北広島にある、福光寺(廃寺)

友達の紹介で、古保利薬師収蔵庫に初めて行ってきた

山口県立美術館の「奈良大和路のみほとけ〰︎令和古寺巡礼」で

長らく静まっていた気持ちに、炭のいこりのような熱を感じてしまった

という話をしたところ

ここを教えてくれたのだった

 

 

自分は若い頃、「みうらじゅん」と「いとうせいこう」の「見仏記」で

仏像にまんまとハマってしまった人の一人だ

当時「かっこいい」「雰囲気がある」「これはユニーク」

というように、ただただ自分の感性頼りで喜んで観ていた

 

御朱印帳を持ったものの、気付けばお気に入りになった寺ばかりに行ってしまい

全く増えることはなかった

そのうち、気軽に行ける環境ではなくなり、いつしか遠ざかっていたのだった

そして、今、古保利薬師収蔵庫に一歩足を踏み入れた時に思ったこと

 

本当に、私たち、何をしていたのだろう?

 

今まで知らなかったことを、とても恥じた

そこにあったのは、かつて私が大好物だった造形の仏達

国宝にこそ指定されていないものの

平安初期の一木造で貞観様式?の薬師如来、日光、月光、千手観音、吉祥天、3体の十一面観音、四天王

がずらりと並んでおり、声が漏れ出るほど

その間に挟まれている、鎌倉らしい素朴な十二神将が、より他の像を際立たせている

 

関西から離れると像のバランスに面白みが出てくるのだけれど

全くもって、関西の仏像と遜色がない、ということが驚きだった

ちょうど、聖林寺の十一面観音(模刻)を観たばかりでもあり

尚更そう感じたのだった

 

仏像あるあるかもしれないが、中央の薬師如来よりも

周りの仏像のほうに個性があるのが面白い

 

こちらの像は手足がなくなっていて、それがこれまでの状況を想像させるのに十分だった

そんな中でも、千手観音

チケットに採用されている像だ

その手は大半が失われているのだが

観音にも関わらず欠損の状態が西洋の天使にも見え、インパクトがあった

 

 

一体どういう経緯で中央から離れたここにそんなものが?

 

その疑問はすぐに、常駐されている方が説明してくださった

地名でもある古保利は「郡」から転じていて

交通の要所でもあり、古来から栄えていた場所(前方後円墳を含む古墳が複数ある)

当時治めていた「凡」氏の氏寺、で

仏師は中央から連れてきたのでは、とのことだった

 

連れてくるには経済力もだけれど、それなりのツテがないと難しいのではないのかしら

「凡」氏も元々は渡来系だったのかしら

などど、妄想を膨らませたりもした

 

その後は吉川氏の持ち物になり、岩国移封の後衰退

地域の方が守られていた、と。

 

あとで、撮影費用をお支払いすると写真を撮れたことに気づいた

7月から9月まで広島県立歴史博物館(草戸千軒ミュージアム)に一部が出張されるようなので

戻ってこられたら再訪したい

そして、付近の古墳もみたい

 

 

 

 

もっと知られてほしいと思う一方で

環境を考えると懸念したりもし、大変複雑な気持ちになった

来訪者が色々な意味で試される場所の一つだ