸い文鎮みたい…あるいは占いでもしていたのかなぁ…

というのが観た時の印象。


中央に丸いつまみ、その周りは大きな四角形が囲っています。四角形から突き出たT字型と、L字型の模様が相対しています。四角形の四隅V字型の模様と相対しています。この模様は西洋ではTLVと呼ばれ、漢代に流行した「六博」の模様を模倣しているため「博局鏡」と呼ばれています。

さらによく見ると、この博局紋の間には龍、虎、朱雀、玄武の四神が装飾されています。

四角内には子から支までの十二支の銘文、博局紋の外側の銘文には

「この鏡を作ることはとても良いことだ、天上の仙人は老いを知らず、渇けば泉の水を飲み、飢えればナツメの実を食べ、四海を自由に渡る、寿命は金石のように長く国を守る」

と帯状に鏡に対する賞賛と仙人への憧れが刻まれています。


十二支はもともと、殷代の甲骨文字から生まれたとされていて日付を記録する暦として使われていました。

のちに占いなどでも活用するので、はじめて見たときに占いの道具に見えたのだと思いました。




②へ続きます!

青銅器②