小説「旅人の歌ー 儒者篇」その24 - 猫騒動 | 物語書いてる?

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 黒い鳥が、威嚇するかのように空から降りて来た。夫人は咄嗟にその鳥を避け、身を引いた。あの鳥だけはどうも苦手だった。薬草を摘んだ籠を背負い直し、夫人は歩きなれた寺への道を戻った。門の前で、夫人は声を掛けられた。

「もし、お加羅さま?」
夫人が振り返ってみると、月代も剃り始めといった風情の若い侍がそこに佇んでいた。いつも儒者の書を写している中にいた侍だ。夫人は訝しげにその侍を見た。
「あなた様を見込んで、ぜひ話を聞いていただきたいことがあります」その侍は思いつめた表情で言った。夫人は本堂に回り、儒者と話をしていた藤原惺窩の前にその若侍を引き連れて来た。

「お加羅様」侍が口を開いた。
「はい」夫人は頬を引き締める様にして聞いた。
「私の姉を、救ってほしいのです」そう言って、侍は遠くを見た。
「姉は今、生死の境を彷徨っています」
「お姉さまはどちらに?どのようなお怪我ですか?」
「主人に、斬り殺されたのです。化け物と呼ばれ…いや、まだ死んではおりません」
 夫人は、ゆっくりと侍の表情を窺った。惺窩が口を挟んだ。
「化け物とは、何の事だね?」
 侍は虚ろな目で惺窩を見た。
「化け猫と、主人にそう呼ばれ、いや本当は行燈に火をつけていただけなのです。誓って姉は化け猫ではありませぬ。ただ…」侍は言いよどんだ。
「ただ?」惺窩が話の先を促した。
「姉は主人の家臣に差し出され、心を病んでしまったのでございます」
「主人が…家臣に?女人を差し出したのか?」惺窩が質した。
「はい、今や家臣がお家を乗っ取ろうとしており、主人は苦肉の策を打ったのでございます。ところが戻って来た姉を見て、主人は…主人は…」侍はそこまで言うと、激しく被りを振った。
「分かりました。まずはお姉さまを診ましょう。どちらに?」
 川面に浮かんだ月が揺れた。夫人は何故かその三日月が笑ったように見えた。ふと後ろが気になり、振り返った。板塀の隅で二つの光が夫人を捉えた。喉を鳴らすような鳴き声がした。
「猫…?」夫人のうなじが風に撫でられた。
「こちらです」前を行く若い侍が、夫人に振り返った。その顔は青白かった。
 家の中は静まり返っていた。夫人は布団の中に眠っている女性の顔を見て、胸を突かれた。

(これは…。)
 夫人は布団を捲って、眼を大きく開けた。その女性の右肩から左の脇腹にかけて、ぱっくりと割れていた。夫人はその女性の胸に耳を当てた。女性の体からは、何の音もしなかった。夫人は顔を若い侍に向けて、首を横に振った。侍はそこで、懐から子猫を出した。
「姉は、決して化け猫ではございませぬ。姉は自ら猫の真似などしておりますが…」
 夫人は自分の胸に手を当て、息を整えた。侍に向き直ると、子猫を預かった。
「わかりました。私がお預かりしましょう。ところであなたも、とてもお疲れではありませんか?」
 侍は目の下に隈を作っていた。ゆっくりと頷いた。
「では暫く、寺で養生されてはいかが?薬など処方しましょう」
 侍女は白布を細長く裂いた。夫人はそれを見て微笑んだ。
「そのも、すっかりうまくなったわね。無造作に裂くように見えるのに、どれを見ても幅が同じになっていて、とても使いやすい」
 侍女は眉を上げた。
「私は元々手先が器用なんですよ。今頃気づいたんですか?」
 そう言ってにんまりと笑った。
「それにしても、最近は人の出入りがやたらと多くなりましたね?カラ様の評判が伝わったのかしら?」
「私の?どんな?」
「いえね。この間心を病んだお武家さまを癒されたでしょ?それで、カラ様は針や薬だけでなく、心でも人を直す。まさに神医だって。ホラ、昨日も双子の医師が見えたじゃないですか。確か理安と意安とかいう…」
「それは、私ではなくハン様に会いに来たのですよ。最近は物騒で、人の心が荒れているとかで…」
「そうですか?私が二人の医師から聞いたのは、カラ様の評判を聞きつけたからだと…現にカラ様の診ているあのお武家に、いろいろ尋ねていたみたいですよ」
 背中から不意に声がかかった。
「おカラ殿」「ここにおいででしたか」二つの声が交互に響いた。
「今日こそはお時間を」「ぜひ教えを乞いたく」双子の医師は一人の人間であるかのように声を合わせた。
「はい…」夫人は二人の医師を交互に見た。

 その時、門の方で大声が聞こえた。四人が急いで行ってみると、患者達の待っている真ん中で二人の侍が口論していた。
「鞘当てとは、無礼であろう」錦の頭巾を被った侍が言った。
「それはこちらの台詞だ。儂を誰だと思っておる?」そう言った侍も灰色の頭巾を被っている。
「何?重ね重ね無礼な…名を、名を名乗れ」
「儂は…」と言ってから侍は回りを見てはっとなった。
「い、急ぐゆえ、こ度は許してやる」面を伏せて門を出てゆく。
 錦頭巾の侍は回りを見て言った。
「何を見ておる?見世物ではない」その目が夫人の顔に留まった。ごくりと侍の喉が鳴った。
「そちが、カラより参った医師か?」
「はい」夫人は頷いた。
「そちに用があって参った。どこぞ秘密の話ができる部屋へ通せ」
 夫人は集まって来た惺窩、儒者たちに目配せして、その侍を奥へ通した。
「こちらに…」
 堂内は静まり返っていた。もうずいぶん使われていない木魚が置いてある。 夫人はその横の座布団を薦めた。
「私に、御用ですか?」
 侍はしばし夫人に見とれていたが、咳払いをして話を始めた。
「そこもと、先般ある女の家に行ったであろう」
 夫人は頭巾の中の眼を見た。
「はい、行きました」
「そこで、女を看取ったのか?」
 夫人は黙って侍を見た。
「女の…最後を看取ったのか?つまり…女は確かに死んだのだな?」
 夫人はこくりと頷いた。
「今の話、我が主人の前でしてもらいたい。今より儂について参れ」頭巾の侍は突然立ち上がると、夫人の手をつかんだ。夫人は驚いてその手を振りほどこうとするが、侍の手は思ったより強く、夫人はそのまま引きずられていった。その時、廊下から声がかかった。

「奸賊。何をする」声のした方を振り向くと、そこには若侍が、刀を正眼に構えていた。足を蹴って踏み込んで来る。頭巾は慌てて身を捩った。若侍は夫人と頭巾の間を割る様にして突っ込んだ。
「わっ、危ない」頭巾は一声叫んで裸足で庭に降りた。そのまま駆け出していく。途中で砂利に突んのめって転んだ。
「待て」若侍は抜身の刀を下げたまま庭に降りた。その前を惺窩が立ち塞がった。
「神聖なる学びの庭で何たるざま」
 若侍は首を垂れた。その隙に頭巾侍は門の外へと駆け去っていった。

 儒者はポツンと聞いた。
「何が、あったのだ?」
「奴の主が、姉を斬ったのです」
 儒者は夫人の方を向いた。
「あの男は、何をしに来たのだ?」
「あの女性の死を、確認しに来たの」
「ふむ…」そう言ったのは惺窩だった。
「仔細が…ありそうだの」
  陽射しの中に、暖かみが感じられた。儒者は筆を止めて、円窓の外を見渡した。昨晩論じた惺窩との会話が脳裏に甦ってくる。
「日本の南端の地に、島津という戦国大名がいます」
「知っている。鬼石慢子と呼ばれた戦闘集団であろう」
「はい。その島津で、今騒動が持ち上がっています」
「騒動?」
「島津の家臣が叛き、そのことを憎んだ島津の縁戚が、独断で首を討ちとり、籠城した由にございます」
「何故、急に?」
「そのことにございます。秩序を乱したと、叔父甥の血の争いに発展しました」
「ふむ?」儒者は眉を寄せた。
「ところで、島津という一族、元は渡来系の秦一族の末裔と聞きました」
「渡来系?」
「一説によると、百済系との由…」
「百済?」儒者の眼が光った。
「それが何故わが地を蹂躙したのだ?」
「渡来系は島津だけではありませぬ。長宗我部、毛利、宇喜多などもしかり」
 儒者は腕を組んで黙ってしまった。

 そこに武士たちが入って来た。
「我々は鍋島家の者だ。そなたが、この寺の主か?」惺窩に向かって聞く。惺窩は頷いた。
「この寺に若い侍がおると聞いた。病の治療を受けているとの由。会わせていただきたい」
 惺窩と儒者は目を合わせた。
「はて、会わせたものか…?この間もその侍が刃傷沙汰を引き起こしましてな」
「刃傷沙汰と?さては龍造寺…」侍たちは色めき立った。
「我らはその侍に遺恨ある者ではない。むしろ龍造寺の手の者より守ろうとしている」
 すると裏手より若い侍が現れた。
「おお氏家殿。ご無事でござったか。我らは鍋島の家中の者でござる。姉上の事、さぞかし無念でござろう。お悔やみ申し上げる。ついては、当方に存念がある故、まずは鍋島家にてお主の身柄、預かろう。我々と共に参られよ」
 氏家と呼ばれた侍は、眼を瞬いた。
「何を、しようというのだ?」
「何、他でもない。姉上の仇討を鍋島家で助太刀仕ろうというのよ。此処では話もできぬ。まずは当家へお迎え申そう」
 氏家がひるんだ隙に、その侍たちは氏家を囲むようにして連れ去っていった。夫人が駈け込んで来た時には、もう侍たちの影は見えなかった。
「まだ、完治には程遠いのに…」夫人は儒者に目を向けた。
「大丈夫でしょうか?」
 儒者は肩をすくめて空を見た。空から細かい雨が降って来た。回りにいた人々がざわついた。それは細長い毛であった。
 人々は不安な面持ちで、今世情を騒がしている怪について噂をしあった。

「…何でも、猫が勝手に屋敷にあがり込んで、行燈の油を舐めていたらしい」
「まさか、油を?猫が?」
「それで、その武家屋敷では、どうしたって?」
「用人がその猫を斬ったそうだ」
「猫を、斬った…」
「そうらしい。ところが次の日から、その屋敷のあちこちに猫が出没したらしい」
「猫が…仲間を呼んだということか?」
「わからないけど、そうらしい。朝、井戸の周囲に猫が集まっていたり、夜、厠にたった女中が、廊下の隅にうずくまって二つの眼を光らせている猫を見たり…」
 河原で洗濯していた侍女は、思わず女たちのうわさ話に引き込まれた。
「そのお屋敷は、どこの家だい?」
 女の一人が顔をあげて答えた。
「何でも、龍造寺って言ってた。ほら、ついこの間、その家の奥方が主人に手打ちになったところだよ」
「あ、それ知ってるよ。確かその家の主人、それから気がおかしくなってしまって…」
「何でもその家に…出るらしいよ」
「出るって、何が?」
「斬り殺された奥方の亡霊がね…」
「またあ。よく見ると『枯れ尾花』ってやつじゃあないの?」
「でも気味悪いよねその猫といい…」
「何か、世の中自体がさ」
「何か、あるよね。正気でないような…」
「こんな時に、お偉方は何やってんだろうね?権力争いしてる場合じゃないよ」
「早く世の中、落ち着いてくれないかねえ…」
「まだ、この先何か起きそうだね…」そう言って女たちは顔を寄せて、互いの眼を見合った。
「あらっ。大変」洗濯物が川を流れて言った。
 侍女がその話を聞いて帰ってくると、寺の中には役人が来て夫人と話をしていた。
「…という訳で、ご苦労だがその龍造寺というお武家の屋敷まで同道願えまいか?」
「はい、わかりました」夫人は頷いた。侍女は夫人の袖を引いた。
「どうしたんです?」
「自殺した人がいるんですって。その死体検分を依頼されたの」
「はい?」侍女の産毛が何かに触られた気がした。侍女は夫人と役人を見送って、女たちの会話を思い出した。
「まだ、この先何か起きそうだね…」
 町は龍造寺の話で持ちきりだった。自殺したのはほかでもない、龍造寺家の当主で、検死した医師によれば、刀で首の血脈を断って死んだとの事。事件は五大老筆頭の徳川家康に報告され、家康は残された龍造寺家の処遇を裁断することとなった。家康は龍造寺の子がまだ幼いことから、当家重臣の鍋島を呼んでその意見を聞いた。鍋島父子は龍造寺家の重臣でありながら、秀吉により直接五万石の大名に取り立てられ、特殊な位置にあった。

 儒者の講義の中で、林羅山がこの事について質問した。
「先生はこの一件をどう思われますか?また、世間で騒がれている猫については?」
 儒者は一呼吸置いて、羅山に向かって笑顔を見せた。
「夫子は怪力・乱神を避け、これを語られなかった。君は、怪猫を信じるのかね?」
 羅山もまた赤い頬を崩してにっこりと笑った。
「私も夫子に倣い、怪力・乱神について語る事を慎みたいと思います。これは、陰で人を引いている輩がいると見ているのですが…」
 理安、意安が羅山に聞いた。
「それでは君は」「お家騒動の類だと?」
 羅山は頷いた。
「現にこの件は内府にまで昇り、今は龍造寺家の処遇問題に発展していると聞きました。継嗣はまだ幼く、重臣の鍋島は自身が大名でもある。まさに弱者と強者の関係と言えるでしょう」そう言って羅山は儒者を見た。儒者は頷いた。
「『大義名分論』という論議がある」
「大義…名分論?」
「古来権力の変遷に際しては、それ相応の名分が必要とされてきた。名分無き者が無暗に権力を握れば、下の者は容易に納得しない。それが常とされれば、下の者はいつでも上を狙おうとするであろう。こうして下剋上の世の中となる。今の日本の事である」
 その場の者は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「だがもし日本が、下剋上の世に倦み、新しい世を望むとするならば、上に立つべき者は、力による支配から、徳による政治に変わらねばならない。勿論…」
 茶屋四朗次郎は、うん、と一言唸ったきり、押し黙った。その眼は宙を泳ぎ、何事かを考えていた。やがて猿回しと目を合わせると、微かに頷いた。
「新しい…世か…」海産王の角倉了以が呟いた。
「うむ、これは…一芸の道においても、よく効く薬でござりまするなあ」そう言ったのは本阿弥光悦だった。
「さよう、天下を取らんとするものには、殊によく効くだろうて」惺窩はそう言って、羅山の肩を叩いた。
「のう羅山」
 羅山は眼を大きく見開いて、惺窩に返事をした。
「まさに金言です。深く胸に刻みました」
「はてしかし、鍋島のこの始末、どうなることやら…」惺窩は半ば独り言のように呟いた。
「あの猫、今度は鍋島家に移ったらしいよ」
「へえ?龍造寺の当主が自殺して、これで一件落着じゃなかったの?」
「うん、そうらしい。今度は当主の魂が猫に乗り移ったらしい。鍋島のお家乗っ取りみたいなものだからね」
「へえ?そう?」
「見方によっては、鍋島が主人を自殺に追いやったともとれるし…」
「うーん。そうなるかなあ…」
 鍋島勝茂が儒者を訪ねて来たのは、それから数日後であった。儒者の『大義名分論』をどこかで聞きつけたらしかった。