831日(土)

 【支援】の対になるものを考える





 関東に居れば、【暑さ寒さも彼岸まで】と言いながら、10月の強い陽射しのいく日かを覚悟して過ごした夏の終わり。

 東北に居ると8月中には秋が始まり、彼岸まではまだ暑い日もあってくれるだろうなと思いながら、長袖の用意を考え始める。

 意識をもって楽しまなければあっという間に過ぎ去ってしまう夏に、いまだ戸惑いながら、3回目の東北の夏が過ぎさっていきます。



 私の環境に変化があり、私が東北に居るのも、もう長くないようです。東日本大震災で環境や人生が変わった多くの人間の一人として、私の場合はそれは受動的ではなく、能動的に自分の環境を変えた人間ではありますが、震災後二年半という歳月を経て、次のステップに移ることになりそうです。

 


 現地にとって、【震災】と【復興】が対になるものならば、果たして圏外から被災現地に関わる者にとって、あるいは行為にとって、【支援】と対になるものは何なのでしょうか。




 『被災地に行かなければボランティアはできないのか?!』かつては、そんなことも考えました。もちろん社会の矛盾や、社会システムではカバーできない部分に目を向け行動することがボランティアならば、ボランティアは被災地でなくてもできますし、もちろんそういう行動をしている例はたくさんあります。


 社会システムでカバーできない部分に目を向け、行動することがボランティアならば、その行為をいつまでも続けていくことは、ボランティアとしては何も前進していないことと同義です。そこに問題があり、行動しなければならないことがあるならば、その解決に向けて動くことこそがボランティアであろうと思います。

 ならば、【支援】の対に来るモノは、【社会実現】という類いものではないでしょうか。




 省みれば、【震災】に対する【復興】というモノも、広義の意味において【社会実現】ではないでしょうか。ならば、圏外から被災地に関わった者も、その支援の行為の対に来るものとして【社会実現】へ向けて動くことこそ、支援の終焉であり、卒業過程であろうと思います。




 宮城・岩手・福島に関わりながら活動してきた二年半、もちろんこれらのいづれかの地で【社会実現】に向けて動くことも、支援からの卒業過程でしょうが、被災地で目にし、考え調べてきた様々な社会問題は、いづれも被災地の問題ではなく、震災によって露呈しただけの日本の社会が持つ根源的な社会問題であるならば、【社会実現】のための場所はどこの地であっても良いと思うようになりました。




 私が東北の地を離れるまでの残り少ない期間、少し二年半を振り返りながら過ごしてみようと思います。