奥州封史片奇説余話 5 【韮神山の戦い】





 阿津賀志山防塁を抜いた鎌倉軍の北上ルートは、二手に分かれます。

一方は現在の道路感覚で言えば、国道4号線ルートで白石川⇒阿武隈川沿いに仙台に向かったルート。源頼朝も、このルートで仙台を目指しています。

そしてもう一方が現在の東北道のルート。このルートは【根無藤・四方坂の戦い】を経て、仙台から山形へ抜けるルートを押さえつつ仙台へ向かいます。

どの史書を読んでも、阿津賀志山防塁で指揮をとった藤原国衡は、山形へ抜けようとしています。けれども吾妻鏡に寄るところの藤原国衡の終焉の地は、現在の大河原町(白石川沿い)となっています。それにも関わらず藤原国衡が埋葬されている場所は、蔵王町(東北道ルート)と言われているのです。



【韮神山の戦い】ですが、大河原町に史書の中には照井太郎高直なる人物の記述が思いもかけず詳細に書いてありました。奥州藤原側の武将で韮神山を拠点に大河原町一帯でゲリラ戦を展開しています。そしてなにより、この辺りの領民に親しまれた武将であったようで、照井太郎高直の足跡が大河原町にはしっかりと残されているのです。

韮神山は、白石川の北岸に位置し、白石川沿いに北上しようとする鎌倉軍を迎え撃つ絶好の場所にあります。けれどもこの照井高直は韮神山に籠るのではなく、大川原町の小山田や千塚あたりへ出向いては鎌倉軍を迎撃しています。今でもこのあたりでは鎌倉時代頃と見られる矢じりが大量に見つかると言いほど、大変な激戦地帯であったようです。

大河原町の史書には、この韮神山の照井高直の元に、根無藤の金十郎から援軍の要請が再三にわたりあったと書き記してあります。もちろん鎌倉軍の本体は白石川沿いに韮神山方面に進んできているのですから、援軍要請に応えられる余裕があるわけもありません。それになにより、吾妻鏡で記されているところの藤原国衡終焉の地は、この韮神山の手前、まさに照井高直が韮神山を出て、鎌倉軍を迎撃するためにゲリラ戦を繰り広げていた場所なのです。



とすると、果たして藤原国衡は、この照井高直の目の前で討ち取られたのでしょうか。

大河原町の野史の中で人気の高い照井高直は、この韮神山の戦いで戦死しているとなっています。照井高直と、その妻の墓が並んで建っているところを見ると討死というよりは自死であったのかもしれません。



大河原町や蔵王町、村田町の史書の中には、藤原国衡は吾妻鏡の記述にあるような『柴田群大高宮下の湿田』ではなく、ここで討ち取られたのは国衡の部下であり、国衡自身は傷を負いつつも蔵王町まで辿りつき、蔵王町の曲竹地区、『逃げ屋敷』と呼ばれる屋敷で絶命しているとの伝承があります。

藤原国衡は阿津賀志山の戦いに敗れて羽州(山形)に逃げようとしました。けれども阿津賀志山の北、白石は三沢安藤四朗の勢力下です。阿津賀志山⇒白石⇒蔵王⇒笹谷峠⇒山形のルートは三沢安藤四朗に押さえられています。国衡は三沢安藤四朗の勢力下を迂回して大河原方面から蔵王(根無藤)に向かったのかもしれません。

照井高直のゲリラ戦は、国衡の退却ルートの確保の意味があった。再三再四、照井高直が韮神山から出撃し、小山田・千塚と戦い渡っているのはそのためです。そして国衡を逃がし、照井高直は韮神山を枕に最後まで鎌倉軍と戦ったのではないだろうか。



源頼朝は、811日、この韮神山を越えた地点に位置する柴田町の船迫宿に陣を構え、藤原国衡の首実検を行ったとあります。国衡の死の報が先だったのか、照井高直の死が先だったのか。いづれにせよ吾妻鏡の記述を前提に考えれば、87日に国見の藤田宿に鎌倉軍が到着してよりたった4日の、あまりにも短い攻防が幕を閉じていきます。仙台は榴ヶ岡の辺りに陣を構えていたはずの藤原泰衡は戦いもせずに行方を眩ませているのです。


812日、源頼朝は多賀城の辺りに本陣を構え、その後数日ここに留まっています。藤原泰衡の行方が分からなくなってしまっていたからです。