ルイボスティーを飲み終える。

 その後、雅くんがわたしと自分のマグカップを回収し、それらをキッチンに運んだ。

 そして戻ってくるなり、わたしの手を取る。

“立て”という合図にうながされて、椅子からしずかに立ち上がった。

 いまから、部屋に行く。

 そこに行ったら、雅くんと離れ離れ。

 ひとりの時間が、始まる。

 始まってしまう。

 ――ひとりで過ごすあの時間、「嫌だ」が勝っているのか「つらい」が勝っているのか。

 うまくことばにできない。

 今日はまだ、すこしだけここにいたい。

 まだ、連れていかないで。

 ――なんて、言えない。

 手を引かれるがまま、雅くんとリビングルームをあとにする。なんのことばも交わさず、わたしの部屋へ向かってとぼとぼと歩く。

 ――手を引かれているいま、主導権が雅くんにあるのを意識せずにはいられない。

「……ねえ」

「何」

「もし、ひとりが寂しい、って言ったら……」

「その時は言いな」

「うん……」

 ほっとした。

 見捨てられていないんだって、そのことばで理解できたから。自分のおもいをつたえれば、ちゃんと寄り添ってもらえるんだってわかったから。

「……ありがとう!」

 手を強く握る。

 すると、振り向き、やわらかにほほえんでくれた。

 雅くんのそうした反応がうれしくて、顔がほころぶ。

 ほんとう、一々こうしてうかれている自分はおろか者でなさけなくて、どうしようもない。

 部屋の前にやってきた。

 ここに入ったら、ひとりきり。

 いつもなら平気なはずなのに。今日は、今日だけはなぜか耐えられそうになくて。

 小鳥遊先生の名を不意に呼んでしまったあの瞬間、こころが確かに彼をもとめていた。

 ただ――小鳥遊先生をもとめたところで、問題はなんにも解決しない。それどころか、わたしのトリガーである“協会”を想起させて、その深みへとわたしを際限なく引きずり込む。

 だからこそ、小鳥遊先生をもとめたところで、現状がなんにも変わらないことはわかりきっている。

 小鳥遊先生は、わたしを救わない。

 ガチャリ。

 雅くんがドアを開けた。

 広々とした部屋――テレビ、ベッドや本棚。

 あらためて、ほんとうに簡素な部屋だ。

 手をつなぎながら、雅くんとベッドへ向かう。

 それから、2人でそこに腰かけた。

「ここにくるまでの間だけど、何か考えてた?」

 顔をのぞき込まれ、そう問われる。

「……うん」

「言いな」

「……小鳥遊、先生について、だよ……」

「……ふうん。渡瀬、ね……」

「うん……」

 雅くんを横目で見る。小鳥遊先生――渡瀬先生の名前を告げた直後、わたしたちを取り巻く空気が微かに変化した気がした。

「――別に、ここにいれば本来、あいつも天樓も綾瞳には無関係なはずなんだけどね」

「うん……」

「そもそも」

『そもそも』と切り出し、眼鏡を人差し指で持ち上げる。

「綾瞳をここに住まわせているのは、渡瀬と天樓から綾瞳を隔離するためでもあるんだけど――。そんなに渡瀬に会いたいのなら、俺は別に止めないよ」

「……!」

 雅くんの目を見る。

 その瞳は妖しい光をはらんでいて。ここ以外にわたしを保護してくれる場所も、雅くん以外にわたしを保護してくれるひともいない。その事実を理解した上での発言だと見抜いた途端、呼吸が苦しくなった。

「渡瀬が今、どこにいるか知らないでしょ」

 問われ、無言でうなずく。

「となると、職場も知らないわけだね」

「……うん」

 と、そう返すなり、雅くんの口角がにやりと上がった。

「まず、『どこにいるかを知らない。それでも会う』という命題について、ね」

「……」

「渡瀬に会うには渡瀬の居場所を知る必要がある。で、今、綾瞳は渡瀬にまつわる情報を持っていない。ただ、だからといって絶対に会えないわけではない。何かの拍子に渡瀬の居場所を知る可能性もあるわけだしね」

「小鳥遊先生に、会えるの?……」

「さっき説明したような偶然が起きれば、ね」

 目を輝かせ、希望を抱いたわたしの気持ちを察したのだろう。

 にこり、と笑みを浮かべた。

「さっきの問題点をまとめると、前提Aの『渡瀬が今、どこにいるかを知っている』。そこから導かれる帰結Bが『渡瀬に会えるかもしれない』。そして今回の問題点は、綾瞳が前提を欠いたまま帰結へと飛躍した点にあるんだよ」

「そ、そうだね……」

 ――へらり、とわらう。

 あきらめるしかない。

 これを理解してうつむく。

 もしかしたら渡瀬先生に会えるかもしれない、と。彼との再会をこころのどこかで、あわく期待していたのかもしれない。

 雅くんのことばは、わたしを現実に直面させてばかり。

「……ゆるして」

「許すも何もないけど」

「うん……」

 拳を握る。

 もう、わすれたいのに。

 わすれられたら楽なのに。

 けど、わすれられなくて。

 わすれさせてくれなくて。

「……もう、わすれたいのに……」

 ぽつりともらしたことばは虚空へと消えた。

「何を」

「協会も、小鳥遊先生も……けど、だけどっ! わすれたいのにわすれられなくてっ!……」

「……今日、一緒にいたほうがよさそうだね」

「うん……うん……」

 雅くんの肩にそっともたれかかる。

 こうしたわたしを拒まず、黙って受け入れてくれた。雅くんの無言のやさしさがありがたかった。

 ふと、さっき見た上野公園のニュースをおもいだす。

 ――雅くんと上野公園へ桜を見に行きたい。

 こう望むのは、わがままなのか。

「あのね……」

「うん」

「上野公園の桜……」

「見に行きたいの?」

「うん……」

「……見せに行ってあげても構わないけどね、桜」

「ほんとう?……」

「いいよ」

 その声はあまりに無機質で、ひとの温もりというものがまったく感じられなかった。わたしがただ桜を見に行きたいと望んだから付き合うだけ――。雅くんのそんな合理主義がにじみ出ていた。

 雅くんと桜を見に行ける。それだけでもう、なんでもかまわない。

“見せに行ってあげても構わない”

 本人が確かにそう言ってくれただけで、すべてが報われた気がした。

 いまは、そのことばにすがらせてほしい。

「俺、風呂に入ってくるけど」

「うん……」

「平気?」

「……だい、じょうぶ……」

「――ではないね」

“なにをされるのか”という恐怖心から口を閉ざす。

 雅くんを見遣れば、わたしを横目でちらっと見、「スミス」とだけつぶやいた。

「すみ、す?」

「ここにもあるよ」

 そしてベッドから立ち上がり、テレビ台に向かう。その引き出しを開けて、見るからに頑丈そうな手錠を取り出した。

 ――じゃらり。

 重い金属がゆれる音が響いた。

「な、に……?」

「拘束」

“拘束”とだけ告げられ、脳がフリーズする。

『なぜ拘束するのか』と聞こうとして、やめた。本人のなかにきちんとした理屈があるからこそ、わたしを拘束するのだろう。

 こう考え、それを受け入れることにした。

「……」

「目の動きと体の震え。それらに動揺が表れているからね」

「……」

「よって、拘束は合理的判断」

「うん……」

 じゃらり、と揺らした手錠を容赦なくわたしの両手首にはめて、がちゃん、と鍵をかける。

 手錠をはめられた途端、自由を奪われ、一瞬にして雅くんの管理下に置かれてしまった。

 ――がっくりとうなだれる。

 抵抗する気力を、たちまち削がれてしまった。

 もう、反抗も反論もせず、雅くんに服従すれば楽になれる――こうした考えが脳裏を支配し始める。

「……やっぱり従順だね」

「……」

「横になるの、手伝うよ」

「うん……」

 それからわたしの太ももに腕を差し込み、わたしをお姫様抱っこしてベッドに横たわらせた。

 ベッドに横たわり、雅くんを見上げる。と、眼鏡越しに彼もわたしを見た。

 その眼は、こころが底冷えするほど寒々としていた。

「風呂、行ってくるよ」

「……行ってらっしゃい」

「うん」

 重苦しい手錠をはめられたわたしを気にも留めず、無関心そうに部屋から出ていってしまった。

“行かないで”

 引き止める余白を、一切あたえてくれなかった。

 それさえあれば、引き止められたのに、と。

 ……とスキャンダル。

 ふと、隣の部屋から、壁を伝ってなにかの曲がうっすらと流れてくる。

 いったい、なんの曲なのか。

“危険な恋を ウォウウォウウォ

 しちゃいけないぜ スキャンダル”

 ――スキャンダル、か。

 そういえば、隣から音楽が壁を伝って聞こえてくるときがある。隣のひとがステレオかなにかで音楽を大音量で流しているのだろう。

 ――隣のひと、いったいどんなひとなんだろう。

 おもしろいひとなのかな。

 すこしだけ、気になってしまった。

 雅くんは、そのひとと顔を合わせたりしたのかな。

 ――聞こえてくる音楽に身を任せながら、目を閉じる。

 哀愁漂うメロディーがここちよく、うとうとしてしまう。音楽を聴いているあいだは、なにもかもを忘れられる。

 いっそ隣のひとは、音楽をずっと流してほしい。

 音楽が流れ終わると、世界がわたしを恐怖へと引きずり込む。

 どんなメロディーでも構わない。旋律で恐怖をやわらげてほしい。

 ドアのほうへ目を向けたちょうどそのとき、なんの前触れもなくドアが開き、びくっとする。『なぜ』とおもう間もなく、ペットボトルを持った雅くんがこちらにやってきた。

「……」

「落ち着かなくてね、妙に」

「うん……」

 ベッドボードにペットボトルを置き、ベッドに腰かける。

 直後、じろっと壁のほうを見て、「……いつもの曲か」ともらした。

「……いつもの曲?」

「そう」

「……知ってるの?」

「知ってるも何も、耳を澄ませば嫌でも聞こえる曲だからね」

 壁のほうへ顔を向けたまま、わたしには目もくれず、その音楽に意識を集中させているらしかった。

「――まあ、ストーリー性のある曲だから許容範囲内といったところだね。あと、現時点では、騒音計で数値を測定するほどの音量でもなさそうだし」

「そこまで……」

「当然」

『当然』と冷たく言い放ち、テレビリモコンに手を伸ばす。『隣人の流す音楽にそれ以上耳を傾ける必要はない』と判断したのかもしれない。

 テレビの電源が入る。

「見る? 寝る?」

「んー……どうしよう……」

「好きにしな」

「うん……」

 手錠をはめられたままでは自由に寝返りを打てない。

 タチの悪さは、それを知りながらも決して手錠を外さない――主導権を手放さないことだ。

 一緒にいるあいだのときくらいは手錠を外してくれてもいいのに、と苦しくなってしまう。

 管理された自由が、息苦しい。

 ――喉が渇いたな。

 ペットボトルに視線を送る。と、それに気づいた雅くんが「飲む?」とすかさず問う。

「……うん」

「分かった」

 その後、雅くんはわたしを抱き起こし、ペットボトルの飲み物をわたしに飲ませた。ペットボトルの中味はレモンティーだった。

「ありがとう……」

「いいよ。喉が渇いたらいつでも言いな」

「うん……」

 雅くんと一緒にテレビを見る。結婚をテーマにした深夜ドラマが放送されており、ふと、『彼はこのドラマに対してなにをおもっているのだろうか』と気になった。

 横目で雅くんの表情を盗み見る。別段、ドラマに感情移入しているふうでもなく、つまらなげにドラマを鑑賞していた。

「……結婚、ね」

「雅、くん?」

「独身は自由を享受できる。例えば、隣人みたいにいつでも好きな時に音楽を流せたりね。けど、その代償として孤独を引き受ける覚悟が求められる。一方で、結婚は自由を生贄にすることによって孤独から逃れられる」

「……」

「つまり、不自由さや共同生活に伴う不確実性を愛せる人間だけが結婚というシステムに適合できるというわけ」

 テレビから一切視線を動かさず、結婚というシステムを淡々と語るその様はロボットみたいで。そんな雅くんに恐怖を覚えた。

「そ、そっか……」

 ふと、雅くん自身は結婚に興味を抱いているのかどうかが気になった。

 相変わらず隣からは音楽が壁を伝って流れてきている。それはどうやら2周目に突入したらしい。

“愛さずにいられない

 たとえ禁じられても”

 愛さずにはいられない――それを聴いた瞬間、わたしたちの関係性にも似たそのフレーズに、背筋がぞわりとした。

「――結婚だけど」

 雅くんがぽそりともらしたことばを聞き、彼の横顔を見る。

「これについては、自分の全てを相手に捧げても構わない――こう思える相手と出逢えたときこそがそのタイミングかもしれないね」

「……でも、それって……」

「――綾瞳が言いたいこと。それはつまり、俺たちは結婚していないにもかかわらず、綾瞳のために俺が自分の時間をこうして犠牲にしているのは論理的に破綻している、でしょ?」

「……うん」

「『俺がそうしたい』と思って選んだ一連の行為。それが結果的に、籍を入れずとも結婚のような状態に至った。それが今の状況なんだろうね」

「そっか……」

「そう。ところで、綾瞳」

「……なあに?」

「今はこうした形での暮らしだけど――綾瞳はこの先、俺とどうしたい?」

 予想だにしなかった質問をぶつけられ、頭がパニックになる。

「わ、わたしはね……雅くんとこれからもずっと……ずっと!!……」

「一緒がいい、だね?」

「う、うん!」

 どきどきしながら、雅くんに気持ちを打ち明ける。

 雅くんの気持ちは……。

「――そっか。俺もだよ」

「っ!……うん……うん!!」

 そして頭をやさしくなでられる。ずっとずっと、このしあわせが続いてほしいと願ってしまうことは――罪なのだろうか。

「……綾瞳」

「ん?」

「眠い?」

「……たしかに……」

 ――言われてみれば、レモンティーを飲んでからだろうか。妙に眠く、瞼が重い。うつらうつらとしてしまい、ドラマの内容が頭に入ってこない。

「そっか」

「うん……。頭がぼんやり、する……」

 ぼけーっとした状態で曖昧な返事をする。と、「もう寝な」と言って、わたしをベッドに横たわらせた。

「ねえ」

「ん?」

「なにか、混ぜた?」

「……さあね」

『さあね』とはぐらかされて、もやっとする。得体の知れない“なにか”を飲まされた不安と恐怖が、こころのなかでじわじわと膨らんでゆく。

 ――だめ。

 ほんとうに、ねむい。

「……おやすみ、なさい……」

「――おやすみ」

 やわらかな笑顔とともに布団をかけてくれた。そのやさしさが抗えない眠気と溶け合い、とても心地よかった。

 ――そして、わたしをつつみ込むやさしい眠気に抗えないまま、眠りに落ちた。