「儒学というものは、基本的な行いを説いている。人はそれを行い難いから、耳が痛いからこそ儒学が必要なのだ。耳が痛くなくなるまでには…孔子でさえ、七十までかかっている」
喉がひりつき、儒者は茶を啜った。
「孔子はまた、こうも言っている。自分は一日の内に、三度も確認する。自分の行いは、『仁』に外れていないか?『仁』を行っているか?…つまりそれ程実行しがたいことなのだ。孔子の偉いところは、実は簡単には実行できていないと認めているところにある。もともと仁者であれば、あえて学ぶ必要もない。簡単にはできないことを認め、それでも学ぶべきであると言い切っているから、孔子は尊敬され、人々は学ぼうとする。それは、常に自分の良心を問われているからだ」
「そこで、『仁』だが…」
「『仁政』と言う言葉がある」
「政治を、『仁』によって行うということである」
「これは、何か?」
「ところで、政治は法に依るべきか?仁に依るべきか?」
「そこに、答えはあるのか?」正信は聞き返した。
「ふむ。『答えはない』が答えか…。そうなのかもしれぬ」儒者はあっさりと言った。
「私は、法に依るべきだと思います。なぜなら法が守られねば、力が台頭するからです」羅山が言った。
「なるほど、力を制するに、法を持ってす」
「はい」
「法は、万人に等しく、不変のものであろうか?」
「…」羅山は、言葉が喉に引っかかった。
「なるべく、そうせねばなるまいな。ところで先程の『仁政』だが、これはどう思うかね?」
「正直申して、法の下の統治の方が、勝れていると思います」
「ふむ、何故だね?」
「先程先生が仰られたところでは、孔子ですら、仁を行うのが難しいとの事。それであれば、仁政のできる統治者などいないことになります」
「その通りだ。仁政はなかなかに難しい」
「法の勝れているところは、守らなければ、制裁を受ける事にあり、それが具体的に決まっていることだ。そしてそれは、大抵の場合多くの人々にとっての正義に一致する。だが、法には欠点がある。時には法が不正の世を支配することもある。人々は時に、どれが正しくて、どれが正しくないかを、自身で判断できなくなる。法の書いてある物を読まなければ、行動できないのだ。ここに、『仁』『義』『礼』『信』といった儒の道との違いがある。『仁』は明確にこれこれと書いてある訳ではない。ただ人は己を顧みて、不仁であったと罪の意識を負い、仁者となって心の中の『負』を拭いたいと思うのみである。法と比べるまでもなく、これでは人は縛れない。翻って法はどうか?法に定まっていない限り何をやろうとそれは正義となる。ただ人は自分の背中に他人の眼を感じるだけであろう。それは、例えて言うならば鬼神のようなものだ。霊と言った方が良かったな。倭では。
つまり法は、大多数の人間が仁の心を持とうと努力する世の上に成り立つ。人心が荒れ、法の綻びを探し始める世の中では、機能しなくなる。人心が今の世に倦み、新しい世を求めるのは、そのためだ。人は、法治よりは仁政を望み、大多数の心の中に仁のある世を望んでいるからだ。それでこそ法も力を発揮する」
儒者は一息ついて、羅山を見た。羅山の瞳は澄んで、輝いていた
(この国は、あるいは二百年の間は、我が国を侵すことはないかもしれぬ。)