アルジャジーラ・スタッフ
2022年9月16日 
https://www.aljazeera.com/news/2022/9/16/sabra-and-shatila-massacre-40-years-on-explainer

イスラエルに支援されたファランジ民兵が、パレスチナ難民とレバノン市民を2日間で2,000人から3,500人殺害した。
残虐なことで知られるレバノン内戦の中でも、
最も悲惨な虐殺のひとつだった。

レバノンの首都ベイルートの

南西に位置するパレスチナ難民キャンプ、
シャティーラと隣接するサブラ地区。

難民たちは1948年のナクバ
(アラビア語で「大惨事」)の犠牲者であり、
イスラエル建国時にシオニスト民兵による
パレスチナの暴力的な民族浄化から逃れてきた。

しかし、1982年9月16日から18日にかけて、
現在シャティーラとサブラに住む難民たちは、
レバノンの市民とともに、
イスラエル軍と連携したレバノンの
右翼民兵に襲撃された。

◆何が起こったのか?
1982年6月、イスラエルは、
ベイルートを拠点とし、
レバノン南部からイスラエルに
攻撃を仕掛けていたパレスチナ解放機構
(PLO)を壊滅させることを目的に、
同国の15年にわたる内戦(1975~1990年)
の最中にレバノンに侵攻した。



PLOは1982年9月1日までに
レバノンから撤退した。
米国と多国籍軍は、
残されたパレスチナ難民と民間人を
保護するという保証を提供した。

その2週間後、イスラエル軍は
サブラとシャティーラを包囲し、
その盟友であるレバノンの右翼民兵組織
ファランジを援護して大量殺戮を実行した。

殺害は9月16日(木)午後6時から
18日(土)午後1時まで43時間続いた。
殺害された人々の正確な数を
把握することは難しいが、
推定では2,000人から3,500人の市民が
死亡したとされている。

大量殺戮の証言では、虐殺、切断、
強姦、集団墓地といった
おぞましい行為が描かれている。
その余波の映像は世界中のテレビで放映され、
世界的な怒りを引き起こした。

2,000人から3,500人が殺された。

◆何がそうさせたのか?
歴史的パレスチナの北部地域を中心に
10万人以上のパレスチナ人が、
1948年のナクバの際に追放され、
レバノンに逃れた。

PLOは、武装闘争による
パレスチナ解放を目的に1964年に創設された
パレスチナ政党の傘であり、
1970年にヨルダンから追い出された後、
活動拠点をベイルートに移した。


1969年、エジプトが仲介したPLOと
レバノン軍の合意により、
PLOの武装闘争司令部はレバノンにある
16のパレスチナ難民キャンプを掌握し、
レバノン南部からイスラエルに対する
作戦を実行できるようになった。

レバノン内戦は1975年、
イスラエルと米国の支援を受けた
キリスト教マロン派右派政党の連合体である
レバノン戦線(LF)と、
世俗左派、汎アラブの
スンニ派・シーア派イスラム教徒、
PLOの連合体であるレバノン国民運動
(LNM)の間で勃発した。シリアも侵攻した。

アリエル・シャロン国防相(当時)率いる
イスラエル軍は1982年6月にレバノンに侵攻し、
ベイルートを包囲、
PLO本部のあるベイルートを集中砲火した。

9月1日にPLOがベイルートから撤退した後に
到着した多国籍軍は、
30日間滞在するはずだった。
しかし、彼らは9月10日に早々に撤退した。

1982年9月14日、レバノン次期大統領で
レバノン軍指導者のバチール・ゲマイエルが
ベイルートで暗殺された。

翌朝、イスラエルはベイルート西部に侵攻し、
難民キャンプから誰も出られないようにした。
イスラエル軍はその後、
ゲマイエルの死をPLOになすりつけたファランジュに
サブラとシャティーラへの侵入を許し、
虐殺を実行した。

◆その後どうなったか?
国連総会はこの虐殺を「大量虐殺行為」
とする決議を採択した。
PLOは、1993年にイスラエルとの間で
オスロ合意が調印され、
パレスチナ自治政府(PA)が発足する前に、
本部をチュニジアに移した。

サブラとシャティーラの虐殺は、
パレスチナの歴史の中で
最もトラウマ的な出来事のひとつとして
記憶されており、
その記憶は毎年レバノンとパレスチナの
パレスチナ人によって記念されている。

この出来事は、現在レバノンにいる

パレスチナ難民の苦境を
浮き彫りにし続けており、国連によれば、
その数は47万9000人にのぼる。

そのうちの約45%は、レバノンにある
12の難民キャンプに住んでおり、
過密状態、劣悪な住宅環境、失業、
貧困、基本的なサービスや
法的支援へのアクセスの欠如などに苦しんでいる。

レバノンのパレスチナ人は、
39もの職業に就くことを禁じられており、
財産を所有することもできない。

◆誰が責任を問われたのか?

レバノン人、イスラエル人戦闘員、
政府関係者の誰一人として、
犯した罪に対して処罰されることはなかった。

イスラエルの調査によれば、
虐殺の直接の責任はレバノン軍民兵にあるが、
「流血と復讐の危険を無視した
シャロン個人の責任」ともされ、
辞任を勧告された。

シャロンは1983年2月14日に辞任したが、

2001年に首相に選出された。
1983年2月、国連委員会は
「イスラエル当局または軍が
(サブラとシャティーラの)虐殺に
直接的または間接的に関与した」と認定した。

2002年、ベルギーの裁判所は、
1993年にベルギーが外国人による
海外での戦争犯罪を裁くことを
認めた法律があるにもかかわらず、
シャロンが法廷に出席していなかった
という理由で、
サブラとシャティーラの生存者数十人が
シャロンに対して起こした裁判を却下した。